ためらいの温度 触れた者を死なせる当主が生ける、ただ一輪の花嫁

 立ち昇る白い息。土汚れを洗ったために真っ赤になった指先に、ハァっと息をかけて温めながら歩く。

(暗くなるまでは外にいなくちゃ。清次様に見つかったら大変だもの)

 玲は私の姿を清次様に見られるのを嫌がっている。戸籍上存在する双子の妹『華』は、病弱で屋敷の奥から出られないことになっているからだ。
 以前、偶然にも清次様の前を横切ってしまった時には……後から玲に酷い目に遭わされた。清次様は私が華だと気がついていないようだったが、避けられる厄は避けたいものだ。

 時間があるから、少し先にある神社にお参りにでも行こう。そう決めた私が、大通りを越えて路地裏に入ったときだった。

「物怪だ、逃げろ!! 北東から来て……ッ!」

(物怪!? 都の中は異能使いの結界で守られているから安全なはずなのに!)
  
 どこから入り込んできたというのか。そんなことを考えた一瞬の間に、周囲の状況はガラリと変わった。男の声を皮切りに、通りを歩いていた人たちがワッと走り出す。
 このまま神社に向かうか、屋敷の方に帰るか。迷って出遅れてしまった私を突き飛ばすようにして人々が駆け抜けて行く。

 私も逃げなくては。そんな気持ちで結界の強い神社の方に逃げようとした瞬間、大通りの方から只事ではない悲鳴が聞こえた。

「子供が物怪に捕まったぞ!!」
「異能使いはまだ来ないのか!?」

「かぁさま……っ!」

 かつての自分の姿が脳裏に浮かんだ。頭で考えるより先に体が動く。大通りに飛び出して、悲鳴が聞こえた方向に向かって走る。
 少し北に行ったところで、人の背丈の二倍はあると思われる巨大な物怪が、五歳くらいの子供の足を握り宙吊りにしていた。獣のような姿をしており、ギョロリとした目で子供を見つめている。

 物怪は異形の存在。どんな姿の物怪であっても、彼らは人間を害する。その方法は物理的に殺すのだったり、食べるのだったり、呪詛をかけるのだったりと様々。
 物怪は異能使いの技でなければ倒せない。しかも私は異能使いではないので、あの物怪がどのような手段で害してくるのかの判別すらつかない。
 それでも、あの物怪が子供を害そうとしているのに違いはない!
 私は足元にあった石を拾って、物怪の方へと投げた。
 
(お願い、その子を離して!)

 ただひたすら心の中で願いながら、次々と手当たり次第に物を投げていく。石だけではなくて、落ちていた瓦に、店の立て看板。軒下の空樽を投げたところで、物怪の興味が私の方へ移った。ポイっと子供を投げ捨てて、ズシンと足音を響かせて私の方へと足を踏み出す。

 そうだ、それでいい。
 私がゆっくりと後退りすると、それに釣られて物怪も私の方へと歩み寄ってくる。

「おい嬢ちゃん、危ねえぞ! 子供は無事だ、逃げろ!」

 中年のおじさんが、物怪に投げ捨てられた子供を庇いつつ、私に声をかける。

(ううん、まだダメよ。本気になった物怪は動きも早いし、異能使いが来るまではこのまま引き付けておかなくちゃ……またその子供が狙われちゃうかもしれない!)

 だから私は足元にあった小石をいくつも掴んでから、踵を返して走り出す。物怪が私だけを狙うように、その小石を投げながら。

「嬢ちゃん!」

 中年のおじさんの声と、物怪の獣のような雄叫びが重なる。
 そこからは時折後ろを振り返りながらの全力疾走。宮仕をしている異能使いたちがいるはずの宮中に向かって、大通りを走る。

(お願い、みんな退いて! 物怪を刺激しないで!)

 前方にいる人たちが大慌てで端に避けていく。皆身を震わせるばかりで、物怪に手出しする様子はない。
 良かった。これなら異能使いの元まで、この物怪を引きつけたまま辿り着けそうだ。

 ……そんな気の緩みが油断に繋がったのだろうか。突然草履の鼻緒がぷつりと切れて、走っているそのままの勢いで地面に突っ込む。ザザッと土を擦る音がした次の瞬間には、強い力で上から体を押さえつけられていた。
 巨大な手で私を押さえつけた物怪が、その大きな異形の口でニタリと笑う。
 この状況になってしまえば、何の力もない私にはどうすることもできない。

 心の中に、情けない無力感が広がっていく。
 私には、玲やお母様のように、この物怪を倒す力はないのだ。
 
(……ううん。それでも、あの子供は助けることができた。お荷物女にしては頑張ったじゃないの)

 だからせめて最後の最後まで抵抗して、異能使いが来るまでの時間稼ぎをしよう。この物怪が、私の次に誰かを狙って被害を及ぼさないように。
 キッと物怪を睨みつけてから、地面の土を掴んで投げつける。口と目に土が入ってしまった物怪はフルフルと顔を横に振ってから、怒ったような雄叫びを発した。そして私を片手で押さえつけたまま、もう片方の腕を振り上げる。

 ……あぁもうダメか。私は痛みを覚悟して、ぎゅっと目を瞑った。その時だった。

「諦めるなっ!」

 スッと軽くなる体と、物怪の悲鳴のような雄叫び。ピシャリと何かが顔に掛かったような気がして瞼を上げる。
 振り上げていた腕を切り落とされて呻く物怪を、真横から若い男が蹴り飛ばす。動きに合わせて靡く、一つに纏めた銀の長髪から目が離せない。

「滅せよ。お前の居場所はこの世界じゃない」

 一気に物怪との距離を詰めた男は、手に持っていた刀を突き立てる。そしてそのまま物怪の顔を素手で鷲掴みにした。 
 その瞬間、物怪が力なく地面に倒れていく。ドサリという音と共に、周囲から歓喜の声が沸いた。
 しかしその男が紫水晶のような瞳で鋭い視線を送るので、周囲の見物人たちは途端に静かになり、蜘蛛の子を散らすように立ち去って行った。

「……大きさの割に、だったな」

 男は物怪から抜いた刀を血振りしてから、懐から取り出した和紙でスッと拭いて鞘に戻す。
 私はただ地面に尻をつけた状態で、呆然とそんな様子を見ていた。 

 そんな私に気がついたのだろうか。男は呆れたような声で私に話しかけてきた。

「子供を庇い物怪を引き連れて逃げた女がいると聞いて助けに来たが。まさかお前、異能使いでも何でもない一般人か?」

 ……まさにその通りなので、そろりと頷く。するとその男性はため息をついた。

「なんて命知らずな無茶なことを……ひとまずお前は顔を拭け。物怪の血は有害だから、早めに拭っておくに限る」

 何のことかと思って自分の頬に触れれば、手が真っ赤に染まった。驚いて慌てる私を見て、その男性はさらに深いため息をつく。黒い革手袋を取り出して、それを両手にはめた。

「死にたくなければじっとしていろ」

 男性は地面に尻をつけたままの私の真横に膝をついて、懐から取り出した手巾で私の顔を拭ってくれる。
 ゴシゴシと擦るような乱雑な拭き方で、非常に痛い。手袋をしたのは、物怪の血に触れないためだろうか?
 でも……こうやって手ずから拭いてくれるのは、きっとこの人が優しいからだ。

(そうだ。私、助けてもらったお礼も言えてない……!)

 といっても、お礼を伝える声を持ち合わせていないのだが……感謝の気持ちというのは、態度でも伝わるもの。だから私は血のついていない方の手で、私の顔を拭いてくれている彼の手に触れた。

「なッ、お前……!?」

(ありがとうございます。貴方のおかげで私の命は助かりました!)

 突然触れてしまったので、驚かせてしまったのだろうか。男性は私の手を拒絶するかのように払い避けて、手を引っ込めたが。……ぺこぺこと頭を下げ続ける私を見て眉間に皺を寄せた。

「お前、もしかして声が出ないのか?」

 そうです、の気持ちを込めてニコリと微笑む。

「助けを求める声も出ないのに、物怪を引き連れて逃げたのか? 馬鹿なのか?」

 お恥ずかしい限りだが、何も間違っていない。だから私はわざとヘラッと笑ってみせた。

「俺が怖くないのか。いや……その様子だと、俺が誰だか分かっていないのか」

 まさか身分ある高貴な人だったのだろうか。だから「軽々しく触れるな」の意味で手を払われたのかもしれない。
 彼の名前を聞くことも謝罪を述べることも出来ない私は、ただただ困ったように眉尻を下げた。
 そんな私を見て、眉間に皺を寄せていたはずの彼は……フッと口元を緩める。

「……面白いな、お前」

 彼は立ち上がって、持っていた手巾をポイッと投げ捨てるようにして私に渡す。慌ててそれを掴んだ私に、彼は紫の瞳を細めて、高い位置から笑いかけた。

「しっかり手の汚れも拭いておけ。その手巾はお前にやろう」