この屋敷には、強力な薔薇の『華』が三つ、確かに満ちている。
伯爵、妻、娘。『赤薔薇』の濃密な気配。炎の勢い。
だが、それとは別に、先ほどからどうにも気になる異質な気配がある。
『華』が咲き誇るべき場所に、何も咲いていない。
それなのに、その『空白』だけが、妙に強く、五感を刺激して残る。
香りのない匂い。音のない騒めき。存在しないはずの存在感。
やはり、気のせい——では断じてない。
ふと視線を窓の外へ向けた。
雪の冷たい気配に混じって、その『空白』の源を、確かに感じた気がした。
裏手の方角。人目の届きにくい、家の影の位置。
「——失礼。少々、席を外してもよろしいでしょうか」
言い終えるより早く、伯爵が慌てたように椅子から立ち上がった。
「も、もちろんでございます!誰か、五条殿下をお手洗いまでご案内しなさい!」
すぐそばに控えていた若い使用人が一歩進み出て、深く頭を下げた。
「こちらでございます、五条殿下」
食堂を出て、漆塗りの廊下をしばらく進む。
柱や障子は遠目には整って見えるが、近づけば細かな傷と、継ぎ接ぎの歪みが目についた。
丁寧に隠し、丁寧に誤魔化した痕。屋敷全体の空気と同じだ。
曲がり角に差し掛かったところで、無意識に足を止める。
「——庭へ出る縁側は、このあたりか」
「は、はい。こちらの突き当たりにございます」
突然の質問に、使用人は戸惑ったように瞬きをした。
「先に、外の空気を少し吸ってこよう。案内はここまでで構わない」
「しかし——殿下」
「心配はいらない。屋敷の中だ」
使用人はそれ以上反論せず、深く頭を下げて下がった。
廊下の先の硝子戸を開けると、突き刺すような冷たい空気が一気に流れ込む。
庭には薄く雪が積もり、踏み石の上だけが黒く顔を覗かせていた。
息を吐けば、白くほどける。
……静かすぎるな。
縁側へ出て、ゆっくり歩を進める。
先ほど食堂から感じた、あの奇妙な『空白』の気配は——この裏手の方向から漂っていた。
視線を巡らせると、屋敷の裏へ続く細い、人目につかない道が見えた。
木立の間に、ぽつんと石造りの古い井戸がある。
その井戸の縁に、何かが凭れかかっていた。
最初は、雪を被った布か、古い雑巾かと見間違えた。
しかし近づくにつれ、それがかろうじて上体を起こした一人の少女であるとわかる。
薄い着物はところどころ濡れて肌に貼り付き、肩口から覗く肌は不自然なほど青白い。
頬だけが熱に浮かされたように赤く、息遣いは極端に浅い。
それでも彼女は井戸の桶に手を伸ばし、力ない指先で縁を必死に掴んでいた。
——落ちるまいとする執念だけが、かろうじて命を繋いでいる。
「……っ」
一歩踏み出した、その瞬間。
胸の奥深くで、何かがふっと、静かに、そして決定的に鎮まった。
さきほどまで屋敷を満たしていた薔薇の喧しいほどの濃密な『華』の気配が、この井戸の周りだけ、すとん、と音もなく消えている。
……ここか。
理屈ではなく、本能が答えを掴む。
強すぎる『華』が咲き乱れるこの屋敷で、『華』が咲かぬはずの場所にある、不自然で冷たい『空白』。
その静寂の中心に——彼女が、いた。
伯爵、妻、娘。『赤薔薇』の濃密な気配。炎の勢い。
だが、それとは別に、先ほどからどうにも気になる異質な気配がある。
『華』が咲き誇るべき場所に、何も咲いていない。
それなのに、その『空白』だけが、妙に強く、五感を刺激して残る。
香りのない匂い。音のない騒めき。存在しないはずの存在感。
やはり、気のせい——では断じてない。
ふと視線を窓の外へ向けた。
雪の冷たい気配に混じって、その『空白』の源を、確かに感じた気がした。
裏手の方角。人目の届きにくい、家の影の位置。
「——失礼。少々、席を外してもよろしいでしょうか」
言い終えるより早く、伯爵が慌てたように椅子から立ち上がった。
「も、もちろんでございます!誰か、五条殿下をお手洗いまでご案内しなさい!」
すぐそばに控えていた若い使用人が一歩進み出て、深く頭を下げた。
「こちらでございます、五条殿下」
食堂を出て、漆塗りの廊下をしばらく進む。
柱や障子は遠目には整って見えるが、近づけば細かな傷と、継ぎ接ぎの歪みが目についた。
丁寧に隠し、丁寧に誤魔化した痕。屋敷全体の空気と同じだ。
曲がり角に差し掛かったところで、無意識に足を止める。
「——庭へ出る縁側は、このあたりか」
「は、はい。こちらの突き当たりにございます」
突然の質問に、使用人は戸惑ったように瞬きをした。
「先に、外の空気を少し吸ってこよう。案内はここまでで構わない」
「しかし——殿下」
「心配はいらない。屋敷の中だ」
使用人はそれ以上反論せず、深く頭を下げて下がった。
廊下の先の硝子戸を開けると、突き刺すような冷たい空気が一気に流れ込む。
庭には薄く雪が積もり、踏み石の上だけが黒く顔を覗かせていた。
息を吐けば、白くほどける。
……静かすぎるな。
縁側へ出て、ゆっくり歩を進める。
先ほど食堂から感じた、あの奇妙な『空白』の気配は——この裏手の方向から漂っていた。
視線を巡らせると、屋敷の裏へ続く細い、人目につかない道が見えた。
木立の間に、ぽつんと石造りの古い井戸がある。
その井戸の縁に、何かが凭れかかっていた。
最初は、雪を被った布か、古い雑巾かと見間違えた。
しかし近づくにつれ、それがかろうじて上体を起こした一人の少女であるとわかる。
薄い着物はところどころ濡れて肌に貼り付き、肩口から覗く肌は不自然なほど青白い。
頬だけが熱に浮かされたように赤く、息遣いは極端に浅い。
それでも彼女は井戸の桶に手を伸ばし、力ない指先で縁を必死に掴んでいた。
——落ちるまいとする執念だけが、かろうじて命を繋いでいる。
「……っ」
一歩踏み出した、その瞬間。
胸の奥深くで、何かがふっと、静かに、そして決定的に鎮まった。
さきほどまで屋敷を満たしていた薔薇の喧しいほどの濃密な『華』の気配が、この井戸の周りだけ、すとん、と音もなく消えている。
……ここか。
理屈ではなく、本能が答えを掴む。
強すぎる『華』が咲き乱れるこの屋敷で、『華』が咲かぬはずの場所にある、不自然で冷たい『空白』。
その静寂の中心に——彼女が、いた。
