【書籍化】無華の花嫁〜蔵に囚われた少女は、黒薔薇の殿下に溺愛される〜

——その次の瞬間だった。

糸が切れたように、私はその場に崩れ落ち、冷たい雪の上へ座り込んでしまった。

全身に力が入らない。
膝も、指先も、まるで自分のものではないみたいに感覚が遠い。
手をつこうとしても腕に力が入らず、身体を支えることさえできなかった。

息を吐けば白く霞むのに、胸の内はどこまでも黒く沈んでいく。

いけない。

こんなところを継母や百合に見つかったら、今度こそただでは済まないだろう。
井戸の前で座り込んでいるだけでも、きっと叱責される。
みっともない、穢らわしい、客のいる日に何をしているのだと、どれほど責められるかわからない。

早く逃げなければ。
立ち上がらなければ。

そう思うのに、熱のせいか、凍える寒さのせいか、身体はもう私の言うことを聞いてくれない。
足先に力を入れようとしても、何も返ってこない。
ただ雪の冷たさだけが、じわじわと寝間着を通して染み込んでくる。

——でも。

……もう、疲れた。

ただひたすらに、人目を避けるように息を潜めて、怯えながら続けるこの生活に。
息をするだけで叱られ、目を上げるだけで殴られ、存在するだけで罪になる日々に。

朝が来るたびに、今日も怒鳴られずに済むだろうかと怯える。
夜になれば、明日もまた同じ一日が始まるのだと知っている。
何一つ良くならないまま、ただ苦しさだけが積み重なっていく。

この先の人生の辛さを思うくらいなら、いっそこのまま雪の中で凍えてしまった方が、どれほど楽か。
そんな弱い考えが、ふと、頭をよぎった。

——眠ってしまえば、もう何も感じなくていい。
寒さも、痛みも、恐ろしい声も。
明日を怖がる必要もなくなる。

けれど、そのたびに、姉のように慕ったあの使用人の最後の言葉が、鋭い棘のように胸へ刺さる。

『いつか……お嬢様を大切にしてくれる方が、きっと現れますから……!』

それは心臓の奥に深く刺さったまま抜けない棘。
あるいは、この惨めな生を無理やり繋ぎ止める呪い。

痛いのに、捨てられない。
捨てた瞬間に、私が本当に終わってしまいそうで。
あの人の優しさまで裏切ってしまうようで、どうしても手放せなかった。

「……そんな人、いるはず……ないのに」

か細い声が、白い息となって空に滲み、そのまま夜の冷気に溶けて消えていく。
その刹那——

「大丈夫か?」

耳慣れない、深く落ち着いた若い男性の声。
私は反射的に顔を上げてしまった。
目の前には、見たこともないほど豪奢で洗練された洋装の制服をまとった、背の高い男性がいた。
冷たい雪の上に躊躇なく膝を折り、目線を合わせるようにしゃがんでいる。

流れるような漆黒の髪。
黒曜石のように深く、すべてを見透かすような瞳が、まっすぐこちらを見つめていた。

……私を、見つめて——くる?
いけない。
この瞳を、見られてしまった——!

胸が大きく跳ね、視界がぐらりと揺れる。
頭の中が真っ白になり、私はパニックのまま、慌てて袖で顔を覆い隠した。
『無華』の印である、左右の色の違う忌まわしい瞳を知られたら。
この朝霞家に『無華』の娘がいると、今日の大事な客人にばれてしまったら。

それを父と継母が知ったら——
今度こそ、私は殺されるかもしれない。

「ごめんなさい……大丈夫です……!何もありませんから……」

必死に、掠れた声でそう告げる。
喉は痛み、声は震え、少しも大丈夫ではないことくらい、自分でもわかっていた。
けれど、それでもそう言うしかなかった。
男性は一瞬、息を飲んだようだった。

「大丈夫には、とても見えないが」

低い声が、静かに、けれどはっきりと言い切る。
その響きに責める色はないのに、私は余計に怖くなった。

そして——私の濡れた肩へ、手が伸びてくる気配。
その瞬間、私は反射的に身をすくませた。

人に触れられるのが、酷く怖い。
叩かれる、掴まれる、引きずられる。
身体が勝手にそう思ってしまう。
怖くて、怖くて、息が詰まる。

なけなしの気力を振り絞り、よろめきながら立ち上がる。
足もとはおぼつかず、今にも転びそうになる。
それでも、ここにいてはいけないという思いだけで、どうにか身体を動かした。
顔を上げないまま彼に背を向け、雪を蹴って駆け出した。

この人が、今日、家に来ている大切なお客様ではありませんように。
そして私を見たことを、誰にも、絶対に話しませんように。

それだけを祈りながら、雪の中を、自分の居場所である蔵へ逃げ戻る。
中へ入るなり扉の鍵を閉め、誰にも聞こえぬよう気配を殺して布団へ潜り込んだ。
息を潜め、震える手を強く握りしめる。
心臓の音が、耳の裏側でどくどくと鳴っていた。

なんてことだろう。
今日が百合の『人生を決める大事な日』だと知っていたのに。
私は、一番見つかってはいけない相手に見つかったかもしれない。

どうか、気付かれないで。
どうか、この家の人間にも知られないで。
そう何度も胸の中で繰り返す。

膝も、指先も、自分のものではないみたいに感覚が遠い。
熱に浮かされた頭は重く、咳を押し殺すたび胸が痛んだ。
それでも私は、布団の中で小さく身を縮め、この嵐みたいな時間が過ぎ去るのを、暗闇の中でただ待った。