無華の花嫁

「ごほっ、ごほっ」

冷たい水を浴びたまま蔵へ戻ったものの、濡れた髪を拭くことすらできない。
ぐしょ濡れの着物を脱ぎ捨て、薄い寝間着に着替える。
少しでも寒さを凌ごうと布団に潜り込んでも、暖房など何もない蔵の中では震えは止まらない。
むしろ骨の奥から、がたがたと揺すられる。
やがて、震えに追い立てられるように咳が出始めた。

息を吸うたび、喉がひりつく。肺が痛い。
咳を堪えようとすればするほど、体の奥から突き上げられてくる。

もし、この状況で風邪などひいたら——
継母から、どんな罵倒と懲罰が待っているか。
想像するだけで身が竦み、寒さとは別の震えが増していく。
『怠け者』『穢れ』『役立たず』——言葉だけで済むはずがない。

朦朧とする頭を抱えながら、せめて喉の掠れと渇きだけでも癒したくて、私はふらつきながら井戸へ向かった。
扉を開けた瞬間、冷気が刃のように頬を切る。
頭に、肩に、そして素足に落ちる雪が、容赦なく体温を奪っていく。

やっとの思いで汲み上げた氷のように冷たい水を、柄杓ですくい、喉を潤す。
——その次の瞬間。

糸が切れたように、私はその場に崩れ、冷たい雪の上へ座り込んでしまった。

全身に力が入らない。
膝も、指先も、まるで自分のものではないみたいに感覚が遠い。
息を吐けば白く霞むのに、胸の内は黒く沈んでいく。

いけない。
こんなところを継母や百合に見つかったら、今度こそただでは済まないだろう。
早く逃げなければ。立ち上がらなければ。
そう思うのに、熱のせいか、凍える寒さのせいか、身体はもう私の言うことを聞いてくれない。

——でも。
……もう、疲れた。

ただひたすらに、人目を避けるように息を潜めて、怯えながら続けるこの生活に。
息をするだけで叱られ、目を上げるだけで殴られ、存在するだけで罪になる日々に。

この先の人生の辛さを思うくらいなら、いっそこのまま雪の中で凍えてしまった方が、どれほど楽か。
そんな弱い考えが、ふと、頭をよぎった。
——眠ってしまえば、もう何も感じなくていい。

けれど、そのたびに、姉のように慕ったあの使用人の最後の言葉が、鋭い棘のように胸へ刺さる。

『いつか……お嬢様を大切にしてくれる方が、きっと現れますから……!』

それは心臓に深く刺さったまま抜けない棘。
あるいは、この惨めな生を無理やり繋ぎ止める呪い。
痛いのに、捨てられない。捨てた瞬間に、私が本当に終わってしまいそうで。

「……そんな人、いるはず……ないのに」

か細い声が、白い息となって空に滲み、消えていく。
その刹那——

「大丈夫か?」

耳慣れない、深く落ち着いた若い男性の声。
私は反射的に顔を上げてしまった。

目の前には、見たこともないほど豪奢で洗練された洋装の制服をまとった、背の高い男性がいた。
冷たい雪の上に躊躇なく膝を折り、目線を合わせるようにしゃがんでいる。
流れるような漆黒の髪。
黒曜石のように深く、すべてを見透かすような瞳が、まっすぐこちらを見つめていた。

……私を、見つめて——くる?

いけない。
この瞳を、見られてしまった——!

胸が跳ね、視界がぐらりと揺れる。
私はパニックのまま、慌てて袖で顔を覆い隠した。
『無華』の印である、左右の色の違う忌まわしい瞳を知られたら。
この朝霞家に『無華』の娘がいると、今日の大事な客人にばれてしまったら。
それを父と継母が知ったら——今度こそ、私は殺されるかもしれない。

「ごめんなさい……大丈夫です……!何もありませんから……」

必死に、掠れた声で告げると、男性は一瞬、息を飲んだようだった。

「大丈夫には、とても見えないが」

低い声が、静かに言い切る。
そして——私の濡れた肩へ、手が伸びてくる気配。

その瞬間、私は反射的に身をすくませた。
人に触れられるのが、酷く怖い。
怖くて、怖くて、息が詰まる。

なけなしの気力を振り絞り、よろめきながら立ち上がる。
顔を上げないまま彼に背を向け、雪を蹴って駆け出した。

この人が、今日、家に来ている大切なお客様ではありませんように。
そして私を見たことを、誰にも、絶対に話しませんように。
それだけを祈りながら、雪の中を自分の居場所である蔵へ逃げ戻る。

中へ入るなり扉の鍵を閉め、気配を殺すように布団へ潜り込んだ。
息を潜め、震える手を強く握りしめる。
心臓の音が、耳の裏側でどくどくと鳴る。

なんてことだろう。
今日が百合の『人生を決める大事な日』だと知っていたのに。
私は、一番見つかってはいけない相手に見つかったかもしれない。

どうか、気付かれないで。
どうか、この家の人間にも知られないで。

膝も、指先も、自分のものではないみたいに感覚が遠い。
私はこの嵐みたいな時間が過ぎ去るのを、暗闇の中でただ待った。