君のつづる文字に、恋をした

 唯は廊下を走った。

『放課後、教室で』

 消えていたはずのノートを開いた瞬間、目に飛び込んできた、その一行。
 ――見慣れた、整った文字。それを見た途端、考えるより先に体が動いていた。
 走るのが得意なわけではない。それでも唯は、自分なりの精一杯の速さで廊下を駆ける。
胸が苦しく、呼吸はすぐに浅くなる。それでも足だけは止まらなかった。

 夏の夕方はまだ明るく、傾き始めた日差しが長い窓から差し込み、廊下の床をまぶしく照らしている。
光を踏み越えるたびに、心臓の鼓動がさらに速くなるのを感じた。

 どうして、今になって。

 頭の中には、聞きたいことがいくつも浮かんでは消える。それでも今は、言葉を整理する余裕などなかった。
ただ一つだけ確かなのは、早く教室に行かなければならない、という思いだった。

 息を切らしながら角を曲がり、唯は視線をまっすぐ前へ向ける。その先にある教室の扉が、やけに遠く感じられた。
教室の扉が目の前に迫った瞬間、さっきまであれほど必死に走っていたのに、あと数歩というところで、急に心臓の音が耳に響くほど大きくなった。

 扉の前に立つと、指先が少しだけ震えているのに気づく。
走ったせいだけではない。
胸の奥で、期待と不安が入り混じったまま膨らんでいく。
ノートに書かれていたあの文字。見間違えるはずがない、何度も見てきた筆跡。
それは、きっと、今度は間違いない、あの人の字。

 唯は一度だけ深く息を吸い、胸の前で小さく拳を握る。
ここまで来たのだから、確かめなければならない。そう思い直し、ゆっくりと手を伸ばす。
扉に触れると、心臓が大きく跳ねた。静まり返った廊下に、小さく引き戸の音が響く。
扉を開けた瞬間、教室の中の空気が、流れ込む風とともに、唯の頬をそっと撫でた。
 夕方特有の、少しだけ熱を含んだ風。カーテンがふわりと揺れ、窓際の机に長く伸びた影がゆらめく。
さっきまで自分がいた廊下とは、まるで別の世界のように静かだった。
がらんとした教室。机と椅子が整然と並び、黒板には消しきれなかった白いチョークの跡が薄く残っている。

 ――いない。

 一歩、中へ足を踏み入れるたびに、床が小さく軋む。
その音さえもやけに大きく感じられて、唯の鼓動はさらに速くなった。

 遅かったのかもしれない。
胸の奥がひやりと冷える。けれど同時に、まだどこかで気配を探している自分がいる。
教室の奥まで視線を滑らせる。黒板、窓際、最後列の席――どこにも人影は見当たらない。
 やっぱり、いない。
そう思って息を吐きかけた、そのとき。
かすかに、椅子が擦れるような音がした。
一瞬、風の音かと思うほど小さな気配。唯の鼓動が、また強く跳ねる。
教室の奥、窓際の逆光の中。揺れるカーテンの向こうに、ほんのわずかに動く影があった。

 そこにいたのは、唯が思い描いていた通り、七音だった。
逆光の中でゆっくりと姿がはっきりしていく。
窓際の机にもたれるように立つその姿を見た瞬間、胸の奥で張り詰めていたものが一気にほどけ、同時に言葉があふれ出した。

「ねえ、どうして……どうして今まで……」

 堰を切ったように、唯の口から気持ちがこぼれる。何から聞けばいいのか、自分でも分からない。
ただ、胸の奥に溜まり続けていたものだけが、先に外へ出ようとしていた。

 どうして黙っていたのか。どうして何も言わなかったのか。
最初から教えてくれていたら、解っていたら――。

 不安や不満をぶつけた言葉は続かず、途中で途切れる。
走ってきたせいだけじゃない。息がうまく整わないのは、目の前にいる相手のせいだと分かっていた。

 七音は「うん」と相槌を打ち、責める唯を愛おしむような目で、ただまっすぐに見つめていた。
その逃げ場のない優しさに、唯は思わず一歩だけ足を止める。

 教室の中には、風に揺れるカーテンの音だけが静かに響いている。数秒しか経っていないはずなのに、その沈黙はひどく長く感じられた。

「……今まで、ごめん」

 ようやく、七音が小さく口を開く。
その一言だけで、胸の奥がまた強く揺れた。
唯は思わず唇を噛みしめる。
怒りなのか、安堵なのか、それとも――もっと別の、甘くて苦しい感情なのか。
唯は視線を逸らさずに七音を見つめ返した。
 じわりと、視界が滲む。
溢れた思いが一気に胸へ流れ込み、胸の奥に溜まっていたものが崩れ、涙がこぼれ落ちた。
息切れと涙が同時に押し寄せ、呼吸がうまく整わない。言葉を返そうと口を開いても、喉が震えて音にならない。

「……っ」

 情けないほど、何も言えない。
その瞬間、七音が静かに距離を詰めた。まるで泣き出した子どもをあやすみたいに、そっと唯を引き寄せる。背中に回された腕の温度が、驚くほど優しい。
ぽん、ぽん、と一定のリズムで背を叩く音。

「ごめん……」

 耳元で、何度も繰り返される優しく低い声。その振動が直接胸に響いて、涙はますます止まらなくなる。
やがて七音は、唯を抱き寄せたまま、ゆっくりと言葉を紡いだ。
どうして今まで隠してきたのか。自分に自信がなかったこと。
唯の周りにいる誰かに、簡単に奪われてしまうのではないかと怖かったこと。
そんな嫉妬にまみれた自分が、醜くて、情けなくて、とても見せられなかったこと。
そして、唯が思い描く相手と、今の自分があまりにも違いすぎるその絶望で、すべてを隠し続けてきたことを。

「……格好悪いだろ」

 かすかに苦く笑う気配が、耳元で震える。けれど唯には、その震えが強がりにしか思えなかった。
腕の中で感じる鼓動は確かに速くて――自分と同じくらい、必死なのだと分かってしまったから。
 しばらく黙っていた七音が、ゆっくり息を吐く。

「……俺、ずっと怖かった」

 七音の低い声が、胸のすぐ近くで落ちる。

「唯に嫌われたくなくて。……でも、もう隠すのが限界だった」

 背中に回された腕が、わずかに震えている。

「……好きだ、唯」

 その一言は、驚くほど静かで、まっすぐだった。
胸の奥がきゅっと締めつけられる。嬉しいのか、苦しいのか、涙がまた滲んで視界がぼやけた。
唯は何か言おうとして、けれど声にならず、代わりに七音の制服の袖をぎゅっと握る。
返事をしなければと思うのに、言葉にしようとするほど、胸の奥に溜まった想いがあふれてしまいそうだった。

 言葉じゃ、足りない。
ノートに何度も書いてきた想いより、ずっと確かな形で伝えたい。
そう思った瞬間、唯は顔を上げた。

 まだ少し濡れた視界の向こうで、七音がわずかに目を見開く。
ためらいは、ほんの一瞬だった。
背伸びをして、静かに距離を詰める。触れた唇は、驚くほど軽く、それでいて胸の奥に静かに熱を残した。

 夕方の光が差し込む教室で、時間だけがゆっくりと流れていく。
唇が離れたあとも、唯は何も言わなかった。ただ少しだけ赤くなった目で七音を見上げて、かすかに笑う。
それが、唯の答えだった。

 夕方の光が差し込む教室で、二人の影が静かに重なっていた。
それは、これから続いていく時間を、そっと約束するかのようだった。

これからはきっと、声にできない気持ちは文字にして、文字にしきれない想いはこうして触れていくのだろう。

――これは、とある高校生同士の話。
互いのつづった文字に、恋をした――そんな二人の話。