「ちょっと、お義姉さま! 早くしてくださらない!?」
華やかな着物に身を包んだ義妹の日桜里(ひおり)が、軒先から庭でたらいに向かっている雪乃(ゆきの)を怒鳴っている。
今、雪乃が手にしているのは、日桜里が身に纏う祓い師の装束だ。日桜里は義兄の光敏(みつはる)と共に、国を穢れから守る役割を担う久門家の一員として、日々おつとめに励んでいる。
祓いを行うものは、自らが穢れてはならず、そのため装束には緋色が用いられる。軽やかに駆けるための袴と、動きを遮らないよう袖を取った羽織である上掛けは鮮やかな緋色をしている。その、緋色が黒ずんで汚れている。たらいの横に置かれている緋色をした剣の鞘もまた、黒ずんで汚れていた。おつとめで使う装束や道具は、街の穢れを祓うたびにその分溜まって、そのままでは使い物にならない。だからそれらを取り除かなければならない。
その仕事を、雪乃は任されている。日桜里が怒っているのは、もうすぐおつとめに出かけなければならないのに、雪乃が仕事を上手にこなせていないからだ。
装束の穢れを取り除こうとする手のひらが、ずきずきと痛む。穢れを拭い去ろうとするとき、それが雪乃の体をむしばんでいく。手指が黒ずみ、肌はぼろぼろだ。いや、黒ずんでいるのは手指だけではない。腕や脚、首から顔へも這い上がるように、雪乃の体のあちこちの肌は黒ずんでずきずきと痛んでいた。父が言うには、雪乃の身が穢れているからなのだそうだ。
「ああ、気持ちの悪い。そんな黒ずんだ肌を持つ姉がいるなんて女学校の皆さまに知られたら、私きっと、いじめられてしまうわ。お義姉さまは私の人生の汚点そのものよ」
蔑んだ目で日桜里に睨まれて、雪乃は力なく項垂れる。ずきずきと痛むのは、手指だけではなかった。
(でも、仕方ないのよ……。こんな穢れた姉が生きているのだもの、優等生の日桜里が私のことを疎ましく思っても、仕方がないわ……)
幼かったある日、雪乃の体は穢れに飲まれた。その雪乃の穢れを外に出すわけにはいかず、祓い師である父は雪乃の体に封印を施した。結果、穢れは雪乃の体内にとどまり、街が雪乃の持つ穢れによって侵されることはなかった。
その雪乃を有効に使おうと、一家が使った道具の穢れを雪乃の体内に取り込むことを条件に、雪乃はこの家で生かされていた。穢れは本来、祓わなければならない。祓わない代わりに生かされているのだから、どんなに手指が痛かろうと、胸が痛かろうと、それは関係ないことだった。
それに、穢れた身では家を出たって帝都のどこにも行くところがない。だから与えられた仕事はきちんとこなさなければいけないのに、雪乃ときたら一生懸命頑張っても、日々働いている日桜里や光敏の装束や道具をなかなか綺麗に出来ないでいた。
「まったく! そんな穢れた身をうちに置いてもらってることに感謝をして、もっときびきびとお仕事をしてくだされば良いのに、お義姉さまは本当に愚図なんだから!」
「ごめんなさい……」
「謝る口を動かしてる暇があるなら、さっさとやってくださらない!?」
更に怒号が飛んだとき、広縁の向こうから現れた光敏が日桜里に声を掛けた。
「日桜里。雪乃は十分頑張っているよ。僕たちは優秀だから、道具に着く穢れも多い。それを雪乃ひとりに拭わせているのだから、瞬時に出来上がらなくても仕方ないよ」
やさしい眼差しを、日桜里と共に雪乃にも向けてくれる。雪乃の体のこわばりが、ほっと抜けた。引き結んでいた唇がほどけて、彼を呼ぶ声が滑り落ちる。
「お義兄さま……」
「雪乃もいつもありがとうな。実際、大変だと思うよ。帝城の地下に立てた人柱さまをもってしても、帝都の穢れは日に日に増している。いかに人柱さまといえど、穢れを負いすぎて、もはや自我をなくし咆哮するのみだと、陛下はおっしゃっている。そんな溢れた穢れを拭うのだもの、雪乃はとても体が痛いだろうし、相当大変なはずだ」
穢れた自分を気遣ってくれる義兄のことが、雪乃は大好きだった。光敏が雪乃の頑張りを褒めてくれるから、どんなに虐げられても仕事を愚直にこなそうと思える。光敏がいなかったら、雪乃はこの身を悲しんで、命を絶っていたかも知れなかった。
「ありがとうございます、お義兄さま……。でも、お義兄さまたちが頑張っておられるのですから、私も頑張りたいです……」
弱々しいが、微笑えんで光敏に応える雪乃に、当たり前でしょう! と日桜里が怒鳴る。
「本来なら、祓いの出来ないお義姉さまなんて、久門の一員ですらないの! しかも穢れてるなんて、人柱さまが街の穢れを集めきれない理由は、お義姉さまにあるんではなくて!?」
日桜里の怒号に、ぐっと奥歯を噛む。それは雪乃が常々考えていたことだったからだ。
帝都に穢れが増え始めたのはいつからなのだろう。雪乃が幼かった頃は、日桜里や光敏の道具がこんなに穢れるほど、街や国の穢れは酷くはなかったように思う。
もしかしたら、と思う心は、雪乃の心をむしばんでいく。自分が国を穢れへ導く旗を振っているのかと思ったら、こんな命など要らないと思うことも何度もあった。しかし、その度にそれを止めたのは光敏だった。光敏はいつも真剣な眼差しを雪乃に向けて、こう言った。
「いつか僕が、雪乃の穢れを祓ってあげるよ。今はその力を持たないけど、いつかきっと」
微笑えむ光敏の言葉は雪乃の希望だった。いつかこの身の穢れを祓ってもらったら、また誰かにありがとうと言ってもらえるような、祓いがしたい。その思いが、穢れを拭う手に力を込めていた。
ぐっぐっ、と日桜里の装束の穢れを拭っていく。どれだけ手が痛くても、光敏の言葉があるから、頑張れる。やがて新品同様に穢れの晴れた装束を雪乃からひったくって、日桜里は家から出て行った。
(日桜里、おつとめに間に合うかしら……)
手間取ってしまったせいで、彼女が怒られていたらどうしよう。そんな心配をしていると、光敏が袖から取り出した紙袋を、雪乃の手の上に置いた。彼を見上げると、義兄は片目をつむり、唇に人差し指を立てて、内緒の仕草をした。
「頑張っているご褒美だよ。疲れただろう、甘いものでも食べて、休憩したら良い。義父さんと母さんには内緒だけど」
袋の口を開けると、そこにはまんじゅうがひとつ、入っていた。愚図の雪乃は両親の怒りを買うことも少なくなく、食事を抜かれることも多いが、光敏はこんな風にいつも雪乃を気遣ってくれる。しかし。
「でも、これを頂戴したら、お義兄さまがお義母さまに叱られませんか……」
義母は雪乃を嫌っているが、義妹と義兄を愛していた。そんな光敏が雪乃に差し入れをしたとなれば、彼が叱られないか。そういつも心配している。
「いつも聞かれるからいつも答えるけど、それは大丈夫だよ。雪乃はそんなこと心配せず、少しは食べて元気になった方が良い」
義兄のやさしさが身に染みる。そうして結局また差し入れを受け取ってしまうのだ。
「……ありがとうございます、お義兄さま……」
昔は光敏が両親の怒りを買ってしまうのではないかと、差し入れを拒絶したが、彼は何度でも持ってきて、受け取らないとその度に悲しそうな顔をした。だから今みたいに、両親には内緒で受け取ることにしたのだ。
雪乃は紙袋をさっと袂にしまい込むと、光敏に深く頭を下げて、家事をするために走って行く。袖の重さに心をあたためられながら廊下を行くと、怒声に呼ばれた。
「雪乃! この売女!」
声と共にパシンと木の棒が雪乃の胴を叩いた。強烈な痛覚に、うっと息が詰まる。見ると義母がそこに仁王立ちになっていた。隣にはおつとめに行ったはずの日桜里もいた。くすくすと笑う日桜里の隣で、義母は目をつり上げて、雪乃を見る。
「光敏を誘惑するなんて、なんて汚い根性を持っているのかしら、この娘は! 日桜里が知らせてくれなければ、そのまま光敏を懐柔するつもりだったのでしょう! 穢れるだけでなく精神まで腐りきって、本当に気分の悪い! お前なぞ、穢れに飲まれて死んでしまえば良いのよ!」
ついに見つかってしまい、瞬時に光敏のことを心配した。自分が怒りを向けられるのなら良いが、光敏にその余波が向かわないか、不安だった。
だから、義兄の善意だという主張は、しない。自分が売女でも良かった。大好きな義兄に怒りの矛先さえ向かなければ、雪乃はどんなに叩かれたって、平気だ。
「ああ、汚らしい! おぞましい! こんな女が同じ屋根の下にいると思うだけで、虫唾が走るわ!」
怒りにまかせて義母が木の棒で雪乃を何度も叩く。素手で触れないのは、雪乃が溜め込んだ穢れに触れないためだ。光敏もそれは理解していて、だから祓い師である彼は、雪乃に素手で触れない。
「申し訳……、ありません……」
何度も体を打たれながらも、額を廊下にこすりつけながら謝罪する。暴力を振るわれても、食事を抜かれても、雪乃は気にしなかった。雪乃には生きて、義兄の役に立つというささやかな願いがあったから。
「ああ、腹の立つ! あなた、こんな女を同じ屋根の下に置いておくなんて、もう我慢なりません。なにより、光敏のためにならないです。どうせこの国の穢れは人柱さまに飲み込んでいただく仕組みになっているのでしょう? だったら、雪乃の体ごと、人柱さまに喰わせてしまったらどうでしょうか!?」
義母の言葉に、雪乃はぎょっとして顔を上げた。
人柱とは、この国の穢れを一手にその体に引き受けている、超人的な存在だと、昔父から聞いた。先ほどの話では、既にその人は自我をなくし咆哮を繰り返すのみということだから、雪乃の身に溜め込んだ穢れを前にしたら、そこにいるのが人間かどうかなどということは認識もせず、雪乃を穢れとして飲み込んでしまうかもしれない。
それは、雪乃にとって、死を意味することだけど。
(私が死んでも、お義母さまはむしろ清々するのよね……)
それに彼女の隣でにやにやとこちらを見ている日桜里も。
「うふふっ。人柱さまは穢れを負いすぎて自我をなくしてしまわれたのよね。だったら今ここにいるお義姉さまも、実はもう狂ってて表面だけかわいそうな人間の振りをしてるだけかもしれないわ。そんな、人間じゃないお義姉さまは、もうずっと前から化け物だったんだわ。人柱さまに喰われてしまうのが、とてもお似合いですわよ」
愛らしい顔で微笑えむ日桜里の言葉に、胸を突き刺される。確かに他に穢れを体内に取り込んだ人、という存在など聞いたことがない。ほかに例がない、ということは、雪乃は化け物なのかもしれなかった。
義母は連れてきた父を見ているが、彼は義母の言葉を考えているようで、彼が雪乃に向ける眼差しは、昔の父とは全く違っていた。
大声を聞きつけて駆けつけてきた光敏だけが、義母を落ち着かせようと試みているが、かえって火に油を注ぐだけだった。
もう、この家に、雪乃の居場所はないのかもしれない。
(ううん……、穢れてしまったあの日から、きっと私の居場所なんて、この家にはなかったんだわ……)
だったら、光敏の役に立ちたい、という雪乃のはかない希望など、最初から叶うものではなかったのだろう。なにより、ここまで家族を不快にさせてまで、生きている必要があるだろうか。
そのとき、父が重々しく口を開いた。
「そうだな。雪乃は人柱さまのところへ、連れていこう。そもそも穢れは人柱さまに負って頂く決まりになっている。この家に、穢れを置いていて、良いわけがなかった」
こうして、雪乃の運命は、決まったのだった。



