無華の花嫁

微睡の底から、ゆっくり浮かび上がるように、うっすらと目を開いた。
最初に視界へ入ってきたのは、今まで見たこともない——美しい折り上げ天井。

空気は春のように柔らかく暖かい。
どこか檜のような、心がふっと落ち着く上品な香りが漂っている。
身体を覆う布団は驚くほど軽いのに、ふんわり厚みがあって、優しく心地いい。
……寝具が、こんなに『怖くない』なんて。

額には、ひんやりと濡らされたタオルがあてられていた。
喉はまだ焼けるように痛むけれど、あの激しい咳は出る気配がない。
胸の奥の、きしむような痛みも——今は、感じない。

——ここは、いったいどこ?

状況が飲み込めないまま、視線を横に向ける。
椅子に深く腰掛け、腕と脚を組んだまま眠っている男性の姿があった。

「……!?」

身体を起こし、慌てて周囲を見渡す。

優雅な暖炉。柔らかな布地のカーテン。
足もとには、綺麗に敷き詰められた厚い絨毯。
目に入る家具は、私でもわかるくらい立派で、高価そうなものばかりだ。

身につけている寝巻きは、いつの間に着替えさせられたのかわからない。
けれど肌に触れる木綿の感触は、私の擦り切れた着物とは比べものにならないほどしっかりしていて、清潔で、温かい。
——こんなものを、私が着ていていいわけがない。

それに……これが、ベッド……?

そっと手の平を沈めると、雲の上にでも落ちたみたいに、ふかふかと沈み込んだ。
畳と板の上で、硬い布団に丸まっていた日々が嘘みたいで、逆に怖くなる。

ベッド脇の小机には、見慣れない薬の包みがいくつも積まれていた。

ひょっとして……この方が、お医者様を呼んでくださったの……?

なんてことだろう。
朝霞の屋敷で、私のために医者が呼ばれるなんて、一度たりともなかったのに。

いったいいくらかかったのか、想像もつかない。
こんなことが父や継母に知られたら——。
怒鳴られるだけでは済まない。
それに、見ず知らずの優しい方にまで迷惑がかかってしまう。
私のせいで、誰かが傷つくのは、もう嫌だ。

お礼を言わなければいけないのに、喉が強ばって言葉が出てこない。
胸の奥で、焦りだけが膨らむ。

ベッドから足を下ろすと、男性を起こさないように。音を立てないように。
……逃げるように、ドアへ向かう。

どれくらい眠っていたのだろう。
脚に力が入らず、ふらつきながらドアに辿り着き、取っ手に手を伸ばすのがやっとだった。

お礼も言えずに、逃げる自分が情けない。
でも、それより早く家に戻らなければ。
父と継母に何を言われるか。
この人を巻き込んで、もっと酷い目に遭わせてしまわないか。
そればかりが頭の中をぐるぐる回る。

大きな扉の取っ手に手をかけ、ゆっくり押してみる。
ガチャ、と音はする。けれど、それだけで動かない。

今度は引く。びくともしない。

鍵が……かかってる……?

そう気づいた瞬間、顔のすぐ横から伸びてきた手が、扉をドン、と押さえつけた。
肩が跳ね、息が止まる。

「何をしている?」

背後から落ちてきた低く、よく響く声に、ビクリと全身が固まった。
恐る恐る振り向けば——

さきほど椅子で眠っていたはずの、漆黒の制服の彼が、無表情で立っていた。
眠っていた気配は消え、瞳だけが静かに鋭い。
逃げ道を塞がれたことが、遅れて理解として刺さった。

——起こしてしまった。
——怒られる。今度は、何と言われるだろう。

反射で身体が縮こまり、握っていた取っ手から指が震えながら離れていく。
背中が冷えて、息が浅くなる。
逃げ場がない、と身体が先に理解させられる。

「あ……あの……」

喉がひきつり、言葉が絡まった。
どんな言葉を選んでも、怒号が飛んでくるのではないか。
振り上げられた手が頬を打つのではないか。
……それが当たり前の世界で生きてきたから、怖さだけが先に立つ。

嫌な想像ばかりが頭を埋め尽くす中、扉を押さえているのとは反対の、大きな手が、私の顔のあたりへゆっくり伸びてきた。

その手が何をするのか怖くて、反射的にぎゅっと目をつむる。

——殴られる。

頬に力を入れて覚悟したのに、痛みはいつまでたっても訪れなかった。
代わりに、顎を支えられ、優しく上へ向けられる感触だけが伝わってくる。
恐る恐る目を開けると、初めて正面から見上げた彼の顔は——
驚くほど落ち着いていて、そして、どこか優しかった。

真っすぐな黒い瞳。
その奥に、怯えきった私の顔が小さく映っている。
逃げることも、隠すこともできない距離で、見られているのに——
なぜか、刺される感じがしない。

「ああ。やはり、美しい瞳だ」
「……え……?」

美しい?
この、『無華』の証で。忌み嫌われ続けてきた、左右の色の違う瞳が——?

実の母にすら『忌々しい』『抉ってやりたい』とまで言われた目。
その言葉が一気に蘇り、喉の奥がぎゅっと締めつけられた。
目の奥に熱いものが滲むのを感じた。

呆然としている間に、彼の腕がするりと腰の下へ回された。
身体ごと、軽い荷物のように軽々と抱き上げられ——
私は抵抗する力もなく、そのまま柔らかなベッドへ戻される。

「まだ病み上がりだ。寝ていろ」
「……あ、あの……家に、戻らないと……」

——しまった。

やっと出てきた最初の言葉が、感謝でも謝罪でもなく、ただ自分の保身だなんて。
なんて卑しいのだろう。
この人がしてくれたことを思えば思うほど、情けなさが胸を刺す。

再び伸ばされた手に、無意識に身がすくんだ。
けれど落ちてきたのは、叩くための手ではない。
それは優しく頭を撫でる、暖かな大きな手の平だった。

撫でられる。
そんなこと、いつぶりだろう。
痛みを伴わない『触れられる』という行為が、こんなにも怖くて、こんなにも——ほどける。