無華の花嫁

……なんだ、あの娘は。

この寒空の下、濡れた薄い衣で井戸の縁にしゃがみ込み、今にも折れそうな体で——
それでも必死に立ち上がって、影のように走り去っていく。
足もとの雪を蹴る音すら弱々しく、けれど『逃げなければ』という切迫だけが、彼女の背を押していた。

雪のように白い肌。
霜焼けか、あるいは熱のせいか、頬には痛々しい赤みが差している。
その虚ろで儚い姿は、伯爵家の豪奢な設えとあまりにも対照的だった。
それは、この屋敷の中で、彼女だけが『別の季節』を生きているみたいに冷たい。

なにより——

吸い込まれるような、揺れる虹彩を纏う瞳。
雪明かりを映し込んだ、美しい紫陽花のような、神秘的な瞳だった。

見上げてきたその瞳に、一瞬どころか呼吸すら忘れるほどの衝撃を受けた。
喉が鳴り、胸の奥がと締めつけられる。
あまりの衝撃と、抑えきれない本能的な衝動に、無意識に手を伸ばす。
——触れたい。確かめたい。冷えているなら温めたい。
そんな衝動は、本来、彼の人生に存在しないはずだったのに。

伸ばした手は虚しく宙を掠め、雪の中を逃げていく華奢な背中を、ただ茫然と見送るしかなかった。

「……まさか、俺が。自分から触れたいと思う相手がいるとは」

『黒薔薇』の『華』は強すぎるがゆえに、他者との距離を測ることに慣れすぎている。
迂闊に近づけば相手の『華』を焼き払いかねない。
——だから、常に人と自分を隔てて生きてきた。
手袋は鎧であり、礼節は壁であり、冷静さは生存の術だった。

それなのに。
先ほどは気が付けば身体が勝手に、彼女の冷たくなった頬へ触れようとしていたのだ。
理性が動きだす前に、指先が動いた。
——恐ろしくて、同時に、どうしようもなく切実だった。

片目だけ色の違う瞳。
あれは、この国で忌み嫌われる『無華』の印だったか。

噂に聞いたことはあっても、実際にその瞳を見るのは初めてだった。
忌み嫌われ、家の隅に隠されるはずの『無華』が——
まさか、あれほど美しく、人の心を掴んで離さない瞳だったとは。

会食の席へ戻っても、脳裏から彼女の蒼白な横顔と、必死に逃げる姿が離れない。
杯を上げても、言葉を返しても、意識の底で彼女の息遣いだけが残響のようにこだまする。

当然だが、この場で、あの娘の話題が出ることは一度もない。

それも道理だ。
『無華』とは一万人に一人ほどしか生まれず、短命に終わることも少なくないと言われる。
『華』の強さがすべてとされる『華族』の家で、『無華』の存在など最初から『いないもの』として処理されるべき、邪魔でしかない。
——だから語られない。語った瞬間に、恥が露見するから。

……それでも、あの決定的な空白は何だ。

伯爵夫妻と意味のない世辞を交わしながらも、意識の半分は窓の外、井戸の方向に向けられたままだった。
雪は先ほどより大粒になり、窓越しにもその冷たさと重さが伝わってくる。

あの娘は、本当に大丈夫だろうか。

熱に浮かされていたあの様子を思い出すだけで、胸の奥が自分のものではないように軋んだ。
それは焦りに似ていて、痛みにも似ていて、——どれでもない。
ただ、放っておけないという、理屈の通らない感覚。

「朝霞殿。帰る前に少し、庭を歩いても構わないだろうか」
「え、この雪の中を、でございますか!?い、今すぐ傘をご用意いたしますので——」
「不要だ」

傘を探す時間すら惜しい。
有無を言わさず席を立ち、まっすぐ、先ほどの井戸のある方角へ向かう。

そこに、まだ彼女の微かな気配が残っているような気がしてならなかった。

井戸へ辿り着いても、当然彼女の姿はもうない。
母屋の脇を抜けるように走り去った——向こう側にある裏手の道。
冷たい足跡は、雪にすぐ覆われてしまっている。

自然と、その細い道の方へ目をやる。
すると脚が、意思とは無関係に動き出していた。
——追いかけるな、と理性が言う。
——追いかけろ、と本能が言う。

そして、本能のほうが、ほんの少しだけ強かった。