無華の花嫁〜蔵に囚われた少女は、黒薔薇の殿下に溺愛される〜

「榊原、お前のコートも寄越せ」
「ええっ!?」
「何だ?嫌なのか?」
「もー……わかりましたよ。ご随意にどうぞ」

追加のコートを娘に掛け、手袋越しに、頬へ触れた。
触れた瞬間、熱が跳ねる。
先ほどよりも熱い。——増すばかりだ。

一刻も早く医師に診せたい。
この苦しみから、早く楽にさせてやりたい。
腕の中で震える体が、こちらの焦りまで煽る。

けれど、車輪が雪に深く取られ、思うように車が進まない。
車体が揺れるたび、胸の奥で何かが苛立った。
焦燥だけが、静かな車内に満ちていく。

外は変わらず雪が降り続けるのに、腕の中の熱は異常なほどに上がっていく。
その熱が自分のものなのか、彼女自身の高熱なのか。
抱きしめ続けるうちに、境目がわからなくなっていた。



「酷い気管支炎からの肺炎でしょう。深刻な栄養失調も起こしています」
「そうか」
「このまま放置されていたら、今夜か明日には手遅れでしたな」

医師は眉根を深く寄せ、聴診器を外しながら淡々と告げた。
その言葉が、鉛のように胸へ沈む。

「しばらくは高熱が続きます。厳重に安静にさせ、徐々に栄養のある物を食べさせてください」
「ああ」

胸に当てられた聴診器の跡が、彼女の薄い肌に痛々しく赤く残っている。
荒く上下する胸の動きと、『ゼイゼイ』と擦れる呼吸音が、耳について離れない。
眠っているのに、苦しさだけがはっきりと伝わってくる。

「部屋の火を絶やすな。氷嚢も絶えず用意しろ。湯冷ましは常に。薬は時間を守れ」
「承知しました、殿下」

ベッド脇の椅子に腰掛ける。
濡れた髪を乾いたタオルで挟み、額に張り付いた解けかけの前髪を指先で耳の後ろへ払った。
その動きさえ、乱暴にならぬよう意識する。

どこに触れても、手袋越しでも伝わる感触は驚くほど細い骨ばかりだ。
肩も、手首も、指も。
枕もとの洗面器には、先ほどまで続いていた激しい咳のせいか、血が滲んだ痰が少し混じっていた。

——よく、この状態で生きていたものだ。
いや。生きていた、というより、ただ耐えていたのか。

「……さむ、い……」

掠れた、助けを求める声が布団の奥から漏れた。
閉じたまぶたの下で長い睫毛がかすかに震え、唇が青白く乾いている。

掛け布団の端を整えながら、自分の手を彼女の小さな手の上に重ねた。
指先から灼熱の熱と、止まらない微かな震えが伝わってくる。

「もう少しの辛抱だ。すぐに楽になる」

返事の代わりに、苦しげな咳が一つ。
細い喉が震え、呼吸が乱れるたび、胸の奥がざわりと軋むのを感じる。
——この音を、止めさせたい。

夜が更けても、部屋を離れることができず、氷嚢の水がぬるくなればすぐに取り替え、乾いた唇に湯冷ましをそっと含ませる。
飲み込む力も弱いのか、唇から零れれば、指で受け止めて静かに拭った。
素手でなくとも感じる唇の熱がわかるのが、腹立たしいほどだった。

「……ごめんなさい……」

熱に浮かされたうわ言のように、彼女は何度も繰り返す。

「ごめんなさい……私が……うまれて、きたから……」

その自己否定の呪いを聞くたび、眉間に深い皺が刻んでしまう。
誰が、そんな言葉を彼女の骨にまで染み込ませた。

「謝る理由など、どこにもない」

低く呟き、握った手にほんの少し力を込めた。

「謝るべきなのは——お前をここまで追い詰めた者たちだ」

返事はない。
けれど、握っていた手が、かすかに、必死に握り返してきた。
頼るというより、掴まる。溺れる者が唯一の浮き輪へ縋るような、切実な力加減で。

「……大丈夫だ。俺がそばにいる」

誰に向けたともつかない言葉を落とし、彼女の額を伝って滑り落ちた汗を指先で優しく拭った。
窓の外で雪は、まだ静かに、延々と降り続いている。
けれどこの部屋だけは、彼女の熱と、絶え間なく燃え続ける暖炉の明かりが、夜を通して消えることはなかった。

一つ、深く呼吸を整える。
そして部屋の外で控える榊原へ、低い声で告げた。

「朝霞家に伝えろ。娘はしばらく五条家で預かる。一切の面会は認めない」
「承知いたしました」
「それと……朝霞家と、この娘について。調べてほしいことがある」

言い終えるとすぐ、視線はもう一度、眠る彼女へ戻る。
——この小さな命を、二度とあの家へ返す気はない。