無華の花嫁

「心配するな。朝霞家には許可を取ってある。安心して休むといい」
「本当……ですか?」
「……ああ」

その一言に、身体の芯から張り詰めていた緊張が、すうっと抜け落ちていくのがわかった。
肩が落ち、息が深くなる。
——この人は、私を責めないのかもしれない。
そんな考えが、初めて胸の中に灯る。

「名を、聞いてもいいか?」
「……そんな、名乗れるような名前では……」
「それを決めるのは、俺だ」

名乗る——。
それが、こんなにも難しいことだったなんて。
誰も呼んでくれないから、存在してもしなくても同じだと思っていたのに。
口に出すだけで、胸が痛む。

「……すみれ、と申します」
「すみれ。よい名だ」

自分の名前が、誰かの口から、普通に——しかも肯定とともに呼ばれる。
それだけのことなのに、胸の奥が熱くなる。
痛いのではない。温かい。
知らなかった種類の熱に思えた。

「俺の名は暁臣(あきおみ)。五条暁臣だ」
「……五条様……」
「……まあ、今はそれでいい」

柔らかな声とともに、布団を丁寧に掛け直される。
その仕草が、当たり前のように優しくて、胸がまた勝手にきゅっとなる。

撫でられる髪の感触に、まぶたが重くなる。
怖いのに、守られているようで、安心してしまう、不思議な感覚。
けれど、抗う力はもう残っていなかった。

そうして私はまた、生まれて初めて感じるような、深く柔らかな眠りへ沈んでいった。



次に気がつくと、窓の外はすっかり夕暮れの色に染まっていた。
薄紫に滲む空の端が、雪雲の下でゆっくりと群青へ沈んでいく。

どれだけ眠っていたのだろう。
恐れることなく眠った、という事実がまず信じられなくて、胸の奥がそわりと落ち着かない。

「顔色も良さそうだな。大丈夫なら湯に入るといい」

静かな声が、あまりに近いところから降ってきた。

「寝込んでいる間は、身体を拭いてやることしかできなかったからな」

ベッドの横に座っていた五条様が、本を閉じる。
ページを撫でる指の所作まで、無駄がなくて綺麗だった。

——湯……?

私なんかが、湯に……?
蔵にはもちろん、そんな贅沢はない。
湯を沸かすことはあっても、それは継母と百合のため。
朝霞の家の湯殿に、私が足を踏み入れたことなど、物心がついてから一度もない。

それに、湯に入るということは——

「あの……そんな……恐れ多いです」
「女中を呼ぼう」

やっと絞り出した声は、自分でも情けないほど細い。
私が言い足す間もなく、五条様は立ち上がり、扉の外へ出てしまった。
どうしよう。
誰かの手を煩わせるなんて……それだけで、怒号が飛んでくる気がして、肩がすくむ。

「……私、一人で……」
「まだ本調子ではございません。ご無理はいけません、すみれ様」

現れた女中さんは、驚くほど柔らかな声でそう言った。
すみれ様——呼ばれるたびに、胸の奥がむず痒くなる。
うなずくしかできず、そのまま隣の浴室へ案内された。

扉が開いた瞬間、檜の匂いがふわりと鼻をくすぐる。
湯船は、朝霞の屋敷のそれの倍以上はあるだろうという広さで、湯が絶え間なく流れ、湯気が白く揺れていた。

大きな窓の向こうには、灯りに淡く縁取られた夜の庭園。
闇に溶けてほとんど見えないのに、広さだけははっきり伝わる。
——ここは、私の知っている世界ではない。

「……なんというところに、来てしまったんだろう」

畏怖で、背中がひやりと粟立つ。
湯に浸かりながら、思い切って問いかけた。

「あの……五条様が、私の看病を……?」
「はい。殿下が率先されて……それはもう甲斐甲斐しく、お世話なさっておられましたよ」

女中さんがさらりという、その一言で、頭の中が真っ白になった。

……やはり。
裸を、五条様に見られてしまったかもしれない。

仮にも伯爵家の人間が、皇族の血を引く殿方に裸を見られるなんて。
許されない粗相——そう教えられてきた。
なのに、私には叱る者も、守る者もいない。

だったら、この優しさの理由は一つしかない。

私はきっと、五条様が百合となのか、他の誰かとなのか。
その方と正式に婚約されるまでの、ほんの一時の慰み者として、ここに置かれたのだ。
『無華』の女など、ぞんざいに扱うのに、これほど都合のいい存在もない。

そう考えた途端、父と継母が私の滞在をあっさり許したことも腑に落ちる。
朝霞の家にとって私は、厄介で迷惑な荷物。
面倒な手続きなく消えるなら——むしろ好都合だと思われたに違いない。

婚約が整った後は、どうなるのだろう。
遊郭に売られる?
それとも、もっと酷い場所……。
価値のない私でも、物珍しがる人間がいるのかもしれない。

『無華』として生まれた人生なんて、きっと、こんなものだ。

湯から上がると、肌触りのよい新しい寝巻きが用意されていた。
女中さんが着せようとするのを必死で断って自分で袖を通すと、今度は髪の水気を丁寧に拭き取ってくれる。
暖炉の前で櫛を入れられ、乾くのを待つ間、ふわり、と出汁の優しい香りが漂った。

テーブルの上のお盆。
湯気の立つ白いお粥と、ほんの少しの赤い梅肉。
匂いだけで、飢えていた腹が『きゅう』と情けなく鳴る。

——聞こえた、だろうか。
そう思った瞬間、合図のように扉がノックもなく開いた。

「さっきより、随分よさそうだな」
「……五条様」
「食べられそうか」

五条様は椅子を引き、あまりに自然に、当たり前のように私の隣へ腰を下ろした。
そして匙ですくったお粥を、唇の前へ差し出される。

「……っ」
「遠慮は要らない。医者にも言われている。少しずつでいい、口に入れろ」
「……あの、私、自分で……できますから……」
「気にするな」

気にするな、だなんて。
そんなふうに言われて、気にしないでいられるわけがない。
高貴で、恐ろしいほど遠い方に、食事まで世話をさせている——
それだけで、罪悪感が喉を締める。

「早く。腕が疲れてくる」

叱責ではなく、困らせるような声音で言われると、反射的に口が開いてしまった。
舌の上に乗るのは、やわらかな温かさ。
米の甘みと、出汁の旨みが、じんわりと身体の奥へ沁み込む。

「……美味しい……」
「そうか。なら、もう一口だ」

意識せずこぼれた本音に、五条様の目尻が、ほんの少しだけ緩む。
せかされることはない。
私がゆっくり飲み込むのを待って、匙がまた、優しく唇に触れる。

——誰かに世話を焼かれるなんて、いったいいつ以来だろう。
痛くも怖くもない触れられ方があるなんて、知らなかった。

十口ほど飲み込んだ頃には、まぶたがまた重くなる。
身体が、ようやく許してもいい、と言っている気がした。

「……梅干しが好きなのか?」
「……え……あっ……」

恥ずかしい。
初めて食べた、ほんのり甘い梅があまりに美味しくて……。
匙に添えられた梅肉だけを、無意識に先に舐め取ってしまっていたのだろう。
まさか、そんな卑しい所作まで見られているなんて。

「……ごめんなさい」
「謝ることではない。献上品でたくさんある。次はもっと持ってこよう」

次。
その言葉が、胸の奥で小さく跳ねた。
明日も、ここにいていいのだろうか。
問いを飲み込み、喉の奥にひっそりと残る怯えを、湯気ごと胸の奥へ押し込める。
それでも——この温かさだけは、どうか嘘ではありませんように。
私はただ、匙を持つこの方を、もう一度見つめた。