舞踏会の夜から、季節は二度巡った。王立ガレア貴族学園の中庭では、蔦薔薇が静かに冬支度を始めている。鮮やかだった葉は色を落とし、気高く咲き誇っていた花はもういない。それでも、土の下で根は深く生きている。わたしはその様子を、回廊の影からそっと眺めていた。
───平穏だった。少なくとも、表面上は。
アメリア・ローズベルは、もう自分を苛める台詞を口にしない。「庶民の分際で」だとか、「身の程を知りなさい」だとか、かつて彼女自身を縛り付けていた呪詛のような言葉は、学園のどこからも聞こえなくなった。授業中も、廊下でも、彼女は穏やかに笑い、誰かの視線を必要以上に追うことはない。
王太子殿下との関係も、変わらず続いていた。学園内では、二人が並んで歩く姿を見ても、誰も驚かない。護衛役の公爵子息は以前より少し距離を取り、文官の彼は以前よりも柔らかく笑う。すべては、あるべき場所に収まったかのように見えた。
───けれど。
学園の外、社交の場へと舞台が移れば、空気は残酷なまでに変質した。王宮主催の茶会。小規模な夜会。そこでは、アメリアの周囲にだけ、不自然で透明な境界線が生まれる。完全な排斥ではない。露骨な悪意でもない。ただ、「一歩引かれる」のだ。
挨拶はされる。笑顔も向けられる。けれど会話はさざ波のように途切れ、人々の目線はすぐに逸らされる。あの夜、自らを悪役と称して叫んだ彼女の姿は、貴族たちの記憶に「異物」として深く焼き付いてしまった。
「奇人」
「精神の危うい令嬢」
誰も口にはしないが、漂う沈黙は言葉よりも雄弁だ。アメリアは、それに気づいている。気づいていないふりを、誰よりも上手く演じられるようになっただけだ。かつての「自作自演」という過酷な訓練が、こんな形で彼女に強固な盾を与えているのは、あまりに皮肉な話だった。
「クリスティアナ」
不意に名を呼ばれ振り向くと、アメリアが中庭の入口に立っていた。
薄青の外套を纏い、髪はゆるく結われている。かつてのような、自分を大きく見せるための虚飾はない。彼女は今、血の通った一人の人間としてそこにいた。
「こんなところにいたのね」
「ええ。薔薇が、もうすぐ眠るので」
そう答えると、アメリアは小さく、愛おしそうに笑った。
「相変わらず、観察が好きなのね」
その響きに、もう棘はない。わたしはポケットの中、小さな手帖を指でなぞった。かつて彼女の絶叫を一字一句漏らさず書き留めていたページは、今は白紙が多い。
「……書くことが、減りました。あなたが、演じるのをやめてしまったから」
「それは、いいこと?」
問いかけに、すぐには答えられなかった。狂おしいほどの演劇が続いていたあの頃、わたしは確かに「物語」を享受していた。その罪悪感が、白紙のページに静かに滲む。
「……分からないわ。ただ、誰かが何かを演じていないと、筆が止まってしまう癖は、まだ抜けていないみたい」
アメリアは、少しだけ目を伏せた。
「私もよ。まだ、夢を見るの。誰かに苛められる夢。階段から落とされそうになったり、皆の前で罵倒されたり……あの時の私の台詞、そのままに」
胸が、きゅっと締め付けられる。彼女が一人で背負い続けた配役の代償は、今もなお、彼女の孤独な夜を侵食し続けているのだ。
「でもね」
彼女は顔を上げ、冬の太陽のような、淡く確かな光を宿した瞳でわたしを見た。
「目が覚めると、安心するの。───ああ、もう演じなくていいんだって。誰かを憎む役も、誰かに守られるのを待つだけの役も、もうおしまい。これからは、私自身の言葉を紡がなきゃいけないから」
王太子殿下との婚約の話は、まだ正式には出ていない。愛が足りないからではない。国として、彼女の「危うさ」を慎重に見極めているに過ぎない。それを、アメリアも静かに受け入れている。
「急がなくていいのよね、きっと」
彼女はそう言って、どこまでも澄んだ冬の空を見上げた。
「物語なら、イベントを逃すと失敗だけど……現実は、イベントの合間にこそ意味があるもの」
わたしはその言葉を、手帖の白紙に、静かに書き留めた。これは彼女の演技ではない。彼女の魂から溢れた、たったひとつの本物の言葉だ。
「……これからは、これを書くことにするわ」
「え?」
「あなたの芝居じゃなくて、あなたが今日、何を見て何を思ったか。それを観察させてもらうわ、友人として」
アメリアは一瞬驚いたように目を見開き、やがて今日一番の、そしてこの世界で一番「普通」の笑顔を見せた。悪役令嬢が不在だった世界は、確かに歪な傷跡を残した。物語のルールは壊れ、ハッピーエンドの形も変わってしまったけれど。
それでも。アメリアは生きている。わたしも、ここにいる。物語という舞台を降りた私たちは、冷たい風の吹く現実の上で、ようやく本当の一歩を踏み出した。
庭園の薔薇は、今はもう咲かない。けれど、厳しい冬を越えた先で、いつかまた芽吹く日が来るだろう。遠回りでも、不器用でも───それが、わたしたちの選んだ「現実」だった。
