初めてだった。長期休みでもないのに、返事のない交換日記を目にしたのは。
移動教室が始まる直前、七音は机の中からノートを取り出し、何度目か分からないほど同じページをめくった。
見慣れているはずの文字が、まるで自分とは関係のない誰かのやり取りを、遠くから眺めているような感覚だった。
ページの余白が、妙に広く感じる。
そこに返事が書かれていないという事実だけが、静かに、しかし確かに胸の奥を締めつけていた。
好きな人がいる。と、あの一文を書いたとき、七音は半分、賭けのつもりだった。
もし唯が少しでも反応してくれたら。ほんの少しでも寂しそうな顔を見せてくれたなら。あるいは、気にした様子を見せてくれたなら――。
そんな淡い期待を、どこかで抱いていた。
けれど、結果は違った。
唯を困らせてしまっただけだった。
そして、唯の口から何気なく語られた「気になる人の条件」が、自分とは遠いものだと知った瞬間、胸の奥がひどく静かに暗い底に沈んでいった。
返事のないページを見つめながら、七音は小さく息を吐いた。
教室のざわめきが遠くに聞こえる。
手の中のペンだけが、妙に重く感じられた。
やがて、迷うようにペン先を動かし、短い一文だけを書き残す。
『急にごめんね。気にしなくていいよ』
それ以上は、どうしても続けることができなかった。
これ以上言葉を重ねれば、きっと余計な本音まで書いてしまいそうだったからだ。
ページの上にペン先を置いたまま、七音はしばらく動けなかった。
けれど結局、新しい言葉を書くことはできず、小さく息を吐いてノートを閉じた。
***
移動教室から戻った唯は、机の中のノートを見つけ、小さく息をついた。
今回に限って、返事を書く時間がなかった。
いや、正確には、何を書けばいいのか分からなかったのだ。
好きな人がいると言われて、どう答えるのが正しいのか。
応援すべきなのか、それとも別の言葉を選ぶべきなのか。
考えているうちに、気づけば時間だけが過ぎていた。
(怒ってないかな……)
そっとノートを開く。そこにあったのは、責める言葉ではなく、短い謝罪と、いつも通りの柔らかな文字だった。
胸の奥に、ほっとしたような、それでいて少しだけ申し訳ない感情がゆっくり広がる。
(この人、やっぱり優しいな)
唯はペンを持ち、しばらく考えてから書き始めた。
『事をしなくてごめんなさい。恋愛は、よく分からなくて』
そこまで書いて、手が止まる。恋や愛についてはよく分からない。
今までそういう感情に目を向けてこなかった。だから不思議に思えるのだ。家族へ向ける気持ちとは異なる、他人に抱く恋愛的な好意が。
だから、「好き」という感情がどういうものなのか、それを知りたいと思った。
唯は、少しだけ迷いながら続けて書く。
『好きって、どういう感じなの?』
純粋な疑問だった。
数日後。移動教室から帰ってきてページを開くと、返事が書かれていた。
『その人のことを考えて、もっと知りたいと思ったり。少し特別に感じたり、かな』
その一文を読みながら、唯はしばらくページを見つめていた。
思えばノートを開くたび、胸の奥がわずかに騒がしくなる自分がいる。
相手の書く言葉を読み返し、どんな顔でこの文字を書いているのだろうと想像する。
次はどんな返事が来るのだろうと、気づけば考えてしまっている。
ただの文字のやり取りのはずなのに。顔も知らない相手のはずなのに。
(俺……もしかして)
そこまで考えて、唯は小さく首を振った。
けれど、否定しきれない感情が、胸のどこかに残り続ける。
もし、この気持ちが本当にそういうものなのだとしたらと考えた。
曖昧なまま、何気ない日記のような言葉を交わしているだけでは、きっとこの気持ちがどういう形ものなのかが分からない。
ふと、七音と過ごす時間を思い出す。
放課後に少しだけ一緒に歩いたこと。何気ない話で笑ったこと。
沈黙さえ心地よく、気まずさもなく、ただ隣にいるだけでドキドキしつつも落ち着く、あの感覚。
(天城くんは……)
七音の顔を思い浮かべながら、唯はゆっくりと息を吐いた。
(大事な友達、なんだと思う)
そう考えると、不思議と胸の奥が静かに落ち着いたが、何かがチクリと引っ掛かるようにも感じた。
けれどその一方で、ノートの向こうに居る相手が、どんな人で、何を考えていて、どんなふうに笑うのか。
もっとちゃんと知りたい。そう思った。
ちゃんと向き合って、自分の気持ちが何なのか確かめてみたい。
唯の指は自然とペンを握っていた。
しばらくの間、交換日記の表紙を指でなぞる。
相手のことを考える時間が、最近少しずつ増えている気がする。
どんな人なのか、不思議と想像だけは少しずつ具体的になっていく。
けれど、ふとした瞬間に思い出す。
(相手は……男、なんだよな)
最初にそれを知ったときは、特に何も思わなかった。ただ、同じ男なのだと、それだけのこととして受け止めていたはずだった。
それなのに、こうして相手のことを考えて胸がわずかに落ち着かなくなるたび、唯は自分の感情の置き場が分からなくなる。
(これって……おかしいことなのかな)
答えの出ない問いを胸の中で繰り返しながら、唯はもう一度、そっとノートを開いた。
ページの向こう側にいるはずの相手を、確かめるように見つめながら。
好きという感情について、もう一度、考える。
そして、たどり着く。相手の性別がなんであれ、抱いた感情に名前をつけたくて――。
『君のことを、もっと知りたい』
その一文を書きながら、胸の奥が、ほんの少しだけ高鳴っていた。
そのとき、七音の声が後ろから聞こえた。
「あ、唯。戻ってたんだ」
振り向くと、何気ない顔で立っている七音がいた。
その瞬間、唯の胸のざわつきが、一層混ざり合うような感覚がした。
移動教室が始まる直前、七音は机の中からノートを取り出し、何度目か分からないほど同じページをめくった。
見慣れているはずの文字が、まるで自分とは関係のない誰かのやり取りを、遠くから眺めているような感覚だった。
ページの余白が、妙に広く感じる。
そこに返事が書かれていないという事実だけが、静かに、しかし確かに胸の奥を締めつけていた。
好きな人がいる。と、あの一文を書いたとき、七音は半分、賭けのつもりだった。
もし唯が少しでも反応してくれたら。ほんの少しでも寂しそうな顔を見せてくれたなら。あるいは、気にした様子を見せてくれたなら――。
そんな淡い期待を、どこかで抱いていた。
けれど、結果は違った。
唯を困らせてしまっただけだった。
そして、唯の口から何気なく語られた「気になる人の条件」が、自分とは遠いものだと知った瞬間、胸の奥がひどく静かに暗い底に沈んでいった。
返事のないページを見つめながら、七音は小さく息を吐いた。
教室のざわめきが遠くに聞こえる。
手の中のペンだけが、妙に重く感じられた。
やがて、迷うようにペン先を動かし、短い一文だけを書き残す。
『急にごめんね。気にしなくていいよ』
それ以上は、どうしても続けることができなかった。
これ以上言葉を重ねれば、きっと余計な本音まで書いてしまいそうだったからだ。
ページの上にペン先を置いたまま、七音はしばらく動けなかった。
けれど結局、新しい言葉を書くことはできず、小さく息を吐いてノートを閉じた。
***
移動教室から戻った唯は、机の中のノートを見つけ、小さく息をついた。
今回に限って、返事を書く時間がなかった。
いや、正確には、何を書けばいいのか分からなかったのだ。
好きな人がいると言われて、どう答えるのが正しいのか。
応援すべきなのか、それとも別の言葉を選ぶべきなのか。
考えているうちに、気づけば時間だけが過ぎていた。
(怒ってないかな……)
そっとノートを開く。そこにあったのは、責める言葉ではなく、短い謝罪と、いつも通りの柔らかな文字だった。
胸の奥に、ほっとしたような、それでいて少しだけ申し訳ない感情がゆっくり広がる。
(この人、やっぱり優しいな)
唯はペンを持ち、しばらく考えてから書き始めた。
『事をしなくてごめんなさい。恋愛は、よく分からなくて』
そこまで書いて、手が止まる。恋や愛についてはよく分からない。
今までそういう感情に目を向けてこなかった。だから不思議に思えるのだ。家族へ向ける気持ちとは異なる、他人に抱く恋愛的な好意が。
だから、「好き」という感情がどういうものなのか、それを知りたいと思った。
唯は、少しだけ迷いながら続けて書く。
『好きって、どういう感じなの?』
純粋な疑問だった。
数日後。移動教室から帰ってきてページを開くと、返事が書かれていた。
『その人のことを考えて、もっと知りたいと思ったり。少し特別に感じたり、かな』
その一文を読みながら、唯はしばらくページを見つめていた。
思えばノートを開くたび、胸の奥がわずかに騒がしくなる自分がいる。
相手の書く言葉を読み返し、どんな顔でこの文字を書いているのだろうと想像する。
次はどんな返事が来るのだろうと、気づけば考えてしまっている。
ただの文字のやり取りのはずなのに。顔も知らない相手のはずなのに。
(俺……もしかして)
そこまで考えて、唯は小さく首を振った。
けれど、否定しきれない感情が、胸のどこかに残り続ける。
もし、この気持ちが本当にそういうものなのだとしたらと考えた。
曖昧なまま、何気ない日記のような言葉を交わしているだけでは、きっとこの気持ちがどういう形ものなのかが分からない。
ふと、七音と過ごす時間を思い出す。
放課後に少しだけ一緒に歩いたこと。何気ない話で笑ったこと。
沈黙さえ心地よく、気まずさもなく、ただ隣にいるだけでドキドキしつつも落ち着く、あの感覚。
(天城くんは……)
七音の顔を思い浮かべながら、唯はゆっくりと息を吐いた。
(大事な友達、なんだと思う)
そう考えると、不思議と胸の奥が静かに落ち着いたが、何かがチクリと引っ掛かるようにも感じた。
けれどその一方で、ノートの向こうに居る相手が、どんな人で、何を考えていて、どんなふうに笑うのか。
もっとちゃんと知りたい。そう思った。
ちゃんと向き合って、自分の気持ちが何なのか確かめてみたい。
唯の指は自然とペンを握っていた。
しばらくの間、交換日記の表紙を指でなぞる。
相手のことを考える時間が、最近少しずつ増えている気がする。
どんな人なのか、不思議と想像だけは少しずつ具体的になっていく。
けれど、ふとした瞬間に思い出す。
(相手は……男、なんだよな)
最初にそれを知ったときは、特に何も思わなかった。ただ、同じ男なのだと、それだけのこととして受け止めていたはずだった。
それなのに、こうして相手のことを考えて胸がわずかに落ち着かなくなるたび、唯は自分の感情の置き場が分からなくなる。
(これって……おかしいことなのかな)
答えの出ない問いを胸の中で繰り返しながら、唯はもう一度、そっとノートを開いた。
ページの向こう側にいるはずの相手を、確かめるように見つめながら。
好きという感情について、もう一度、考える。
そして、たどり着く。相手の性別がなんであれ、抱いた感情に名前をつけたくて――。
『君のことを、もっと知りたい』
その一文を書きながら、胸の奥が、ほんの少しだけ高鳴っていた。
そのとき、七音の声が後ろから聞こえた。
「あ、唯。戻ってたんだ」
振り向くと、何気ない顔で立っている七音がいた。
その瞬間、唯の胸のざわつきが、一層混ざり合うような感覚がした。


