この世界は、わたし───伯爵令嬢クリスティアナ・エインズワースがかつて夢中になって読み耽っていた乙女ゲーム、『薔薇の宮廷恋物語』そのものだった。
王都の象徴、王立ガレア貴族学園。燦然と輝く大理石の校舎、魔力を帯びて狂い咲く薔薇の庭園。視界に入るすべてが、あのゲームのビジュアルそのままだ。王太子エドワードを筆頭に、攻略対象の殿方たちは絵に描いたような美貌を持ち、その中心には庶民出身の奨学生――物語の主役、アメリア・ローズベルがいた。
わたしは、クレジットにすら名前の出ないモブ令嬢として、この世界に転生した。平凡な伯爵家の娘。目立たず、静かに、誰にも干渉せず人生を全うする。それが、わたしの誓いだった。だが、世界はどうにも噛み合っていなかった。物語を駆動させるはずの「悪役令嬢」が、不在なのだ。
王太子の婚約者としてヒロインを徹底的に苛め抜くはずのレイラ・ヴァレンシュタイン公爵令嬢。彼女の影も形もなく、歴史を紐解いても「存在していた」気配すらない。悪役令嬢という名の楔が打たれないせいで、物語は始まらないまま、滑り落ちるように停滞していた。
攻略対象たちはただの優秀な学生として過ごし、ヒロインのアメリアは誰からも苛められることなく、平穏な――けれど、どこか熱を欠いた空虚な日々を送っていた。
わたしは転生したモブ令嬢として、それを端から見ていた。しかし、その静寂は、ある日突然、爆発的な音を立てて破られた。
季節は春から初夏へ。昼食時の学園食堂。
「……どうして……どうして誰も私を苛めてくれないのっ!?」
突如として響き渡ったのは、アメリアの悲痛な叫びだった。周囲の視線が集まる中、彼女は栗色の瞳を怒りと焦燥で潤ませ、机を叩いて叫んだ。
「分からないの!? 困難を乗り越えてこそ、物語は輝くのよ! 殿下が私を庇ってくださるためには、誰かが私を苛めなくちゃいけないのに! このままじゃ、ただの退屈な毎日で終わっちゃうじゃない!」
周囲が戸惑う中、わたしだけは分かった。アメリアは真剣そのものだ。彼女もまた「ヒロイン」としての役割を自覚し、その「敵」の不在に耐えきれなくなっていた。その懸念は、翌日には最悪の形で現実のものとなった。
翌日、王太子の執務室前の廊下。アメリアは殿下の前に立ちふさがり、顔を険しく歪めて言い放った。
「庶民風情が王太子殿下に近づくなんて、身の程を知りなさいっ!」
それはゲームの悪役令嬢が発する、冷酷な台詞そのものだった。
「……アメリア嬢?」
困惑する殿下の前で、アメリアは一瞬表情を緩め、必死に説明した。
「違うの! 今のは悪役令嬢の台詞。私が、悪役令嬢を演じているの!」
その姿は、痛々しいほどに滑稽だった。
「さ、さあ、遠慮なんていりませんわ! 汚らわしい平民の手で殿下を煩わせるなんて……許しませんわ!」
王太子は戸惑いながらも、彼女の茶番に乗る。
「ええと……私は身分など気にしない。君は学園にふさわしい資質を持っている」
「なっ……そんなことを言われたら、私は……!」
アメリアは顔を覆い、涙目で殿下を見上げた。
「悔しい……! 殿下は優しいけれど、私は庶民。立場なんて超えられない……!」
それは完全な一人二役の芝居だった。図書室でも、剣術場でも。「平民の分際で」と罵倒する彼女自身が悪役令嬢であり、それに耐える可憐な少女もまた彼女自身。
周囲は距離を置いたが、攻略対象たちは違った。目の前で苛められ、涙を流す少女《アメリア》がいれば、助けずにはいられない。
その結果、アメリアは着実に好感度を稼いでいった。物語は、歪な形で動き始めた。狂っている。わたしは傍観に徹するべきだった。けれど、アメリアの姿は、目を離せないほど滑稽で、同時に眩しかった。
彼女は必死なのだ。「ヒロイン」として生まれ、与えられない「試練」を自ら背負っている。自分で自分を傷つけ、その痛みを優しさで癒す。そのあまりに孤独な情熱。
気づけばわたしは、ポケットサイズのノートに彼女のその日の台詞を書き留めるようになっていた。わたしは観客であり、彼女は孤独な主演女優だった。
秋、学園最大のイベント、大舞踏会。煌びやかなシャンデリアの下、アメリアは王太子にエスコートされ、一際輝いていた。完璧なヒロイン。そしてクライマックス。アメリアは殿下の手を離し、会場の中央へ進み出た。
「皆さま……わたくしこそが、この国の未来を脅かす悪役令嬢よ!」
凍りつく会場。彼女は自ら悪役を名乗ることで、断罪とハッピーエンドを同時に回収しようとしていた。
「アメリア嬢、君は悪役令嬢ではない。君は心優しく、聡明だ」
殿下の否定に、アメリアは涙を浮かべて叫んだ。
「違うの! 悪役令嬢がいないと、物語が始まらないの! 真実の愛のためには、試練が必要なのよ!」
彼女の言葉は、物語のルールへの悲痛な叫びだった。
舞踏会の後、深夜の廊下。アメリアは一人、座り込んでいた。
「……もう、誰も信じてくれない」
その小さな呟きに、わたしの足が止まった。モブのわたしが介入すれば均衡が崩れる。けれど、彼女の孤独が、わたしの無関心を打ち破った。
「ねえ、アメリア嬢。あなたが悪役令嬢をやる必要なんて、ないんじゃない?」
驚いて顔を上げるアメリア。わたしは彼女の隣に腰を下ろした。
「ここは物語じゃないわ。現実なの。あなたは今、ここにいる。アメリア・ローズベルとして本当に望むものは、何……?」
「私が、本当に望むもの……」
アメリアはかすかに微笑んだ。それは演技ではない、本心の笑顔だった。
「……ありがとう、クリスティアナ。あなたは、いつも見ていてくれたのね」
彼女がわたしの名前を知っていたことに驚いた。彼女は、わたしが隠れてつけていた観察ノートを見ていたのだ。
「あのノートに書かれた台詞は、いつも正確で、少しだけ優しかったから……」
その瞬間、気づいた。モブであっても、誰かを支えることができる。わたしが持っていたのは、見つめ続けるという、ささやかな誠実さだった。
「あなたの演技は、もう十分よ」
その言葉に、アメリアは小さく頷いた。
それから、アメリアは「悪役令嬢ごっこ」をやめていった。王太子も、彼女が背負っていた重荷に気づき、一人の人間として向き合い始めた。世界は崩壊しなかった。物語は、生きた感情によって新しい形で動き始めたのだ。
わたしは相変わらずモブ令嬢。けれど、もうただの観察者ではない。友人という新しい役割を得た。アメリアは時々、わたしのノートを借りて、過去の自分の台詞を笑いながら読む。
「あの頃の私、必死だったわね。でも、クリスティアナがいなかったら、私は本当に壊れていたかもしれない」
悪役令嬢不在で、始まらなかった物語。今、ようやく、愛と友情という新しい要素を加え、幕を開けた。
そしてわたしは今日も、彼らの現実の物語を眺めている。舞台の隅で、転生モブ令嬢として。静かに、しかし確かな存在感を持って。
