中宮は笑えなかった


 現場とは、中宮が落ちて死んだとされる崖のこと。あれだけ逃げるために走ったというのにその崖の欠けた部分からはそう離れていなくって、今ではもう、幽霊たちの列も道から綺麗さっぱり消えさっていた。どうやら先程まで俺は幽霊たちの記憶が混ざった別の空間のようなところに迷い込んでしまっていた、ということらしい。
 その理由として、「木内君は自分ごととして受け入れやすい性質をもってるからね」と中宮から言われて、それを否定することはできなかった。確かに自分にはそういうところがあるなと思ったから。
 二人で崖の縁に立つと、一緒に下を覗き込む。辺りはだいぶ暗くなってきていて、更に底まで深く見えた。

「ここなんだよ。ほら、崖の縁がここだけ崩れて欠けてるだろ? これはお前が足を滑らせた時にできたものらしい」
「……それで、僕は落ちて死んだの?」
「いや、落ちた後のお前は移動したみたいで、死体が見つかってないって言っただろ? でも世間的にはもう死んだものとされていて、俺とお前が出会ったことで事実が追いついたって感じなんだ。山で死んだことも今の列に居たことで証明されたというか……つまり、誰も中宮の本当の死んだ場所とか、死因とか、知らないんだ。……誰にも、気づかれてない」

 お前の秘密は、とは言えなかった。中宮君から聞いただろ?と、頭の中の俺が囁く。教えてやらなくて良いのかと。中宮は自分で誰にもバレない死に場所まで移動したんだ、そこに動物を殺してきた証拠を一緒に隠したんだ、と。でもこれは中宮にとっても危うい情報だ。簡単に口に出せるものじゃない、慎重に扱った方がいい。

「……何か、拒絶感がすごい」

 そう呟いた中宮に、そうだよな、と思う。中宮自身、本心では知りたくないし、思い出したくない話なはずだから。
 でも、

「だけどそこまではこの間も聞いた話だ。確か弟に確認するって言ってたよね? 弟には会ったの?」

 中宮は知ろうとしている。踏み込もうとしている。
 答えを求めている。
 俺は、どうすれば良いんだろう。

『——尊にとって一番良い影響のある行動を取って欲しいと僕は願ってる。尊の力になりたいと言ってくれた君だから。木内君なら、わかってくれるよね?』

 中宮にとって一番良い影響のある行動。それってなんだろう。
 会ってないと嘘をついて、この秘密は俺と中宮君の中でしまっておくことにする? でもそんなのその場しのぎに過ぎないし、最終的に中宮の願いを叶えることに繋がらないと思う。
 中宮の願いって? それは、この世に残った理由を、目的を果たすこと。そのために記憶を取り戻したいと考えている。
 じゃあ俺が今できる、中宮のためになることって?

「……会ったよ」

 俺は、中宮のためになりたい。

「知ったらもう後には戻れないけど、どうする?」

 そう思うと、中宮君と同じ台詞を口にしていた。覚悟が必要だったから。
 中宮にだけじゃない、俺にもだ。

「もちろん、教えてよ」

 決意の漲る中宮の瞳に、俺は覚悟を決めた。
 中宮君から聞いたことを、その過去の中宮が起こしたと聞いた事実を、全て中宮に伝える覚悟を。

「中宮君の家に行ったんだ。つまりお前の家だよ。すごく立派な家だった。それで、お母さんに会って、弟の部屋に行って、お前の部屋に入った。ほとんど同じ造りだし、同じ家具が置かれてた。でも一点だけ、虫の標本が飾られてるところだけ、違った」
「虫の標本……」
「博物館に飾られてるのみたいに綺麗だったよ。今の中宮がどうかは知らないけど、その頃の中宮は完璧主義だったのかなって思った。それだけこだわりも感じたから。なんで標本作ってたのかわかるか?」
「全然」
「お前は生き物が好きだったんだって。この山に入って命に触れることが多かったからかなって俺は今日感じたよ。最初は虫を好きになって、山で捕まえて帰ってそのまま飼ってたんだって。それで死んでしまうと悲しんで、標本にしてたって。その次に中宮は動物が好きになって、ハムスターとか、インコとか飼ってたんだって。庭の花壇にお墓を作って、大事に弔ってやってたって。弔う……弔う、というか、忘れないように、というか……」

 そこまで話して、言葉の流れが止まってしまった。覚悟は決まっている。もし話したことで中宮が変わってしまったとしても、それが俺の知らない中宮だとしても、もし俺がその中宮に殺されるような目に遭わされたとしても、全部それを承知の上で今、俺は話をしているのだ。中宮君から忠告されているのだから、そこから目を背けたりなんてしない。
 けれど殺されたくないし、殺すような人ではないと確信している自分も居る。なぜだろう、わからないけど、この行動に対する自分の覚悟については全方向で決まっているのだ。だから躊躇うことなんて何もない。何もないけれど、でも、

 ——中宮はきっと、どちらにしろ傷つくんだろうな。

 そう思うと、口が急に重たくなってしまった。
 誰にも知られたくなかっただろうって中宮君は言っていたし、知りたくないから拒否反応が出ているのなら、それを知ることで中宮は確実になんらかの傷をともなうことになる。

「……で?」

 中宮が続きを促す。

「教えてくれないの?」

 黙ってしまった俺を、訝しんでいるのか、心配しているのか、表情には現れない。
 だけど、

「何かあるんでしょ? わかってる。それがこの拒否感の理由で、木内君は知ったんだよね? 大丈夫。僕、覚悟決まってるよ」

 俺の心情を想像して、俺の心を支えてくれる。勇気をわけてくれる。
 中宮は、いつもそうだ。
 俺はそんな中宮の友達だ。中宮の、ためになりたい。

「……お前はさ、その動物たちを、殺してたんだよ」
「……え?」
「剥製は作れないから元気な姿を写真に撮ってアルバムにして、殺して、忘れないように大切に埋めてた。好きだから、全部が知りたいからって」
「…………」
「でもそれが弟にバレて、人間性を否定されて、それで中宮はこの崖から落ちて居なくなったって……中宮君が言うには、中宮の部屋から証拠とされそうな道具も一緒になくなってたから、中宮はそれと一緒に誰にも見つからないところで隠れるように死んだんだと思うって。それを思い出したくないから自分に会いたくないし、記憶が戻らないんじゃないかって。そう言われるとさ、お前の拒否感の理由にもなるなって思った」
「…………」

 黙り込む中宮。流石にそうだよなと思う。こんな話、急にされても受け入れられないよなと。
 
 ——けれど、

「なんだこれ」

 そう呟いたと思ったら、

「間違ってる気がする」

 と、視線を鋭くさせて、俺を見た。途端、ピリピリと痺れる緊張感が場の空気を支配する。

「間違ってる、そう。間違ってるんだきっと」
「何が?」
「わからない。けど何か違う。違う。全部を否定するわけじゃない、何か知ってる気もする。でも違う!」

 大きな声でそう訴える中宮は隠す気のない嫌悪感を露わにしていた。

「僕じゃない! そんなこと、僕っ、でもなんで? なんで知ってる気がするの?」
「中宮……」
「違う! 違うんだ木内君、違う、僕じゃない、僕じゃない……僕じゃ、……」

 力なく俯く中宮が言う。

「じゃあ、僕は何……?」

 その声は、震えていた。迷子になった子どものように、細く、弱く、消え入りそうな声だった。思わず中宮の肩に触れると、ガバッと中宮が顔を上げる。

「だってそれが僕の過去の話なんだよね? だったら僕は異常者だ。普通じゃない。そんなの、僕だと思えない。だから思い出したくないって言ったって、誰かが僕がそういう人間だと言えばそうなってしまうじゃないか。僕の中には違うと叫んでる僕が居ても、僕だと思えば僕の記憶になってしまう。そういうことなんじゃないの?」
「でもお前は自分のこととして思い出したわけではないんだよな?」
「そうだよ、そんなの僕じゃない。意味がわからない。でも知ってる気もするんだ、なんとなく、全部が間違えってわけでもない何かがある。この微妙な違いをうまく表せないから自分じゃないことの証明もできない。わからないんだ。今ここで一番強いのは、そうだとすれば辻褄が合うっていう現実だけ。そんなの、僕では覆せない。僕は僕の知らない僕であると受け入れるしかない。僕は、僕なのに」

 胸の奥に生まれた感情を吐き出す中宮は見開いた目で必死に訴える。が、ハッと何かを手放したようにその瞳から力が抜けた。 

「いや、なんだよ、その僕は僕って。そもそも僕なんてものはないんだった。だって記憶がなくて、目的も分からなくて、ただここに留まっているだけの幽霊なんだから」

 そして、「そうだった、そうだった」と呟きながら何かを失っていく。それはきっと、熱量。中宮を中宮とさせる感情の熱量だ。

「僕は異常者で、その秘密から逃げ出すために自殺した、ただの臆病者。記憶すら捨てた無責任で自分勝手な卑怯者。それが僕なんだよね。今ここに居る僕なんて始めから存在しなかった。僕は僕じゃなかった。でも、今ここでその僕を受け入れられない僕はもう、何者でもない。だったら潔く死んで消え去ってしまえば良かったのに」

 ——中宮は、告げる。

「僕が今、ここに居る必要なんて何もなかったんだ」

 ……なんでだよ。

「なんでそんなこと言うんだよ!」

 俺は怒鳴りつけていた。ふざけんなよと。

「じゃあ俺はどうなるんだよ! お前に出会って救われた俺は? 俺はお前がここに居なかったらずっと今も、頭がおかしい人間なんだって自分のことを否定して、毎日不安でいっぱいで、誰にもわかってもらえないって一人ぼっちのままだ。そんな世界を、俺を変えたのはお前との出会いだ」

 あの日、お前に出会えたから。
 お前と一緒に怖い出来ごとを乗り越えてこれたから。
 だから、今の俺があるのに。

「お前がどういう人間だったのか、その頃のお前がどんな選択をしてどんな酷いことをしたのか、話を聞いた中でしか想像ができないんだけど、でも、俺も同じだったよ。お前と同じで、そんなわけないって思った。でも過去を知ってるっていう人間にそう言われたらそう受け取るしかないよな、俺は見てないし体験してないんだから。でもさ、幽霊になった後のお前のことなら、俺が一番よく知ってる。お前がどういう人間で、お前が俺にどんなことをしてくれたのか、今この世に存在する誰よりも、多分お前自身よりも、俺が一番理解してる!」

 意識がぼんやりしたお前より、鮮明に、はっきり、俺はお前のことを見てきたんだから。

「お前は俺を助けてくれて、俺の感情を気遣える優しいやつだ。頭のおかしい俺にしか出会えなかった特別な友達だ。お前に会えて、俺は幽霊が見えるだけの普通の人間だって思えるようになったし、だからお前に会えたんだって思ったらそのせいで怖い出来ごとが起こってしまうとしても、それでもよかったのかもって思えてる。死ぬ前のお前が本当のお前だとしても、俺にとっては俺と出会った後のお前も本当のお前だ。俺を変えた、俺の人生に一生残る、大事な友達だ。お前の選択が今を作ったんだとしたら、それがなくちゃ俺たちは出会えなくて、俺は変われなかったんだろ? だったら俺にとって、お前の全部は必要だったよ。お前がここに居なきゃ俺はここに居ないんだから、他の誰がなんと言おうと俺にはお前が必要だったよ!」

 だから、

「俺たちの今までを、そのお前を否定するなよ……!」

 悲しかった。捨てられた気分だった。
 中宮の言葉が、俺のことも傷つけた。

「そんなの、寂しいだろ……っ」

 俺のことも全部、否定された気持ちになったから。途端に今までの思い出から全ての中宮が消え去って、俺だけ取り残されたように佇むアルバムが出来上がってしまった気分だった。
 きっとずっと、そのアルバムは俺の心に残るだろう。写真を撮ったみたいにその時の俺たちを切り取って、何度も何度も見返すんだ。忘れたくないから。思い出して、それが今の俺を俺にしてくれるから。
 ……そういう気持ちで残してたのかな、中宮は。
 生き物の命を正当な理由なく奪う行為を肯定はできない。仕方ないよな、なんて言えない。だってそれが許されるなら人は人を殺しても良いことになると思うから。
 でも、

「中宮なら……それが中宮なら、俺は全部理解したいと思うよ。どんな中宮でも全部、俺の大切な友達だって、受け入れさせて欲しい」

 お前がどんなやつだって、俺にとってのお前は特別で、大切で、必要な存在だから。
 今の中宮はもちろん、昔の中宮のことも。

 そっと手が伸びてきてハッとした。その手が俺の目元を拭って戻っていく。

「……どうして泣いてるの?」

 馬鹿にしてるわけではない。純粋に訊ねられている。

「お前と、自分のために泣いてるんだよ」

 そう答えると、俺の涙を拭った指先を見つめて中宮は言う。

「僕も泣けたらなぁ」

 そう言って、ふっと柔らかに——中宮は、笑った。
 ふわりと、優しく、包み込むように。

「中宮、お前……」
「なんか、泣けないけど笑えるなって思って。笑いたかった。だって嬉しいから」

 記憶を失って、感情を思い出せなくなった中宮はずっと無表情だった。そんな中宮が見せた、初めての笑顔。

「僕もだ。木内君に会えてから変わった自分が居る。自分が誰だか今、わかった気がする。記憶があるとかないとかじゃなくて、木内君の特別な友達の、幽霊の僕がここに居るんだって。思い出せなくても、なくなってしまっても、新しく得られたものがあればそれが僕になるんだ。もしかしたらそれで良いのかもしれない」

 そう言って中宮は空を見上げた。もうすっかり暗くなっていて、星が出始めていた。

「ごめんね木内君、覚悟できてるなんて言っておきながらパニックになって。いつもなだめてくれてありがとう。遅くなっちゃったから帰ろうか、送るよ」

 そう言う中宮は本当に最後まで消えずに俺の隣に居た。山を下りて、バスに乗って、あの街灯を通り過ぎて、家の前まで、ずっと。

「じゃあね、木内君」

 そう微笑む中宮のすっきりとした顔に、察する。

「……もう行くのか?」

 成仏するのか?とは聞けなかった。多分怖かったんだと思う。そうだと決まってしまった時に中宮を引き止める言葉を口にしてしまいそうで。

「わからない。いつも気づくとここに居る、みたいな感覚だから。でもなんかもう満足したような感じはあるかもしれない。どうやって死んだのか知れたし、過去の自分のことも知ったし、それに、君が僕にしてくれたから」

 中宮はずっとふわふわしていた。柔らかな雰囲気を醸し出して、これが成仏する前の空気感なのか、元々の中宮が持つ空気感なのかはわからない。でも、なんだか幸せそうだった。

「木内君のおかげだ。全部、全部そう。君に出会えて良かった。君に出会えたから幽霊になって良かった。だからもう、僕は大丈夫。でも木内君は怖がりで泣き虫だからなぁ……」
「もう平気だって、お前の前でしか泣かないし。俺は案外強い人間だよ。だから大丈夫」

 そう、大丈夫だ。だから良いんだ、もう。いつかのさよならが今日でも、もういい。
 こんなに晴れやかな中宮が見れたんだから。

「お前のこと、一生忘れない。めげそうになった時は思い出すよ、俺を肯定するために」

 それが案外強い人間だよ、なんて未来の俺を言い当てる根拠だった。もう泣かない。もう負けない。俺はお前のおかげでそんな俺を想像できるから、だから今、お前を笑顔で見送るよ。強い自分の予行練習だ。

「ふふっ、そうして」

 笑った中宮はフッと消えた。
 それが中宮の成仏した瞬間だったのかはわからない。
 けれどそれからまだ俺は中宮の姿を見ていないから、そうなのかなって思ってる。あれはやっぱりさよならの挨拶だったのかなって。