その日も、日課のような用事をすべて済ませ、冷たい蔵へ戻った。
扉を閉めた瞬間、私は足を止める。殺風景なはずの空間に、決定的な違和感があった。
締め切った蔵特有の埃とカビの匂いに混じって、ほんのり白粉のように甘い香り。
さらに、その奥に——何か焦げたような、喉の奥がざらつく匂い。
甘さと焦げが絡み合い、嫌な予感が背中をなぞった。
次の瞬間。
「ごぉっ!!」
地鳴りのような低い爆発音。わずかな地面の揺れ。
私は反射的に外へ飛び出した。心臓が、肋骨を叩く。
母屋の方から、一本の細い禍々しい煙が、力強く空へ伸びている。
そして、もう一度。先ほどより重い音が響いた。
「ごぉぉっ!!」
恐る恐る煙の発生源へ向かい、物陰からそっと覗く。
そこにいたのは、誇らしげに胸を張る百合だった。
頬は上気し、瞳がきらきらと光っている。
燃え広がる朱色の炎が、百合の横顔を鮮やかに赤く染める。
視線を下に落とすと、そこには原型を留めないほどに焼け爛れた布の山が、火の粉を散らしていた。
ほどけた糸が、炎に舐められて縮れていく。
柄も色も、黒い影に飲み込まれていく。
それが、継母に奪われず、奇跡的に私の手もとに残せた——亡き母の、唯一の形見。
大切にしていた着物だと気付くのに、時間はかからなかった。
母の匂いはもう残っていない。それでも、あれは母だった。
私が『母』と呼べる、最後の形だった。
呆然と燃え盛る火と煙を見つめる私に気づき、百合が歓喜に満ちた、悪意のある笑みを浮かべる。
「あら、お姉さま。見まして?これがわたくしの『華の加護』の力なの。
ちょうどよく、燃やすのに最適な布があったから……試させてもらったのよ」
言葉の端に、わざとらしい上品さが絡む。
それが余計に残酷で、胸の奥がきしんだ。
声が出ない。息だけが白く漏れる。
私が十五歳、百合が十三歳。
これが、妹——朝霞百合の『赤薔薇』の『異能』が発現した瞬間だった。
『赤薔薇』の『異能』の中でも、稀有で強力な能力とされる発火。
母屋からは、それを心底喜ぶ父と継母の高らかな笑い声が響き渡った。
祝福の声。拍手。褒め言葉。
——私には一度も向けられなかったもの。
ちらちらと粉雪が舞い始めた寒空の下、私はもう涙を流すことすらできなかった。
鮮やかなはずの母の着物が、母の遺骨と同じように、灰になっていく。
ひらり、ひらり。黒い灰が舞うたび、私の中の何かが静かに削れていった。
そうして心だけを押し殺され、形だけ大人になった私は、今もこの家の隅の蔵で、存在しないものとして息を潜めて生きている。
——ぽた、ぽた。
裏庭の井戸。水桶から滴る水の音が、私を冷たい現在へ引き戻す。
あれから何年が過ぎても、冬の匂いを嗅ぐと胸がざわつき、息苦しくなる。
雪の気配を含んだ風が肌に触れるたび、あの日の絶望まで、鮮明に蘇ってくる。
今日も私は、裏庭の井戸の前で膝を抱えてしゃがみ込んでいた。
妹・百合の華やかな着物と長襦袢と、継母の立派な帯を抱えて。
——燃やされたのは母の形見だけなのに、私は今も、炎の残り香の中で洗い続けている。
扉を閉めた瞬間、私は足を止める。殺風景なはずの空間に、決定的な違和感があった。
締め切った蔵特有の埃とカビの匂いに混じって、ほんのり白粉のように甘い香り。
さらに、その奥に——何か焦げたような、喉の奥がざらつく匂い。
甘さと焦げが絡み合い、嫌な予感が背中をなぞった。
次の瞬間。
「ごぉっ!!」
地鳴りのような低い爆発音。わずかな地面の揺れ。
私は反射的に外へ飛び出した。心臓が、肋骨を叩く。
母屋の方から、一本の細い禍々しい煙が、力強く空へ伸びている。
そして、もう一度。先ほどより重い音が響いた。
「ごぉぉっ!!」
恐る恐る煙の発生源へ向かい、物陰からそっと覗く。
そこにいたのは、誇らしげに胸を張る百合だった。
頬は上気し、瞳がきらきらと光っている。
燃え広がる朱色の炎が、百合の横顔を鮮やかに赤く染める。
視線を下に落とすと、そこには原型を留めないほどに焼け爛れた布の山が、火の粉を散らしていた。
ほどけた糸が、炎に舐められて縮れていく。
柄も色も、黒い影に飲み込まれていく。
それが、継母に奪われず、奇跡的に私の手もとに残せた——亡き母の、唯一の形見。
大切にしていた着物だと気付くのに、時間はかからなかった。
母の匂いはもう残っていない。それでも、あれは母だった。
私が『母』と呼べる、最後の形だった。
呆然と燃え盛る火と煙を見つめる私に気づき、百合が歓喜に満ちた、悪意のある笑みを浮かべる。
「あら、お姉さま。見まして?これがわたくしの『華の加護』の力なの。
ちょうどよく、燃やすのに最適な布があったから……試させてもらったのよ」
言葉の端に、わざとらしい上品さが絡む。
それが余計に残酷で、胸の奥がきしんだ。
声が出ない。息だけが白く漏れる。
私が十五歳、百合が十三歳。
これが、妹——朝霞百合の『赤薔薇』の『異能』が発現した瞬間だった。
『赤薔薇』の『異能』の中でも、稀有で強力な能力とされる発火。
母屋からは、それを心底喜ぶ父と継母の高らかな笑い声が響き渡った。
祝福の声。拍手。褒め言葉。
——私には一度も向けられなかったもの。
ちらちらと粉雪が舞い始めた寒空の下、私はもう涙を流すことすらできなかった。
鮮やかなはずの母の着物が、母の遺骨と同じように、灰になっていく。
ひらり、ひらり。黒い灰が舞うたび、私の中の何かが静かに削れていった。
そうして心だけを押し殺され、形だけ大人になった私は、今もこの家の隅の蔵で、存在しないものとして息を潜めて生きている。
——ぽた、ぽた。
裏庭の井戸。水桶から滴る水の音が、私を冷たい現在へ引き戻す。
あれから何年が過ぎても、冬の匂いを嗅ぐと胸がざわつき、息苦しくなる。
雪の気配を含んだ風が肌に触れるたび、あの日の絶望まで、鮮明に蘇ってくる。
今日も私は、裏庭の井戸の前で膝を抱えてしゃがみ込んでいた。
妹・百合の華やかな着物と長襦袢と、継母の立派な帯を抱えて。
——燃やされたのは母の形見だけなのに、私は今も、炎の残り香の中で洗い続けている。
