約束を交わすと安心したのか、中宮はフッと居なくなった。
それはチカッと蛍光灯が消えた、ほんの少しの間に起こった出来ごとで——
「中宮?」
——と、思わず名前を呼んで探してしまうくらい、唐突で意味のわからないタイミングだった。
え? これから二人でどうやって探すのか決めるんじゃないの? だってそういう流れだったよな?
だから戻ってくるかもしれないと、しばらく街灯の下で待っていたけれど——結局、中宮が現れるようなことはなくて。
「……帰ろう」
仕方なく、俺は帰宅することに。
一体なんで消えたんだろう。
幽霊は感情だけを頼りにここに居るって言っていたから、もしかしたら記憶がない分俺と話すことで自分の願いを聞いてもらえた気持ちになって、それで勝手に満足した中宮は無意識に成仏してしまった、みたいな……いや、そんなことある?
……でも、案外あるのかもしれない。だってあの女の人だって勝手な解釈で成仏していたから。何かが達成されて満たされた瞬間、勝手に起こることなのかも。
だとしたら、もう中宮はこの世に存在してないってことになる。……それはきっと良いことなはずだ。この世に留まり続けるよりずっと良い。そうだよ、俺と出会ったから成仏できたのだとしたら、俺だって嬉しく思う。出会えたことがお互いに取って意味のあることだったってことだから。
……だけど。
「……ちょっと、寂しいな」
せっかく出会えたのに、こんな一瞬の関わりでおしまいだなんて。
「! 母さん」
「あぁ! もう、やっと帰ってきた!」
色々あった分、帰宅が随分と遅くなってしまっていた俺を心配して、家の前をうろつく母さんと鉢合わせてしまった。その瞬間、頭の中にこもっていた意識がハッと現実へ戻り、目の前の母さんに対して申し訳なさで胸がいっぱいになる。
「全然帰ってこないんだから! また何かあったのかと思ったんだからね!」
「うん……ごめん」
「ごめんじゃなくてもう、本当に! 何かあるなら連絡して! 何もないのね? 大丈夫なの?」
「うん。大丈夫だよ」
そして、大丈夫なのかと訊ねられた俺は今、答えられた言葉の通り、もう大丈夫な俺なのだと自覚した。
だって今言葉にして外に出した『ごめんね』と『大丈夫だよ』は、今までずっと繰り返し母さんに伝え続けてきたものとは違ったから。その言葉は、まるで心に取り付けられていたフィルターが綺麗に取り除かれたように、本心からまっすぐな気持ちで母さんに届けることができたから。
いつもいつも、心配をかけてしまう母さんに対して俺の中には罪悪感が生まれていて、隠す為に大丈夫だと嘘をつき、申し訳なさと情けなさで押し潰される心地でしかごめんねと言えてこなかった。けれど今の俺はもう、その心地をすっかり手放せている。
なんで? それはもちろん、もう心配をかけない自分になれると自信があったからだ。
中宮が教えてくれて、自分の根本の部分を信じられるようになったから。これからの俺はもう大丈夫なのだと心から思えた。だって幻覚を見る自分に対しての未知の部分がなくなったから。
理由がわかれば対処法が見つかる。そうなれば、回避することができる。ずっと自分に取り憑いていた諦めて受け入れるしかない不安が和らいで、自分という存在に自信がついた。変わったのだ、あいつのおかげで。
……でも。
もし逆に怖い想像として中宮が見えてたなら、いつでも中宮に会えたのかな。
無事に夕飯のトンカツにソースをかけられたことで美味しく食べ終わり、風呂に入って自室のベッドに潜り込むと、ふっと今日の出来ごとが頭に浮かんだ。
……もう中宮には会えないのかな。
それはきっとずっと心に残るもののような気がした。きちんと解決できないまま置き去りになっている、みたいな。嬉しかった分、取り残された寂しさが後を引く。
でも、だからこそ心に残ったままの今日の出来ごとを、中宮に出会ったことでもらった大事なものを忘れずにこれからは生きていこう、なんて心を前へ向き直し、明日に備えて眠ろうとした——その時だ。
「そういえばあの制服って……隣の高校のじゃね?」
急に頭の隅にあったものが目に入ったみたいに思い出した。
あの、中宮が着ていた品のあるデザインの制服。あれは隣の私立高校のものだ。絶対そう、あのブレザー!
なんで気づかなかったんだろう。普段から見すぎて逆に情報として頭に入らなかったのかもしれない。そもそも幻覚だと思ってたから実在してるものとして受け取ってなかったし、そう思えば仕方ないっちゃ仕方ないんだけど……まさか、今このタイミングで記憶の手がかりが見つかるなんて。中宮はもう居ないのに。
“僕の記憶を、なんで死んだのかその理由を、一緒に探して欲しい”
「…………」
突然消えた中宮はもう、成仏したのかもしれない。だったらもうこの件に俺がわざわざ首を突っ込む必要はない。だってあいつは満足したはずなのだから。一緒に探そうと約束をしたけれど、今はもうここに居るのは俺一人だ。
——でも、あの女の人みたいに満足して消えていくあいつを俺は見ていない。実際のところ、あいつの目的はまだ達成してないはずだ。だって俺は、俺たちはまだ、中宮が死んだ理由を得られていない。
あいつの願いは、叶ってない。あいつの思いは救われてない。
俺はあいつに救われたのに。
「……よし、行くか」
覚悟は決まっていた。あいつの願いを聞く覚悟がついた時からそうするつもりだったんだから。
あいつの残したものに応えられる俺になりたい。例えそれが俺の一人相撲になってしまったとしても。
そして翌日。放課後を迎えると俺は、中宮が着ていた制服の私立高校へと向かった。
歩いても辿り着ける距離に存在するその高校は、いわゆるお坊ちゃん、お嬢様校という括りに属する学校で、俺が通う高校はごくごく普通の公立校だから、そう離れない場所に二つの高校が存在していても上手く成り立っていた。まぁ、生徒側からしても向こうはお金持ちが通う学校の生徒で、俺たちはごく普通の平凡家庭の生徒。関わるようなことなんてそうそうなかったから問題が起こりようもない。
けれど今、そんな高校の前で聞き込み調査をしようとしている俺。
……そんなことして本当に大丈夫か?
校門を目の前にすると、あまりにも学校自体から放つオーラが違う気がして、つい及び腰になる。
……でも、そんなんじゃ駄目だ。
両手で自分の頬を叩いた。だって俺は中宮のおかげで変わったんだ。だからここに来た、そうじゃないのか。こんなんじゃ今までと何も変わらない、頭のおかしい怖がりで臆病者の俺のままだ。
俺はやれる!と自分を鼓舞して、ちょうど出てきた生徒を見つけた瞬間、勇気を出して声をかけた。
「すみません、ちょっと聞きたいことがありまして」
「何ですか?」
返事や表情の感じからして、人の良さそうな穏やかな雰囲気の男子生徒である。よし、いける!
「あの、この高校に通ってた中宮という生徒のこと、知ってますか? 知ってたら教えて欲しいんですけど」
「中宮? 知ってるけどなんで?」
「あ、えっと、友達で」
「友達?」
首を傾げるその人に、しまった!と気がついた。そもそもあいつっていつ死んだわけ?と。通ってた年代もわかんないんだから、もしかしたらめちゃくちゃ昔の人の可能性もあるし、昔に死んでるとしたらそいつと友達とか言い出すなんてわけわかんないことになってるかもしれない。
「あ! あの、中宮とその、知り合いがちょっと……」
「あぁ、良かった。ちょうど来たよ、中宮君」
「そう、だから中宮君に会いに来たっていうか……へ?」
中宮が、ちょうど来た?
パニックになった頭で促されるまま目を向けると、衝撃の事実が目に入る。
「……え?」
言葉を失ってしまう。だってやってきたその人は昨日居なくなったあいつで間違いなかったから。
昨日のままの姿の中宮がそこに居た——そこに居たのだ。当たり前のように友達が居て、授業を受けて下校する生徒の一人として。
——は? なんで? そんなわけない。
だって中宮は幽霊のはずで、俺にしか見えないはずで、昨日急に居なくなって、それで。
「中宮君! なんか、中宮君の……尊君の、友達だって」
「……尊の?」
目を丸くして俺を見る中宮と目が合った瞬間、何も整理がつかないまま俺はそれを呟いていた。
「お前、死んだんじゃなかったの……?」
その言葉に、ハッと空気が引き締まる。すると一歩前に出た中宮じゃない方の人が、ムッと眉を吊り上げて嫌悪感を露わにした。
「君はなんてことを言うんだ、不謹慎だよ! お兄さんを亡くして傷ついてることもわからないのか?」
「……お兄さん?」
「そうだよ。あんなに優秀な、しかも双子のお兄さんを……君、友達だったんじゃないの? 悪ふざけならやめろよ!」
「そんなっ、悪ふざけじゃないです。ほ、本当に! ただその、知らなかっただけで……」
知らなかった。だってあいつも覚えてないことだし。双子のお兄さん? じゃあつまり、死んだあいつはここに居る中宮君の兄ちゃんで、この人は弟?
目の前に立つ弟は、中宮と同じ顔、同じ髪型、同じ制服を着て真っ直ぐに俺を見据えていた。
そして、
「……兄の尊がお世話になったみたいで。僕は弟の匠です」
そう、静かに自己紹介をした。
似てる。その淡々とした声の出し方。
「尊に僕の知らない友達が居たなんて驚いたな。えっと、ご用件は?」
けれど、ニコリと微笑んでみせるその表情は中宮のものとは違った。だって中宮はずっと無表情だったから。
それがとても悲しいことなのだと今、気がついた。
「中宮が……その、なんで死んだのか、知りたくて」
だってきっと生きてる時の中宮は、この弟さんみたいにちゃんと笑ったり泣いたりしていたはずなんだ。あいつは記憶がないから感情が見当たらないって言っていて、そういうものなんだ、くらいの気持ちで受け取っていたけれど、今になって気がついた。だから中宮は無表情だったんだって。
つまりそれって、あいつはその全てを手放したまま居なくなったってことになるじゃないか。記憶も感情も戻ってないはずだ。だって真実を知らないまま消えてしまったんだから。もし成仏できたんだとしても……そんなの、悲しすぎる。
「……俺、幽霊が見えるんです」
だから、それに気づいたらもう、自分がどう思われるかとかどうでもよくなっていた。中宮の願いをせめて叶えてあげたい気持ちでいっぱいだったから。うまく聞き出さなくちゃとか、どうやって誤魔化そうかとか、そんなものは頭の中からすっぽり抜けてしまって、真実だけが口からスラリと落ちていく。
「中宮が……昨日、自分の死んだ理由を探して俺の前に現れました。記憶がないそうなんです。それまで俺は自分に幽霊が見えてるなんて思いもしなくて、頭がおかしいせいで幻覚が見えてるんだってずっと思い込んでたから、だから中宮に出会えて、ただ幽霊が見えるだけの普通の人間だって自分を受け入れられるようになって、すごく心が軽くなって……それを教えてくれた中宮にすごく感謝してるんです。今日はそんな中宮の願いを叶えるためにここに来ました。中宮は自分のことを覚えてなかったけど、中宮の制服がこの高校のものだったから。名前も縫い付けてあるの見て初めて知って、だから中宮に双子の兄弟が居るなんて知らなかった」
そう、何も知らない相手だ、中宮は。きっと普通に生きていたら関わることなんて一生なかった相手。なんなら今だって関わらなくてもいい相手。でも、
「……亡くなった兄弟のことで、何も知らない人間が失礼なことをしてるってわかってます。こんなことを急に言い出す奴なんて信じてもらえないってことも……でも、知りたいんです。知って中宮との約束を果たしたい」
中宮は、俺の世界を変えてくれた。俺だけの世界で初めて出会えた、俺だから出会えた人だ。
残してくれたものに応えられる自分になりたい。
「……お願いします」
精一杯、頭を下げた。誠意が伝わればいい、断られたらどうしようと思いつつ、それからののしかかるような重い沈黙を耐える。深く下げた後頭部に、突き刺さる視線を感じる。
——そして、
「頭を上げてください」
しばしの間を置いた後に掛けられたその声に、導かれるように顔を上げると、目の前に立つ弟さんと目が合った。その瞬間、瞳の奥にある激しく波立つ感情が見えた気がした。が、さらりとした声と、柔らかに動くその表情に合わせるように、すぐに外側からその感情を整えて、穏やかで丁寧な先程までの感じに戻る。
その一連の様子を、俺は黙って見つめていた。
「君、名前は?」
「あ……木内です」
「木内君。場所を変えようか」
そう言うと、中宮弟はもう一人の生徒に別れの挨拶をして、俺を校舎内へと案内した。
来校者用入口で手続きを済ませて向かった一室には、“会議室”と、記載されている。中に入ると簡易的な長机と椅子が長方形の形で向き合うように配置されていて、入ってすぐの椅子に中宮君が座ったのでその隣に俺も腰を下ろした。
「えっと……木内君。君は幽霊が見えるんだっけ?」
そして、唐突に話題のど真ん中を投げてくるので、慌てて「うん」と、大きく頷く。
「信じてもらえないと思うけど、俺が中宮と出会ったのも俺に幽霊が見えてるって中宮が気づいたことがきっかけで、本当に、昨日のことなんだ」
「うん、そうだよね。そうじゃないとおかしいよね」
「……おかしい?」
「うん。だって尊の友達の中に君みたいな他校の生徒は居なかったから。だから死んだ後に知り合ったっていうなら辻褄が合う。信じる理由になるよ」
「あぁ……まぁ、そうでしょうね」
他校の生徒である前に、生きてきた環境も、これから生きていく先も、公立校に通うような人間とは違う人たちだ。こちらとしてもそう言われたらそれには納得しかない。
「だから信じるよ。兄は……尊は、死んだんだね」
そう言って、中宮君はそっとその瞳を伏せる。
「本当は、まだ生きてるんじゃないかって少し思ってたから。お葬式まで済ませておいてこんなこと思うのもおかしいけど、僕だけはまだ、尊の死を信じきれてなかったんだ」
「……仕方ないと思う。双子の兄弟なんだろ? もしかしたらって願っちゃうよ」
「うん。でも幽霊になってるってことはそういうことだ。もう尊は死んだんだ。それで、死んだ理由を探してるんだっけ?」
「……うん」
「可哀想に。何も覚えてないんなら、家にも学校にも帰ってこれないよね」
中宮君の言葉に胸がぎゅっと苦しくなる。そうか、幽霊は思いの強く残る場所に現れるイメージがあるけど、中宮の現れた場所は固定されていなかった。記憶のないあいつには居場所が見つからないからいろんな場所に現れたのかと、今になって理解できることがまた見つかる。自分のことが見えた俺に出会ったこと。あいつにとっても大きな出来ごとだったに違いない。
「俺が見た中宮は最後、一緒に探す約束をして、急に目の前から消えました。それが昨日の話で、それから会ってない。だから、もしかしたらそのまま成仏したんじゃないかって思う気持ちもあるんだけど……でも、どちらにせよ約束を果たさないままでいられないって思ったから、それで今日少しでも何か知ってる人が居ないかと思って聞きにきて」
「そう。良い人なんだね、木内君は」
「良い人では……ただ、さっきも言ったけど中宮には救われたから。だからその、不謹慎かもしれないけど、それでももしよかったら中宮のことを教えて欲しくて。その、辛くない範囲内で……」
「…………」
ふう、と息をついたのは俺か、中宮君か。
一呼吸おいたのち、中宮君は語り出した。
「尊が死んだのは、去年の入学早々のこと。一緒に山に入った時に崖から足を滑らせたんだ。俺はもちろん、その現場に居た。二人でいつも行く山での出来ごとだったから。尊が下まで転がり落ちていくのを見た。俺の手が届かなくなるのを、今でも夢に見る。尊が見えなくなって何度も叫んだけど、返事はなかったんだ」
一点を見つめるようにした中宮君は、淡々と事実を机の上に並べるように言葉にした。
「急いで連絡すればよかったのに、俺は下に降りて尊を探したんだ。結構長く探したと思う。でも見つからなかった。それで親から警察に連絡が入って何日も捜索したんだけど、それでも見つからなくて。母親が精神的におかしくなっちゃって、お葬式を開いた。死体が無いまま。もう死んでしまったんだって、そういう結末にすることにしたんだ。これは世間には秘密の話だよ、親族しか知らない話」
「じゃあ、さっき言った尊の死を信じきれてないっていうのは……」
「うん。死体が見つかってないなら、いつかひょっこり現れるんじゃないかって。でも、それはもうありえないんだって今日知った」
「……ごめん」
まさか、そんな事情があるなんて思いもしなかったから。こんな風に希望が絶たれたことの確認をさせることになってしまうなんて。
罪悪感から自然と告げていた謝罪に、中宮君はニコリと笑った。
「いや、いいんだよ。むしろ僕的には助かったと思ってる。ようやく割り切ることができるから。お葬式挙げてるんだよ? 生きてたらどうすんだよって話だよね。それに尊は、まだ居る」
そしてジッと、その目を俺に向ける。
「もう会えないし話せないと思ってた尊がまだ、この世界に存在する。君がそう言ったんだ。君は尊に会って尊と話した。君ならできる。なら、君と居れば僕にもできる。そういうことだよね?」
「……あー、えっと、うん。まぁ、そう」
重たい期待のこもった目で見つめられて、思わず逃げるように頷きながら、いやでも!と、思い出す。
「もちろん会わせてあげたいし、話もさせてあげたいと思うけど、さっき言った通り、中宮は昨日突然消えたんだ。もしかしたら成仏した可能性もあると思ってる。そうなると俺ももう会えないし、俺からじゃあいつに会いに行くようなこともできないんだよ」
「なんで?」
「だってあいつがどこに居るかなんて何もわからないんだ。幽霊っていつも突然幻覚みたいに現れるんだけど、その人にとって意味のある場所に現れるっぽいんだ。自分にとって一番感情が残ってる場所というか……例えば、死んだ現場とか」
そう言葉にして整理した瞬間、ピンと閃いた。多分中宮君も。
「じゃあ尊の事故現場に行こう。僕が案内する」
——確かに。それなら記憶も感情もなくしているとしても、体に蓄積された経験のようなものに引っ張られるまま、その場所に残された感情を求めて無意識に引き寄せられてる可能性があるかもしれない。
もしかしたらまだそこに中宮が居るかもしれない!
「わかった。行こう」
そしてそのまま学校を出ると、中宮君の案内のもと、俺は中宮が死んだその事故現場へと向かった。



