柊との生活が始まった。穏やかな日々が過ぎていく。
「紅茶で良かったか」
朝食が終わり、雪乃は居間のソファに座らされている。帝城の最上階の一角、柊が与えられている居住区の居間には、大きな窓から爽やかな陽光が差し込んでいる。
テーブルの天板が陽光の粒が跳ねる様子は、とても久門家ではこの角度で見ることは出来なかった。雪乃が家のテーブルに向かうときは、いつもぞうきんを手にして、拭き掃除をするときだったから。
その、雪乃が座っているソファのある居間と続きの食卓の向こう、台所で、柊が白いティーポットを持って立っていた。
「あ……っ、柊さまのお飲みになりたいもので……」
「そういうわけにはいかない。雪乃に出そうとしているのだから、雪乃が飲みたいものでなくては駄目だ。紅茶でなくとも他にもあるぞ。それとも今は茶は要らないか」
やさしい声音に、自分はこんな風に意思を問われたことがあっただろうかと今までを振り返る。
常に家族に傅き、光敏が差し入れてくれる甘味でさえ、厚意を嬉しく思ったが、本当なら彼の立場を悪くするのだから受け取ったらいけなかったのに、雪乃が断り切れずに折れた状況だった。
その結果が今この状況に結びついているのが、なんとも複雑な思いだが、柊は常に雪乃の希望を問うてくれる。
味の付いた飲み物など、どれでもありがたいと言っても、茶を煎れる度に、緑茶か、紅茶か、はたまた珈琲か、などと聞いてくれた。
さらには柊の選択肢の与え方は光敏と異なり、断る選択肢を含んでいた。改めて、柊はやさしいのだな、と雪乃は思った。
「ええと、そうしましたら、柊さまがお好きな、紅茶を……」
微笑えんで立ったまま、こちらを伺う柊に、そう言うと、彼の目がやや見開く。
あのとき。雪乃が柊と約束を交わしたとき。柊は出された紅茶をひとくち飲んだ。そのときに少し目元が緩んだような気がしたので、紅茶が好きなのだろうなと思ったのだ。
「……俺は、そんなことを言っただろうか」
意外そうなその反応に、想像が当たっていることを予感した。雪乃は嬉しくて、口許をほころばせる。
「いえ、おっしゃったことはございませんが、そうなのかな、と思いました。……当たっていましたか?」
「……そうだな、当たっている。君はよく周りを見ているな。言い当てられて、驚いた」
驚いた、と言って嫌そうではないので、雪乃は嬉しくなる。雪乃のために穢れを喰って、雪乃のために選択肢を用意してくれる柊に、少しの恩でも返したかった。
雪乃の気持ちを分かってくれたのか、柊は穏やかな笑みを浮かべて微笑えむと、白いカップに香り高い紅茶を煎れてきてくれた。
音もさせずにそれをテーブルに置くと、ソファの背に手をつき、雪乃のつむじに唇で触れる。湿った感触は感じられないが、柊が傍にいると思うだけで、心臓が跳ねて走り出す。
するりと彼は雪乃の隣に座り、肩を触れさせながら雪乃の顔を覗き込む。
「……っ」
「思うことを悟られるのは、あまり好かないと思っていたが、案外そうでもないものだな」
柊は雪乃の顔を見つめ、蕩けるように微笑えんでそう言った。その瞳の色に、心臓がどくどくと跳ねる。
こんなことで喜んでもらえるなんて、今までは想像もつかなかった。でも、地下の牢で見た柊が、今、こんなふうに穏やかでいてもらえるなら、雪乃は彼のために何だってしたい。
(だって、私は何も出来ないのですもの……)
柊と暮らし初めてから、もう十日になるだろうか。未だ柊は、雪乃の穢れを引き取るだけ引き取って、雪乃に清めを強要してこない。
どうも彼が雪乃に触れるとき、多少は清めが効いているらしい。しかし、いかんせん柊の負った穢れが多すぎるのだろう。時折辛そうな表情を見るので、交換条件なのだし、ちゃんと求めてくれれば、応じるのに、と思っている。
それについては、雪乃が積極的に申し出ればよいだけのことなのだが、請われていないことを雪乃から図々しく行うことも出来ず、結果、柊が雪乃の穢れを引き取っていくことばかりになっている。
(結局、私は意気地がないのだわ……。お義兄さまのように、頑なに言われてしまったら、私はもう何も出来なくなるもの……)
差し出される要望に応じることは出来る。でも雪乃は、光敏の厚意に折れてきたように、自分の気持ちを突き通すことが、苦手だった。
(柊さまは、それでも私に選ばせようと、頑張ってくださってる……。私も、そのやさしさの恩返しがしたいのに……)
雪乃が悔しく思ったその気持ちさえも分かってくれたのか、柊はもう一度微笑えんでやさしく言った。
「雪乃が思うほど、今の俺は自分を不幸だとは思っていない。もともと責に不満はないし、今は君がいてくれるからな」
言い終わってもう一度、今度は前髪にくちびるを落とす。雪乃が息を呑むと、その距離から眼差しで茶を勧められて、雪乃はおずおずとカップを手に持つ。……その手も、随分と白くなった。
まだまだ柊から離れて時間がたつと、体の内に溜まっている穢れの影響で、黒ずみが浮き出て、汚くなるのだが、それにしたって、ずっと黒ずんだ手でいたために、一瞬でも自分の手が白いなどという状態を見ることが出来るなんて、夢にも思わなかった。
(……不思議だわ。自分の手が、こんなに白いなんて……)
柊と暮らす生活の中で、彼は時間があれば、雪乃に触れた。穢れを引き受けるためだろう。
やさしく指の腹や背で撫ぜられることが多い。だが、時折、今みたいに肌に触れないところにくちづけを落としたりする。
(……っ)
今しがた感じた、柊の息づかいがとても近い感覚を、また体の内に思い出す。ぶわっと血液が沸騰したような感覚になり、どくどくと心臓が走り始める。
「ん? どうした?」
ごく耳の近いところで、柊が囁く。鼓膜の内側で、ばくん! という心臓の破裂音が聞こえた。
「い、いいえ……っ。と……、とても香りのいい紅茶ですね……っ」
本当は、柊がこんな近くにいては、紅茶の香りも味も、分からないのだが。
それでも柊は、雪乃の言葉にほっと安堵の息を吐き、嬉しそうにする。
「そうか、良かった。榊に取り寄せさせた茶葉だ。今、外つ国から仕入れているものの中でも、特に品質が良いと、榊が太鼓判を押していたよ」
帝に……! と雪乃は気絶しそうな気持ちになる。しかし、白く華奢なカップを持っていたため、それは耐えた。
「そ……、そうなのですか……」
「しかしそうだな。もしかしたら、雪乃の好む香りや味のものが、もっとあるかもしれない。それに、君が着る着物や髪を飾るアクセサリーももっと欲しい。君の体が痛まなくなったら、一度街に出かけないか。俺と行くのが嫌なら、そう言ってくれていい。代わりに、榊にでも付き合わせよう」
その、柊の代理に帝を立てるのはどうなのか、と思うが、問題はそこではない。
(街に……)
街、と聞いて不安になるのは、そこにある穢れが雪乃の体に入ってこないか、ということだった。
父の施した封印は、穢れを吸着しやすく術を施してある。だから日桜里たちの装束の穢れを雪乃が体に取り込めたのだ。
そんな術を施された身で、穢れのただよう街に出かけたら、それらが雪乃に入り込んで、一緒に歩いている柊が最初の時のように自我をなくしてしまったりしないだろうか。
街中でそんなことになれば、人々が柊を見る目が、日桜里たちが雪乃に向けた目と同じになってしまう。そんなことは絶対にしたくない。
「で……、ですが、穢れを溜め込んだ私には、そんな高価なお品は分不相応ですし、今お借りしている着物も十分素敵です」
雪乃がいま身につけている着物は、鮮やかな萌葱色に桜散らしが描かれた美しいものだ。帯は亀甲紋に金糸銀糸の刺繍が施してあり、久門家にいたころには身につけるなど想像も出来ないような逸品だ。
そんな贅沢を、柊は雪乃に与えた。
いや、柊が雪乃に与えた贅沢はそれだけではない。いま出してくれた茶に始まって、飲食も日桜里たちが口にしていたものよりも、高価な食材であると、家で炊事をしていた雪乃は分かる。居住に目を向ければ、柊と一緒に過ごすこの居間や、食堂、はては風呂や与えられた私室まで、和洋問わず、素晴らしい造りと調度が配された、贅を尽くした空間になっている。
粗末ともいえないほど惨めな生活しか許されなかった雪乃にとって、今は夢を過ごしているようなものだ。
なのに、柊はそれにうんと頷かない。やわらかく微笑えんで、雪乃を甘やかす。
「俺が地下を出て、ここにいられるのは、雪乃のおかげなのだから、そんなことは気にしなくていい。……というか、俺の謝意だと思って受け取ってほしいのだが……」
珍しく、選択肢に否やを含まない言い方で、柊が言う。
確かに、国の穢れを引き受ける役割は未だ負っているはずなのに、柊は最初のときのように自我をなくしたり、暴れたりはしていない。
榊は柊が暴れる危険性があるから、あの地下牢に彼を繋いでおかなくてはいけないと、あのとき言っていた。それが、雪乃に触れて、穢れを喰う際に雪乃が彼の穢れを清めているからだとしたら、彼が雪乃に感謝の念を抱くのも、分からないではない。……身の内の穢れを請け負ってもらい、体の痛みから解放されつつある雪乃が、柊に感謝の気持ちを持つように。
そう考えると、柊の厚意は、受け取るべきである気がした。なので、ちいさくこくりと頷く。
「……では、いまお借りしているお着物については、大事にさせていただきます……」
「いや、いま雪乃の部屋に用意してあるものは、君のために俺が勝手に用意したものだ。だからあれらは君のものだし、俺が勝手に選んだから君の好みに合わないものもあるだろう? 好みでないものを使う必要はない。だから、雪乃の好きなものを、買いに行こう」
やはり、街へ誘う柊に、しかし憂慮を伝える。
「ですが、穢れをもつ身で街を歩くのは、街の人のために良くないと思います……。それに、いま、この場にいられるのは、柊さまが私の穢れを少しずつ請け負ってくださっているからですし、その分、柊さまはお体が辛いはずです。そんなお体で街へ出かけたら、祓い師たちから請け負う以上に、街の穢れが、柊さまを苦しめませんか……」
雪乃の懸念に、柊は、なんだそんなこと、と全く気にしていないように笑った。
「そもそも祓い師から請け負おうと、街で俺が直接喰らおうと、この国の穢れは俺が負う責任を持っている。俺が穢れを請け負うことや、それで苦しむことは、俺に課された責務であり、それを雪乃が辛く思うことはない」
苦しむことが、課せられたことと笑う。そんな柊を、痛いと思う。
なぜ痛みや苦しみを、笑って済ませてしまうのか。雪乃にだって、体の痛みや、穢れを負う辛さを気遣ってくれた光敏がいたのに。
もしかしたら、それを担うのは榊なのかもしれない。
(でも、榊さまは、国を守る立場でもいらっしゃるから……)
そう。彼は柊に一番近い存在である一方で、柊が務めを果たすことを求めている。地下の牢で柊を剣の鞘で打ったことは、記憶に新しい。榊の立場では仕方ないのかもしれないが、だが一方で、ねぎらいのひと言でもあったら良いのに、と思う。
雪乃は享受できたこと。柊が与えられないもの。
それを思って、胸の内が、もやもやと晴れない空のように曇っていく。柊が、微笑む。
「また、何かを言いたそうな顔をしているぞ」
決してとがめる口調ではなく、柊は言う。言いたそうにしている、と言いつつ、言うも言わぬも強要しないが、まなざしに背中を押されて、雪乃はぽそりともやもやを言葉にした。
「なぜ……、柊さまは、ご不満に思われないのですか……?」
榊を含む周囲の対応や、自分の境遇、なにより自分の負う責務について。
全てを含んだ雪乃の問いに、柊は問いで返す。
「では、雪乃は自分の体質をなぜ不満に思わなかったのだ? 幼い頃は祓いの力があったのだろう?」
そういえば、と雪乃は胸に手を置いてみる。父は雪乃がある日突然穢れた、とだけ言って、その原因には言及しなかった。
とはいえ、穢れるのは気で、人間が穢れるいう事例は聞いたことがなかったので、本当に『何故だかそうなってしまって、しかたなかった』としか言いようがない。
「理由も原因も分かりませんでしたので、不満をぶつける先がありませんでしたから、考えたこともなかったです……。ただ、穢れてしまったことで、家族に迷惑を掛けたことだけが、申し訳なくて……」
雪乃が目を伏せがちに話せば、柊も穏やかに応える。
「俺も、同じだ。なぜ人柱として生まれたのかなど、俺にはわからない。だから、不満に思うこと自体が無駄なのだ。それより人柱がいないと、国が安寧に保てない。自我をなくし、獣に成り下がったとしても、俺は自分の責に、誇りさえ持てる」
強い光が、柊の瞳に宿っている。
(なんて、つよいお方……)
雪乃は、感動すら覚えた。
柊の、柊たる思いが彼を形作っているのなら。
(この方を、私が持つという清めの力で、支えられないかしら……)
彼が触れてくれるから、清められるらしい、という曖昧なことではなく、雪乃が柊を、その誇りを支えるために、清めたい。
(そうよ。私を救ってくださった方、この国を救ってくださっている方のためだもの。駄目だと言われても、何度でもお願いするわ……)
否を怖いと思ってはいけない。柊が雪乃に選択することを求めているのだから、雪乃は彼を清めることを選べば良い。
「柊さま……」
勇気をもって、柊の手に触れる。そっと彼の手の上に自分の手を重ねれば、彼は苦笑してそれをやんわりと退けた。
その、苦笑いと、退けられた手に、落胆の思いが強くのしかかる。しかし柊は、君の意志を否定するつもりではないが、と前置きして、続けた。
「あのような条件は出したが、そもそも俺は雪乃が負う穢れを請け負いたいだけなのだ。それが俺の役目だからな。偶然、君が清めの巫女であることで、俺が少し楽になる、と言うだけだ。それに今、君の力は、君の身の内の穢れを清めるために使うべきだ。そうでなくては、君は穢れに飲まれてしまう。だから君はそう気負わずとも良い」
やさしい思いやりで、柊は雪乃の選択を退ける。それでも雪乃はこの選択肢を選ぶと決めたのだ。
「ですが、私の穢れは柊さまが請け負ってくださっています……。私の身の内の穢れは、少なくなっているのではないのですか……?」
だったら、自分に対して使う力が余って、柊にだって、使えるはずだ。そう言ったが、柊は雪乃に対してではなく、憎々しい口調で、唸った。
「俺が君の穢れを請け負っても、君に施された術が、君の体内に周囲の穢れを取り込んでしまっている。以前と全く同じではないが、それでも君が俺のために力を使えば、君自身が保てない。無理は良くない。俺がもっと引き受けきってから、それは頼もう」
そう言って柊は、ぽんぽん、と雪乃の頭を撫でた。彼のあやすような仕草に、情けないやら悔しいやらで、雪乃は顔を歪めた。
それでも、そこで立ち止まることなく、言葉を継ぐ。
「……私が柊さまの穢れをすべて清めるには、どうしたらよいのでしょうか……」
柊は雪乃が彼の穢れを清めた、と言った。でも、『少し』体が楽になったくらいでは、きっと彼の感じる体の痛苦はやわらがない。雪乃の穢れを全て引き受けようとしている柊の痛みがすべて取り除かれなければ、等価の交換にはならないのではないか。そう思うのに、柊は面白そうにくつくつと笑うだけだ。
「柊さま……」
「ああ、すまない。だが、人柱として責を負っている以上、穢れを負うことから逃れられないし、君が俺の穢れを全て清めようと思うなら、俺の傍にずっと(・・・)いてくれないと、出来ない」
だから、無理だ、と言外にそう言われた。その線引きに、少し寂しい思いがしてしまう。柊は、少しも自分が楽になる方法を考えないのだな、とまたも痛感したからだ。
雪乃の穢れを請け負ってくれるということは、雪乃があのときから生きてきた時間全てを救ってくれるということに他ならない。なのに彼は、その意味の重さに気付かず、雪乃にだけ、安寧の道を示してみせる。
柊のおかげで、雪乃は家にいた頃に比べて随分体が楽だ。体の痛みと、虐げられていた生活の両方から救ってくれる柊に、礼をしたいと思ってもそれは無駄だと言うのだろうか……。
(私だって、柊さまにつかの間でいいから、安らぎの時間を差し上げたいわ……)
それには、柊の穢れを清めなければならない。今、それは、出来ないみたいだけど。
(でも)
今は駄目でも、いつか柊は雪乃を頼ってくれるという。それを希望に、今は柊を頼ろう。
(だとしたら、今の私が出来ることで、柊さまに安らぎを差し上げられることって、なにかしら……)
交換条件だった清めも出来ない状態で、雪乃が柊の安らぎに貢献するとしたら……。
「柊さま」
雪乃は、柊の顔を真っ直ぐ見た。
「街へ、参りましょう」



