「『赤薔薇』か。そこまで珍しくもないだろう」
「ですが、伯爵家で発火の『異能』が出るのは稀なことです。殿下」
側近である榊原の言葉を半ば聞き流し、手もとの資料に視線を落とした。
紙面の活字は整っているのに、そこに並ぶのは『条件』と『利得』ばかり。
強すぎる『王華』——そう囁かれるほどの『黒薔薇』の加護。
それを授かったがゆえに、宮家嫡男という立場にありながら、こうして縁談を『巡る』ことを強いられる。
人を選ぶのではない。選ばれ、選び直し、また候補を並べられる。
……不毛だ。
『黒薔薇』の『異能』は、肌越しでも他者を傷つける。
だから、常に手袋を外さない。握手一つ、袖口の触れ合い一つが、事故になり得る。
その事実が、縁談という名の場を、いつも息苦しくする。
相手が怯えるのも、期待するのも、どちらも同じくらい面倒だった。
それでも周囲は『殿下』と呼び、敬意という名の距離を置く。
距離は楽なはずなのに、孤独だけが濃くなる。
せめて自分が『青薔薇』だったなら。
あるいは、親類のどこかにでも『青薔薇』がいたなら。
その程度で妥協し、この苦労から解放される道もあったかもしれないのに。
双蕊となる——力の釣り合う相手を見つけられなければ、この『黒薔薇』の『異能』は、いずれ『蟲華』に堕ちる。
いつ暴走を始めるか。
まだ多少の猶予はある。そう言い聞かせてきた。
だが『明日ではない』という保証は、どこにもない。
手袋越しに、自分の指先が微かに熱を帯びる。
力が呼吸みたいに、勝手に膨らもうとするのを、静かに押し戻した。
——ここで揺らぐな。今日は、あくまで顔合わせだ。
「殿下。到着いたしました」
榊原の声に、視線を上げる。
車を降りると、雪をいただく門の向こうで、使用人が勢揃いし、一糸乱れぬように頭を下げていた。
礼は過剰で、動きは硬い。迎えの『形』だけが、妙に整えられている。
一見すれば、伯爵家らしい体裁は保たれている屋敷。
だが、研ぎ澄まされた視線は、その表層の奥をすぐに拾う。
塗りの剥げた門扉。ところどころ欠けた石畳。
手入れが行き届かず伸びすぎた庭木——
視線をほんのわずか滑らせるだけで、経済的な綻びも、内側の綻びも、いくつも見つかった。
雪に縁取られた瓦屋根は、本来なら風情のある光景のはずだ。
それなのに、この屋敷全体から漂うのは雅な静けさではない。
切羽詰まった、追い詰められた空気。
無理に人数を揃えたのだろう、並ぶ使用人の列にも、張り詰めた気配がまとわりつく。
五条家との縁談を、沈みゆく家を繋ぎ止める最後の綱と見ている。
……そんなところだろう。
それでも門をくぐった瞬間、確かに薔薇の『華』の強い気配が胸を撫でた。
赤く、勢いのある炎のような——資料にあった『赤薔薇』・発火』の性質。
間違いない。
同時に、妙な違和感が残った。
薔薇の華やいだ香りに混じって、どこかぽっかりと穴が空いたような、空白のような気配。
『華』が強く咲き誇る家には、本来満ちているはずの生命の色が、屋敷の一角だけ、すっぽり抜け落ちている——そんな冷たく、虚ろな感覚。
……気のせいか。
深く考えるのをやめ、歩を進めながら胸の奥に引っかかった感覚を振り払った。
今日は形式的な顔合わせの席。
五条家を代表する者として——いや、一人の男として、冷静さを欠くわけにはいかない。
応接間での形式ばった挨拶を終えると、そのまま食堂へ案内された。
長く磨き込まれた楕円のテーブル。
壁際には先祖の肖像画と高価な花瓶が並べられ、一見すれば由緒ある伯爵家の体裁は完璧に整っている。
整えすぎて、息が詰まるほどに。
「ですが、伯爵家で発火の『異能』が出るのは稀なことです。殿下」
側近である榊原の言葉を半ば聞き流し、手もとの資料に視線を落とした。
紙面の活字は整っているのに、そこに並ぶのは『条件』と『利得』ばかり。
強すぎる『王華』——そう囁かれるほどの『黒薔薇』の加護。
それを授かったがゆえに、宮家嫡男という立場にありながら、こうして縁談を『巡る』ことを強いられる。
人を選ぶのではない。選ばれ、選び直し、また候補を並べられる。
……不毛だ。
『黒薔薇』の『異能』は、肌越しでも他者を傷つける。
だから、常に手袋を外さない。握手一つ、袖口の触れ合い一つが、事故になり得る。
その事実が、縁談という名の場を、いつも息苦しくする。
相手が怯えるのも、期待するのも、どちらも同じくらい面倒だった。
それでも周囲は『殿下』と呼び、敬意という名の距離を置く。
距離は楽なはずなのに、孤独だけが濃くなる。
せめて自分が『青薔薇』だったなら。
あるいは、親類のどこかにでも『青薔薇』がいたなら。
その程度で妥協し、この苦労から解放される道もあったかもしれないのに。
双蕊となる——力の釣り合う相手を見つけられなければ、この『黒薔薇』の『異能』は、いずれ『蟲華』に堕ちる。
いつ暴走を始めるか。
まだ多少の猶予はある。そう言い聞かせてきた。
だが『明日ではない』という保証は、どこにもない。
手袋越しに、自分の指先が微かに熱を帯びる。
力が呼吸みたいに、勝手に膨らもうとするのを、静かに押し戻した。
——ここで揺らぐな。今日は、あくまで顔合わせだ。
「殿下。到着いたしました」
榊原の声に、視線を上げる。
車を降りると、雪をいただく門の向こうで、使用人が勢揃いし、一糸乱れぬように頭を下げていた。
礼は過剰で、動きは硬い。迎えの『形』だけが、妙に整えられている。
一見すれば、伯爵家らしい体裁は保たれている屋敷。
だが、研ぎ澄まされた視線は、その表層の奥をすぐに拾う。
塗りの剥げた門扉。ところどころ欠けた石畳。
手入れが行き届かず伸びすぎた庭木——
視線をほんのわずか滑らせるだけで、経済的な綻びも、内側の綻びも、いくつも見つかった。
雪に縁取られた瓦屋根は、本来なら風情のある光景のはずだ。
それなのに、この屋敷全体から漂うのは雅な静けさではない。
切羽詰まった、追い詰められた空気。
無理に人数を揃えたのだろう、並ぶ使用人の列にも、張り詰めた気配がまとわりつく。
五条家との縁談を、沈みゆく家を繋ぎ止める最後の綱と見ている。
……そんなところだろう。
それでも門をくぐった瞬間、確かに薔薇の『華』の強い気配が胸を撫でた。
赤く、勢いのある炎のような——資料にあった『赤薔薇』・発火』の性質。
間違いない。
同時に、妙な違和感が残った。
薔薇の華やいだ香りに混じって、どこかぽっかりと穴が空いたような、空白のような気配。
『華』が強く咲き誇る家には、本来満ちているはずの生命の色が、屋敷の一角だけ、すっぽり抜け落ちている——そんな冷たく、虚ろな感覚。
……気のせいか。
深く考えるのをやめ、歩を進めながら胸の奥に引っかかった感覚を振り払った。
今日は形式的な顔合わせの席。
五条家を代表する者として——いや、一人の男として、冷静さを欠くわけにはいかない。
応接間での形式ばった挨拶を終えると、そのまま食堂へ案内された。
長く磨き込まれた楕円のテーブル。
壁際には先祖の肖像画と高価な花瓶が並べられ、一見すれば由緒ある伯爵家の体裁は完璧に整っている。
整えすぎて、息が詰まるほどに。
