無華の花嫁

「殿下、どちらに……!!」

制止する伯爵の声を背に、足を止めることなく進む。
雪に覆われた木立の間に、ぽつんと小さな蔵が見える。
屋敷の『外れ』。人の気配が薄い場所。
そして、あの冷たい『空白』の気配が、ここで強く脈打っていた。

人があまり寄らないのだろう。
蔵へ続く足跡は少ない。——小さな足跡が、いくつか。
降り積もる雪が、それを懸命に隠そうとしている。
まるで、ここに誰かがいること自体が『罪』だとでもいうように。

その足跡を消さぬよう、慎重に扉へ近づく。
すると中から、わずかに、しかし激しい咳の音が漏れてきた。

間違いない。先ほどの娘だ。ここに隠れている。

「五条殿下!五条殿下にお見せできるものはここにはございません!何卒お戻りを……!」
「構わない」

伯爵の必死の制止を撥ね除け、扉の前まで進む。
中からはさらに激しい、苦しげな咳。
その音が、なぜか胸の奥を強く軋ませた。
——不快ではない。痛いのだ。

「五条殿下!」

もう理屈ではなかった。
彼女が心配なのか、ただもう一度あの瞳を見たいのか。
それすら判別できないまま、躊躇なく蔵の重い扉へ手をかける。
開けると、湿った冷気と古い埃の匂いが、顔へまとわりつく。

薄暗い中に、薄い布団の膨らみが一つ。
小さな人の気配が、震えている。

考えるより先に、駆け寄る。
布団にうずくまり、全身をガタガタ震わせ、苦しげに息をする——先ほどの娘。

見つけた。

俺の——。

「ごほっ、ごほっ……!」

喉が裂けるような咳。呼吸は浅く、細い「ヒューヒュー」という音が混じる。
手袋越しに触れた手首は、火を噴くような灼熱なのに、身体全体は凍える小鹿のように制御不能に震えていた。
熱と寒さが同居している。——危険な熱だ。

その苦しさに耐えている健気さに、理性が揺さぶられる。

「五条殿下!困ります!!手をお放しください!」
「すぐにでも医師に診せなければならない」
「わ、我が家で医師を呼びますので!どうぞお手を煩わせぬよう……!」

医師に診せる?
この雪の日に、不衛生な蔵の片隅で一人放置しておいて、いまさら何を言う。

娘の肩へ手を回す。
驚くほど華奢で、薄い。骨ばった肩甲骨の形が、布越しにわかる。
自分のコートを脱ぎ、熱を帯びたその身体へかけてやった。
抱き上げようと力を込めると、体重は子供みたいに軽い。軽すぎる。

——これだけで充分だ。
『無華』の娘が、この屋敷でどんな扱いを受けてきたか。想像は容易かった。

「おろ、して……ください……私は、ここに……いなければ……」
「娘もこう言っておりますので!殿下!」
「娘?……己の娘を、このようなところに追いやっているのか!?」

蚊の鳴くような、か細い声。
まさかこの娘が伯爵の娘だったとは。
それでも父を庇おうとする——その無垢さが、余計に胸を締め付けた。

言い合う間にも、彼女の熱が急激に上がっているのがわかる。
手袋越しの手にも、抱き寄せた胸にも、痛いほど伝わってくる。
呼吸は浅く、声にならないのか、彼女の口からは咳だけが漏れる。
咳のたびに胸を抑える仕草が入り、痛みが走っているのが見て取れた。

「どけ。五条家へ連れて行く。今すぐ医師に診せる」

なおも止めようとする伯爵の言葉には、もう耳を貸さない。
強い力で娘を抱え、蔵を出た。

遅れて追いかけてきた側近の榊原と、朝霞家の者たちが、驚愕の表情で立ち尽くしている。
雪の中で、その顔色だけが妙に浮いて見えた。

「榊原。車を急ぎ回せ。すぐに医師の手配を」
「……はっ!」

その中には、百合と名乗った伯爵令嬢の姿もあった。
整った顔は驚愕で醜く歪み、俺が『無華』の娘を抱えている光景を、呆然と見つめている。
唇が震え、声にならない息が漏れる。

「なぜ……なぜ、お姉様を……」

その言葉が落ちた瞬間、胸の奥で、何かが冷たく決まった。
——姉、だと?
ならば、なおさら許すことなどできるわけがない。