君のつづる文字に、恋をした

「委員決めをします」

 もうすぐ夏になろうとしている時期、期間限定の委員として「緑化委員会」が設けられることになった。
担任が黒板に名前を書いた瞬間、教室のあちこちから、面倒ごとを嫌がるような重たい空気が漏れる。
どの生徒も、すぐには手を挙げようとしなかった。

 唯は、少しだけ迷っていた。
単位のためには、何かしら委員をしておいた方がいい。
生憎、クラブ活動は妹の迎えがあるため続けられない。スポーツ大会や文化祭の役員は準備期間も長く、現実的ではなかった。図書委員のような静かなイメージの委員であっても、放課後に残る日がどうしても多く出てしまう。
それに比べて緑化委員会は、夏季限定であるうえ、活動は昼休みや、ほんのたまにある放課後の活動だけで済むらしい。
主な仕事は、朝の花の水やりや募金活動、そして平日公欠扱いで参加できる講習会などだと説明されていた。

 ――それなら、自分にもできるかもしれない。

 唯は特別進学生徒ではあるが、学力は気を緩めた瞬間、上位から一気に落ちる自覚がある。特段頭がいいわけではないのだ。
ただ、家庭の事情で、必死に勉強しているだけ。
こうした「保険」をかけておくことは、唯にとって決して悪い選択ではなかった。

「はい」

 控えめではあったが、唯はしっかりと手を挙げた。

「唯、大丈夫なの?」

 隣の席から、七音が少しだけ意外そうな声をかけてくる。

「うん。これくらいならできるかなって」
「ふーん」

 七音は一度だけ頷くと、次の瞬間、自分も手を挙げた。

「え?天城くん?」

 唯が思わず驚きの声を漏らす。それと同時に、担任もまた、意外な生徒の挙手に目を丸くしていた。

「誰も手を挙げないし。俺、暇だし」

 七音が肩をすくめるように軽く言うと、教室のあちこちからざわめきが広がった。

「お前ができるのかよー?」
 クラスの男子が笑いながら声を飛ばす。
「えー?七音がやるなら私もやりたい」
 女子が慌てて手を挙げようとした瞬間、七音がそちらを見て、先に口を開いた。

「残念、締め切りでーす。爪ん中に土入るぞ」

 七音の茶化すような言葉。

「それは困る〜!」

 女子の焦る言葉。
教室がどっと笑いに包まれる。七音の何気ない一言だけで、張りつめていた空気が一気に軽くなるのが分かった。


 ―――


 七音にとって、それは小さなチャンスだった。
そう思った自分に、少しだけ苦笑する。けれど同時に、それを逃したくないとも思った。
ノートの向こう側にいる相手に、唯が好意を抱いていることには、もう気づいている。
だからこそ、思ったのだ。文字の中で作られた自分ではなく、本当の自分を見てもらいたい、と。

ノートの中では、少しだけ整った言葉を選んでいる。乱暴な言い方も、雑な態度も、なるべく出さないようにしている。
けれど、それはあくまで「書いている自分」だ。
実際の自分は、もっと適当で、もっと口も悪い。真面目でも、誠実でも、たぶんない。

(それでも、こっちを見てほしい)

 七音は、ちらりと隣の席を見た。唯は、すでに配られたプリントに目を落とし、何かを書き込んでいる。
いつも通り、余計な動きの少ない、静かな横顔だった。

 緑化委員会。朝の水やり、昼休みの活動、たまにある放課後の活動。
同じ場所にいる時間が、確実に増える。偶然を装って話す機会も、いくらでも作れる。
悪くない条件が揃ったと、七音は感じた。

「……」

 七音は小さく息を吐いた。自由気ままを好む自分が、こんなふうに何かを計算して動くのは、自分らしくない気もする。
だが、今回は別だった。
ノートの中の「交換日記の相手」ではなく、現実の自分を見て、どう思うのかを知りたかった。
タイミングをうかがいながら、相手が思い描く自分と、本来の自分との齟齬を、正しい位置へと戻したかった。
本来の姿へと引き戻そうと、七音の胸に静かな決意が芽生えていた。

「よし」

 誰にも聞こえないほど小さな声で呟くと、七音は椅子の背にもたれた。これから始まる夏が、ほんの少しだけ楽しみになっていることに、自分でも気づいていた。


 ―――


 緑化委員の、初めての集会が行われた。
放課後の教室は、いつもの授業の時間とは違う、どこかゆるんだ空気に包まれている。
窓から差し込む西日の色も、昼間より少しだけ柔らかかった。

 唯は、配られた名簿を机の上に置いたまま、静かに席に腰を下ろしていた。
本来なら、この時間はもう帰り支度をしている頃だ。けれど今日は、父親が妹の学童の迎えを代わってくれることになった。
そのおかげで、こうして委員会に参加できている。
 ありがたい。と胸の内で小さくそう思う。
今日は少しだけゆっくり帰れそうだと、唯の胸は密かに弾んでいた。
隣の席では、七音が椅子の背にもたれながら、どこか面倒そうな顔で委員会の説明を聞いている。
机に肘をつくわけでもなく、姿勢が悪いわけでもないのに、なぜか「真面目に聞いていない感じ」が伝わってくるのが不思議だった。
 ふと、視線が合う。
その瞬間、七音はいつものように、何でもないことのように軽く笑った。
七音は、唯がどこか落ち着かない様子で視線を泳がせていることに、まだ気づいていなかった。
ニッコリと、柔らかい、優しい七音の笑み。
それだけのことなのに、唯の胸の奥に、一瞬、甘い鼓動が走った。

(……いや)

 唯は小さく視線を落とした。この感情は、きっと友情だ。そう思う。
クラスメイトとして、隣の席の相手として、少し距離が近いからこそ、ドキドキするだけだ。
だって――。自分の気になっている相手は、別にいる。姿も、顔も知らない、文字の向こう側にいる相手なのだから。

 ノートに綴られた言葉を、ふと頭の中でなぞる。
あの整った文章、穏やかな言い回し、時々見える不器用な優しさ。

(もし会ったら、どんな雰囲気の人なんだろう)

 また、そんなことを考えていた、そのときだった。

「すみません、遅れました」

 委員会が始まってしばらくしてから、教室の扉が開き、一人の男子生徒が入ってくる。
先生に軽く頭を下げながら、静かに空いている席を探すその姿は、どこか落ち着いていて、周囲の空気から少しだけ浮いて見えた。
 綺麗に整えられた襟元。皺ひとつない、きちんと着こなされた制服。姿勢もまっすぐで、歩き方にも無駄がない。
誠実そうで、真面目そうで――。

(……あ)

 唯は、思わず目を奪われた。
まるで、ノートの向こうにいる相手を、もし現実の姿にしたなら、きっとこんな雰囲気なのだろうと。
そう思ってしまうほど、その男子生徒は、自分がぼんやりと思い描いていた「理想」に近い空気をまとっていた。