バイト漬けの夏休みは、目まぐるしい忙しさに包まれていた。
数日待っても、七音からの連絡は来なかった。唯は、半ば諦めていた。
だが、連絡先を書いた紙を渡してから数日後、ふとスマホに届いたのは、スタンプだけの連絡だった。
唯好みの、よく分からない動物のスタンプ。その何気ないひと押しに、唯は心の奥がふっと温かくなるのを感じた。
気持ちが、わずかに救われたように感じられた。
嬉しくて、慌てて打った言葉をそのまま返す。
素っ気なく感じただろうか。七音は既読にはしていたが、それ以降、連絡は途絶えていた。
何度も何度も、送るきっかけを探す。
だが、そのきっかけは、一向に現れなかった。
七音もまた、同じだった。やたらとスマホを覗き込み、どうすればいいのか分からない衝動に駆られる日々。
こうして二人は、夏休みを、たった一通のやり取りだけを胸に抱えながら過ごしたのだった。
―――
夏休みが終わると、生徒たちは再び教室へと集まり、止まっていた時間が動き出すように、賑やかな日常が戻ってきた。
始まったばかりの学校生活に、早くもうんざりしたような表情を見せる者も少なくなかったが、唯の胸には、どこか落ち着かない小さな高鳴りがあった。
「おー七音!出所おめ!」
「お勤めご苦労様です」
クラスの男子が、久しぶりに戻ってきた七音の姿に声を張り上げた。
声をかけた男子に、七音は軽く笑みを返しながらも、「うるせぇよ」と短く返す。
そんなやり取りだけで、教室の空気が微かに柔らかくなったように感じられた。
そして、七音の視線が自分に向かって歩み寄ってくるのを、唯は無意識に追った。
「唯。おはよ」
席が離れているにもかかわらず、七音は自然に唯の机まで歩み寄り、静かに挨拶をしてくる。
敬称が消えていることに、唯は心の片隅で気づいた。あの時の距離感や、かつてのどこか冷たく感じさせる七音の雰囲気は、すっかり消えていた。
「お、はよ……」
唯は、自分でも抑えきれないほど鼓動が速くなっているのを感じる。
同じ教室にいられるだけで十分だと思っていたのに、こうして声を掛けてもらえるとは思っていなかった。
ざわめきに満ちた教室の中で、ほんのわずかな視線の交差と短い挨拶――それだけのことなのに、夏休みのあいだ、胸の奥に溜まり続けていた乾きを、静かに潤していくような感覚が、確かにあった。
「そういえば、お前、彼女と別れたんだって?」
クラスメイトの男子が、軽い調子で尋ねる。
「暴力的な男は嫌いだって、先輩が騒いでたぞ」
「今は別の彼氏がいるらしいな。夏まつりで出会ったとか、なんとか」
クラスメイトが口々に言う。
「そう言えば、七音が、夏まつりで振ったんだってな」
「まじかよ、ひでぇ男だな」
追い打ちのように言われ、七音は思わず軽く笑った。
「俺、あの女、嫌いだ~」
壮快に吐き出された言葉に、男子たちは笑いを漏らす。
毎日のように自宅に押しかけては、手を貸すふりをして自分の都合ばかりを押し付けてくる。
キスやそれ以上を求められても、手に触れることさえためらうほど苦手で、吐き気がするほどだった。
――彼女という存在のすべてが、自分にとってはただの重荷でしかなかった。
と、七音は、疲れ切った表情のままそう告げた。
「ほんと、付き合う意味なんてなかった」
七音はため息をつきながら、そう口にした。
「最低~」
クラスの女子が、珍しく七音を軽蔑するような言葉を口にした。
「けどまあ、今は新しい彼氏ができて、別れたことに感謝されてるよ。運命に出会えたとかなんとか」
七音は肩をすくめ、まるでこの別れは最初から円満だったかのように笑った。
内心では、ようやく手放してもらえたことに、ほっとしている様子だった。
「七音、人のことそんなに悪く言う感じじゃなかったのに。よっぽどの女だったってこと?」
だが、それまで七音が築いてきた印象が、自然と彼をかばう流れを作っていた。
「え?つーかさ、お前、先輩に手ぇ出してねぇの?」
ある男子が驚いた声を上げた。
「出せるかよ。俺はあの女の手も握ってねぇよ」
「俺らの七音様は童貞のままだぁ!」
七音の返答に、男子たちが大げさに喜びの声を上げる。それを女子たちは、呆れたような目で眺めていた。
その会話が、少し離れた席にいる唯の耳にも届く。
――何も、なかった。
その事実が、胸の奥に静かに落ちていく。彼女とは何もなかったのだと知り、唯は気づかれないように、そっと安堵していた。抑えきれない小さな喜びが、胸の内側で静かに広がっていく。
その時だった。
「天城」
低く、はっきりとした声が教室に落ちた瞬間、ざわついていた空気がぴたりと止まった。
開いたままの扉の前に立っていたのは、的場だった。教室の中を一度だけ見渡し、その視線がまっすぐ七音に向けられる。周囲の生徒たちも、自然と二人の様子を見守る形になった。
名を呼ばれた七音は、椅子の背にもたれたまま、わずかに視線だけを上げる。
「おー……」
七音は気だるげな返事をしながらも、ゆっくりと立ち上がった。
「ちょっと」
的場はそれ以上言葉を続けず、ここでは話さないという意思を示すように、顎で廊下のほうを示す。
七音は一瞬だけ周囲を見渡し、軽く肩をすくめてから教室の外へ出た。
二人が並んで廊下を歩くあいだ、どちらも口を開かない。
窓から差し込む夏の光と、遠くから聞こえる何も知らぬ生徒たちの声だけが、やけに大きく感じられた。
教室から少し離れ、人通りの少ない場所まで来たところで、的場が足を止める。わずかに息を整えるような間があってから、低い声で口を開いた。
「……すまなかった」
短い言葉だったが、どこか迷いを削ぎ落としたような響きだった。
七音は眉をわずかに上げ、壁に肩を預ける。
「何でお前が謝んの?」
七音の淡々とした声音。その奥に、わずかな警戒が見える。
「中川のこと、俺はそんなつもりで言ったわけじゃない。噂も、あの後に知った」
的場は視線を逸らさずに言った。軽率だった、と自嘲気味に付け加えながら、あのときの発言がどういうことだったのかを淡々と説明する。
「今はもう、あいつのこと悪く言うやつはほとんどいない。俺が誤解を招くようなこと言ったせいだしな。だから、言える範囲で訂正はしてる。……せめてもの責任だ」
今さらどうでもいい話だ、と七音は内心で思う。今の現状がどういう方向に向かったとしても、過去は変えられないのだから。
だが、的場は続けた。
「中川のこと、気持ち悪いなんて思ってない。むしろ、好意的に思っている」
その最後の一言に、七音の眉がわずかに動く。
「……それもそれで腹立つけどな」
低く返した声は、思った以上に棘を含んでいた。
好意的――その言葉が、胸の奥に引っかかる。自分だけが抱えているはずの感情に、他人が軽々しく触れたような、不快にも似たざらつき。
七音は、無意識に奥歯を噛み締める。
自分の中に潜んでいた独占欲が、静かに姿を現し始めていることに、気づかないふりをしながら。
「俺も悪かったよ。怪我、大丈夫だったか?」
七音は、いつもの柔らかな笑みを浮かべてそう言った。廊下の先――二人の様子を気にして視線を向けている生徒たちの中に、唯の姿が見えたからだった。
ここでまた騒ぎを起こすわけにはいかない。少なくとも、唯の前でこれ以上、みっともない場面だけは見せたくなかった。
「ああ、大丈夫だ。俺も少し武道をしていたからな。受け身だけは取れていたつもりだ」
「へぇ……だから一発、俺に返せたわけか」
「武道をしていた者として、本来、一般人相手にやり返すべきではないと思っている。だが、あのときは反射的に正当防衛が働いてしまった。……すまない」
真面目すぎるほど律儀な言葉に、七音は小さく肩をすくめた。
「俺も空手やってたから。別に、気にしてねぇよ」
「そうだったのか。だから無駄のない動きだったんだな」
感心したように頷く的場を見ながら、七音は内心でわずかに眉をひそめる。
どこまでもまっすぐで、誠実で――まるで、唯が好みそうな人物像をそのまま形にしたような男だ。
その事実が、小さな苛立ちとなって、胸の奥に残った。
「緑化委員もあと少しだ。それまでとは言わないが、これからもよろしく頼む」
的場はそう告げ、七音の短い「ああ」という返事を背中で受け取ると、そのまま静かに廊下の向こうへ姿を消した。
的場の背中が廊下の角を曲がり、完全に見えなくなったのを確認してから、七音は小さく息を吐いた。
教室へ戻ると、何事もなかったかのようにざわめきが再開する。その中に、唯の視線を感じた。
目が合う。
ほんの一瞬。それだけで、胸の奥に溜まっていた小さな棘のような感覚が、少しだけ薄れる。
その日の昼休み。七音は弁当を急いで食べ終えると、当たり前のように中庭へ向かった。
緑化委員の活動があるから――それは、表向きの理由だった。
花壇のそばでは、すでに唯がじょうろに水を汲んでいた。
「……あ、天城くん」
声を掛けられ、七音は軽く手を上げて応じる。それだけのやり取りなのに、ほんの少しだけ空気がぎこちない。互いに視線を合わせる時間が、以前よりわずかに長くなった気がした。
「今日、暑いな」
「うん。土、すぐ乾いちゃうね」
特別な会話は何もない。それでも、並んで作業をする時間はどこか居心地がよかった。
二人は並んで水をまく。じょうろから落ちる水が乾いた土に吸い込まれていく。その音は、セミの鳴き声に重なるように耳へ届いた。
唯は何度か言葉を探すように口を開きかけては、結局何も言わず手元へ視線を落とす。その仕草に気づきながらも、七音もまた、何か言葉を探している様だったが、ただ同じ作業を続けた。
「あ、的場くんに集計頼まれてたんだった」
思い出したように小さく声を上げ、唯は慌てて立ち上がった。制服の裾についた土を軽く払い、じょうろを元の場所へ戻す。その動きはどこか落ち着かず、ほんの少しだけ急いでいるようにも見えた。
「先、行くね」
振り返ってそう言うと、唯は一瞬だけ何かを言いかけたように唇を動かし、結局そのまま言葉を飲み込むと、小さく手を振り、足早に花壇を離れていった。
遠ざかっていく背中を、七音はしばらく何も言わずに見送る。
そこには、手に残ったじょうろの冷たい感触だけが、妙に残っていた。
―――
「お待たせ!ごめんね、水やりに時間かけちゃって」
「いや、大丈夫だ」
委員活動の教室では、的場が他の委員たちと一緒に書類をまとめていた。
緑の募金活動の集計は一人では手が回らず、各クラスから一人ずつ手伝いを集めることになり、唯も声をかけられたのだった。
「これ、やればいいよね?」
唯は席に着き、書類へ視線を落とす。
「ああ、やり方はこれを見てくれ。字が汚くて申し訳ないが、メモに書いてある」
そう言われて渡された手書きのメモを受け取り、唯は何気なく目を通した。
「……これって、的場くんの字?」
整ってはいるが、どこかしっかりとした癖のある文字だった。
「……すまない、読みにくいか」
「そうじゃないよ!すごくきれい!」
唯は慌てて言葉を返し、緑化委員の日誌を取り出した。
目的のページを開くと、そこには交換日記の相手と同じ文が並んでいる。だが、別のページには、的場が書いたと思われる、どこか癖のある筆跡が綴られていた。
唯はそれを見て、胸の奥がかすかに波立った。
「ねえ……この字、的場くんじゃなかったの?」
「ん?いや、それは俺のじゃない。中川の字じゃなかったのか」
「違うよ。俺のはこれ」
唯は別のページを開き、自分の字を指さした。
「この字……だれのだろう」
その場にいた委員たちにも尋ねてみたが、心当たりがない様子で首を横に振る者ばかりだった。
この日の記録担当は確かに唯だったが、日付と天気はすでに記されていた。
唯はこのとき、的場が気を利かせて書いてくれていたのだと思っていた。
けれど、それが的場の字ではないと、今日になって判明した。
その事実に、唯はわずかに視線を落とした。
的場ではないのなら、どの生徒がこの字を書いたのか。
この場にいない委員の生徒たちの顔を思い浮かべる。
その中に七音の姿があることに気づき、唯は小さく息を止めた。可能性としては十分にあるはずなのに、確かめる勇気もなく、ページの上に視線を落としたまま動けない。
それでも――もし、これが七音の字だったら。
そんな淡い期待が、懲りもせず胸の奥に満ちてくる。指先が落ち着かない。
期待してはいけないと分かっているのに、完全には手放せない自分が、少しだけ情けなかった。
「この字がどうかしたのか?」
不意にかけられた声に、唯は肩を揺らして顔を上げた。的場が不思議そうに日誌をのぞき込んでいる。
「ううん。すごく綺麗だから、てっきり的場くんだと思ってただけ」
できるだけ何でもないように言ったつもりだったが、声がわずかに上ずった気がした。
「ある意味光栄だな」
的場が苦笑いを浮かべる。その表情に、ほんの少しだけ肩の力が抜けた、そのときだった。
「あ、唯。俺も手伝いに……」
聞き慣れた声が、教室の入口から届く。反射的に顔を上げた瞬間、心臓が大きく跳ねた。
七音が、少し息を弾ませながら教室に入ってくる。視線が合いそうになり、唯は思わず手元の日誌へと目を落とした。
「ん?どうした?」
何気ない調子の声が近づいてくる。
来るとは思っていなかった七音の姿に、唯は思わず顔を上げた。
ふいに視線が合い、その瞬間、唯の頬にじわりと熱が広がる。
それに気づかれたくなくて、唯はペンを持ち直すふりをしながら、そっと視線を落とした。
七音がすぐそばに立った気配だけで、唯の落ち着かない鼓動は、なかなか静まってくれなかった。
「天城、この字、だれのか知ってるか?」
的場に呼ばれ、七音は机の上の日誌へ視線を落とした。その文字を目にした瞬間、ほんのわずかに――本当に一瞬だけ、七音の指先の動きが止まったように、唯には見えた。
だが、次の瞬間には何事もなかったかのように視線を上げ、いつもの柔らかな表情へと戻る。
「……さあ?」
小さく首を傾げ、にっこりと笑って答える。その笑顔はあまりにも自然で、わずかな違和感さえも見つけられないほどだった。
だからこそ唯は、今胸に浮かびかけた――この字は七音のものなのかもしれない、という疑いを、確かめることもできないまま、自分の中でそっと引っ込めてしまった。
数日待っても、七音からの連絡は来なかった。唯は、半ば諦めていた。
だが、連絡先を書いた紙を渡してから数日後、ふとスマホに届いたのは、スタンプだけの連絡だった。
唯好みの、よく分からない動物のスタンプ。その何気ないひと押しに、唯は心の奥がふっと温かくなるのを感じた。
気持ちが、わずかに救われたように感じられた。
嬉しくて、慌てて打った言葉をそのまま返す。
素っ気なく感じただろうか。七音は既読にはしていたが、それ以降、連絡は途絶えていた。
何度も何度も、送るきっかけを探す。
だが、そのきっかけは、一向に現れなかった。
七音もまた、同じだった。やたらとスマホを覗き込み、どうすればいいのか分からない衝動に駆られる日々。
こうして二人は、夏休みを、たった一通のやり取りだけを胸に抱えながら過ごしたのだった。
―――
夏休みが終わると、生徒たちは再び教室へと集まり、止まっていた時間が動き出すように、賑やかな日常が戻ってきた。
始まったばかりの学校生活に、早くもうんざりしたような表情を見せる者も少なくなかったが、唯の胸には、どこか落ち着かない小さな高鳴りがあった。
「おー七音!出所おめ!」
「お勤めご苦労様です」
クラスの男子が、久しぶりに戻ってきた七音の姿に声を張り上げた。
声をかけた男子に、七音は軽く笑みを返しながらも、「うるせぇよ」と短く返す。
そんなやり取りだけで、教室の空気が微かに柔らかくなったように感じられた。
そして、七音の視線が自分に向かって歩み寄ってくるのを、唯は無意識に追った。
「唯。おはよ」
席が離れているにもかかわらず、七音は自然に唯の机まで歩み寄り、静かに挨拶をしてくる。
敬称が消えていることに、唯は心の片隅で気づいた。あの時の距離感や、かつてのどこか冷たく感じさせる七音の雰囲気は、すっかり消えていた。
「お、はよ……」
唯は、自分でも抑えきれないほど鼓動が速くなっているのを感じる。
同じ教室にいられるだけで十分だと思っていたのに、こうして声を掛けてもらえるとは思っていなかった。
ざわめきに満ちた教室の中で、ほんのわずかな視線の交差と短い挨拶――それだけのことなのに、夏休みのあいだ、胸の奥に溜まり続けていた乾きを、静かに潤していくような感覚が、確かにあった。
「そういえば、お前、彼女と別れたんだって?」
クラスメイトの男子が、軽い調子で尋ねる。
「暴力的な男は嫌いだって、先輩が騒いでたぞ」
「今は別の彼氏がいるらしいな。夏まつりで出会ったとか、なんとか」
クラスメイトが口々に言う。
「そう言えば、七音が、夏まつりで振ったんだってな」
「まじかよ、ひでぇ男だな」
追い打ちのように言われ、七音は思わず軽く笑った。
「俺、あの女、嫌いだ~」
壮快に吐き出された言葉に、男子たちは笑いを漏らす。
毎日のように自宅に押しかけては、手を貸すふりをして自分の都合ばかりを押し付けてくる。
キスやそれ以上を求められても、手に触れることさえためらうほど苦手で、吐き気がするほどだった。
――彼女という存在のすべてが、自分にとってはただの重荷でしかなかった。
と、七音は、疲れ切った表情のままそう告げた。
「ほんと、付き合う意味なんてなかった」
七音はため息をつきながら、そう口にした。
「最低~」
クラスの女子が、珍しく七音を軽蔑するような言葉を口にした。
「けどまあ、今は新しい彼氏ができて、別れたことに感謝されてるよ。運命に出会えたとかなんとか」
七音は肩をすくめ、まるでこの別れは最初から円満だったかのように笑った。
内心では、ようやく手放してもらえたことに、ほっとしている様子だった。
「七音、人のことそんなに悪く言う感じじゃなかったのに。よっぽどの女だったってこと?」
だが、それまで七音が築いてきた印象が、自然と彼をかばう流れを作っていた。
「え?つーかさ、お前、先輩に手ぇ出してねぇの?」
ある男子が驚いた声を上げた。
「出せるかよ。俺はあの女の手も握ってねぇよ」
「俺らの七音様は童貞のままだぁ!」
七音の返答に、男子たちが大げさに喜びの声を上げる。それを女子たちは、呆れたような目で眺めていた。
その会話が、少し離れた席にいる唯の耳にも届く。
――何も、なかった。
その事実が、胸の奥に静かに落ちていく。彼女とは何もなかったのだと知り、唯は気づかれないように、そっと安堵していた。抑えきれない小さな喜びが、胸の内側で静かに広がっていく。
その時だった。
「天城」
低く、はっきりとした声が教室に落ちた瞬間、ざわついていた空気がぴたりと止まった。
開いたままの扉の前に立っていたのは、的場だった。教室の中を一度だけ見渡し、その視線がまっすぐ七音に向けられる。周囲の生徒たちも、自然と二人の様子を見守る形になった。
名を呼ばれた七音は、椅子の背にもたれたまま、わずかに視線だけを上げる。
「おー……」
七音は気だるげな返事をしながらも、ゆっくりと立ち上がった。
「ちょっと」
的場はそれ以上言葉を続けず、ここでは話さないという意思を示すように、顎で廊下のほうを示す。
七音は一瞬だけ周囲を見渡し、軽く肩をすくめてから教室の外へ出た。
二人が並んで廊下を歩くあいだ、どちらも口を開かない。
窓から差し込む夏の光と、遠くから聞こえる何も知らぬ生徒たちの声だけが、やけに大きく感じられた。
教室から少し離れ、人通りの少ない場所まで来たところで、的場が足を止める。わずかに息を整えるような間があってから、低い声で口を開いた。
「……すまなかった」
短い言葉だったが、どこか迷いを削ぎ落としたような響きだった。
七音は眉をわずかに上げ、壁に肩を預ける。
「何でお前が謝んの?」
七音の淡々とした声音。その奥に、わずかな警戒が見える。
「中川のこと、俺はそんなつもりで言ったわけじゃない。噂も、あの後に知った」
的場は視線を逸らさずに言った。軽率だった、と自嘲気味に付け加えながら、あのときの発言がどういうことだったのかを淡々と説明する。
「今はもう、あいつのこと悪く言うやつはほとんどいない。俺が誤解を招くようなこと言ったせいだしな。だから、言える範囲で訂正はしてる。……せめてもの責任だ」
今さらどうでもいい話だ、と七音は内心で思う。今の現状がどういう方向に向かったとしても、過去は変えられないのだから。
だが、的場は続けた。
「中川のこと、気持ち悪いなんて思ってない。むしろ、好意的に思っている」
その最後の一言に、七音の眉がわずかに動く。
「……それもそれで腹立つけどな」
低く返した声は、思った以上に棘を含んでいた。
好意的――その言葉が、胸の奥に引っかかる。自分だけが抱えているはずの感情に、他人が軽々しく触れたような、不快にも似たざらつき。
七音は、無意識に奥歯を噛み締める。
自分の中に潜んでいた独占欲が、静かに姿を現し始めていることに、気づかないふりをしながら。
「俺も悪かったよ。怪我、大丈夫だったか?」
七音は、いつもの柔らかな笑みを浮かべてそう言った。廊下の先――二人の様子を気にして視線を向けている生徒たちの中に、唯の姿が見えたからだった。
ここでまた騒ぎを起こすわけにはいかない。少なくとも、唯の前でこれ以上、みっともない場面だけは見せたくなかった。
「ああ、大丈夫だ。俺も少し武道をしていたからな。受け身だけは取れていたつもりだ」
「へぇ……だから一発、俺に返せたわけか」
「武道をしていた者として、本来、一般人相手にやり返すべきではないと思っている。だが、あのときは反射的に正当防衛が働いてしまった。……すまない」
真面目すぎるほど律儀な言葉に、七音は小さく肩をすくめた。
「俺も空手やってたから。別に、気にしてねぇよ」
「そうだったのか。だから無駄のない動きだったんだな」
感心したように頷く的場を見ながら、七音は内心でわずかに眉をひそめる。
どこまでもまっすぐで、誠実で――まるで、唯が好みそうな人物像をそのまま形にしたような男だ。
その事実が、小さな苛立ちとなって、胸の奥に残った。
「緑化委員もあと少しだ。それまでとは言わないが、これからもよろしく頼む」
的場はそう告げ、七音の短い「ああ」という返事を背中で受け取ると、そのまま静かに廊下の向こうへ姿を消した。
的場の背中が廊下の角を曲がり、完全に見えなくなったのを確認してから、七音は小さく息を吐いた。
教室へ戻ると、何事もなかったかのようにざわめきが再開する。その中に、唯の視線を感じた。
目が合う。
ほんの一瞬。それだけで、胸の奥に溜まっていた小さな棘のような感覚が、少しだけ薄れる。
その日の昼休み。七音は弁当を急いで食べ終えると、当たり前のように中庭へ向かった。
緑化委員の活動があるから――それは、表向きの理由だった。
花壇のそばでは、すでに唯がじょうろに水を汲んでいた。
「……あ、天城くん」
声を掛けられ、七音は軽く手を上げて応じる。それだけのやり取りなのに、ほんの少しだけ空気がぎこちない。互いに視線を合わせる時間が、以前よりわずかに長くなった気がした。
「今日、暑いな」
「うん。土、すぐ乾いちゃうね」
特別な会話は何もない。それでも、並んで作業をする時間はどこか居心地がよかった。
二人は並んで水をまく。じょうろから落ちる水が乾いた土に吸い込まれていく。その音は、セミの鳴き声に重なるように耳へ届いた。
唯は何度か言葉を探すように口を開きかけては、結局何も言わず手元へ視線を落とす。その仕草に気づきながらも、七音もまた、何か言葉を探している様だったが、ただ同じ作業を続けた。
「あ、的場くんに集計頼まれてたんだった」
思い出したように小さく声を上げ、唯は慌てて立ち上がった。制服の裾についた土を軽く払い、じょうろを元の場所へ戻す。その動きはどこか落ち着かず、ほんの少しだけ急いでいるようにも見えた。
「先、行くね」
振り返ってそう言うと、唯は一瞬だけ何かを言いかけたように唇を動かし、結局そのまま言葉を飲み込むと、小さく手を振り、足早に花壇を離れていった。
遠ざかっていく背中を、七音はしばらく何も言わずに見送る。
そこには、手に残ったじょうろの冷たい感触だけが、妙に残っていた。
―――
「お待たせ!ごめんね、水やりに時間かけちゃって」
「いや、大丈夫だ」
委員活動の教室では、的場が他の委員たちと一緒に書類をまとめていた。
緑の募金活動の集計は一人では手が回らず、各クラスから一人ずつ手伝いを集めることになり、唯も声をかけられたのだった。
「これ、やればいいよね?」
唯は席に着き、書類へ視線を落とす。
「ああ、やり方はこれを見てくれ。字が汚くて申し訳ないが、メモに書いてある」
そう言われて渡された手書きのメモを受け取り、唯は何気なく目を通した。
「……これって、的場くんの字?」
整ってはいるが、どこかしっかりとした癖のある文字だった。
「……すまない、読みにくいか」
「そうじゃないよ!すごくきれい!」
唯は慌てて言葉を返し、緑化委員の日誌を取り出した。
目的のページを開くと、そこには交換日記の相手と同じ文が並んでいる。だが、別のページには、的場が書いたと思われる、どこか癖のある筆跡が綴られていた。
唯はそれを見て、胸の奥がかすかに波立った。
「ねえ……この字、的場くんじゃなかったの?」
「ん?いや、それは俺のじゃない。中川の字じゃなかったのか」
「違うよ。俺のはこれ」
唯は別のページを開き、自分の字を指さした。
「この字……だれのだろう」
その場にいた委員たちにも尋ねてみたが、心当たりがない様子で首を横に振る者ばかりだった。
この日の記録担当は確かに唯だったが、日付と天気はすでに記されていた。
唯はこのとき、的場が気を利かせて書いてくれていたのだと思っていた。
けれど、それが的場の字ではないと、今日になって判明した。
その事実に、唯はわずかに視線を落とした。
的場ではないのなら、どの生徒がこの字を書いたのか。
この場にいない委員の生徒たちの顔を思い浮かべる。
その中に七音の姿があることに気づき、唯は小さく息を止めた。可能性としては十分にあるはずなのに、確かめる勇気もなく、ページの上に視線を落としたまま動けない。
それでも――もし、これが七音の字だったら。
そんな淡い期待が、懲りもせず胸の奥に満ちてくる。指先が落ち着かない。
期待してはいけないと分かっているのに、完全には手放せない自分が、少しだけ情けなかった。
「この字がどうかしたのか?」
不意にかけられた声に、唯は肩を揺らして顔を上げた。的場が不思議そうに日誌をのぞき込んでいる。
「ううん。すごく綺麗だから、てっきり的場くんだと思ってただけ」
できるだけ何でもないように言ったつもりだったが、声がわずかに上ずった気がした。
「ある意味光栄だな」
的場が苦笑いを浮かべる。その表情に、ほんの少しだけ肩の力が抜けた、そのときだった。
「あ、唯。俺も手伝いに……」
聞き慣れた声が、教室の入口から届く。反射的に顔を上げた瞬間、心臓が大きく跳ねた。
七音が、少し息を弾ませながら教室に入ってくる。視線が合いそうになり、唯は思わず手元の日誌へと目を落とした。
「ん?どうした?」
何気ない調子の声が近づいてくる。
来るとは思っていなかった七音の姿に、唯は思わず顔を上げた。
ふいに視線が合い、その瞬間、唯の頬にじわりと熱が広がる。
それに気づかれたくなくて、唯はペンを持ち直すふりをしながら、そっと視線を落とした。
七音がすぐそばに立った気配だけで、唯の落ち着かない鼓動は、なかなか静まってくれなかった。
「天城、この字、だれのか知ってるか?」
的場に呼ばれ、七音は机の上の日誌へ視線を落とした。その文字を目にした瞬間、ほんのわずかに――本当に一瞬だけ、七音の指先の動きが止まったように、唯には見えた。
だが、次の瞬間には何事もなかったかのように視線を上げ、いつもの柔らかな表情へと戻る。
「……さあ?」
小さく首を傾げ、にっこりと笑って答える。その笑顔はあまりにも自然で、わずかな違和感さえも見つけられないほどだった。
だからこそ唯は、今胸に浮かびかけた――この字は七音のものなのかもしれない、という疑いを、確かめることもできないまま、自分の中でそっと引っ込めてしまった。
