君のつづる文字に、恋をした

 高校二年の五月。立夏を迎えたというのに、まだ少し肌寒い日だった。ゴールデンウィーク明けの教室で、突然、席替えが行われた。
唯にとっては、どこの席になっても関係ない。いつものように、空気のようにクラスに紛れていられれば、それでよかったのだから。

そう思っていたにもかかわらず、さすがの唯ですら困った事態になった。
隣の席が、校内でも有名なイケメンの一軍男子――天城七音(あまぎなお)になってしまったのである。

嫌い、というほどではない。けれど唯は、七音が少し苦手だった。

 一年生の頃からの有名人。
明るい色に染めた髪に、耳にいくつも開いたピアス。
マイペースで物事に執着せず、人の目を気にしない堂々とした態度。
それでいて、いつも優しい笑顔を絶やさない。謂わば、学校のアイドル的存在だ。

 一方の唯は、平凡そのものだった。
髪を染めたこともなければ、ピアスを開けたこともない。
見た目も性格も、七音とは正反対だ。

 七音は誰にでも優しいが、誰の味方でもない。
ケンカは強いが好まない性格だという噂もある。
どの群れにも属さないのに、輝く輪の中心には必ず彼の姿がある。
まるで自分が正人であるかのような佇まいは、謎の多い男だという印象を強く残した。

 国語の授業で習った魯迅の言葉が、ふと頭をよぎる。――「自分で正人君子だと名乗るものは用心しなければならぬ」。

 七音が自分を正人だと名乗ったわけではない。
それでも唯は、警戒するに越したことはないと思っていた。

 憂鬱な気分を振り払うように、唯は何度も開きすぎて、くたびれかけているノートを見つめた。
胸の奥が、ふっとあたたかくなる。

 ページをめくるたび、自然とすべての始まりを思い出してしまう。

『新しいクラスには慣れた?』

 気づかいの言葉が並ぶ整った文字。その横には、文字とはまったく釣り合わない、歪なイラストが添えられている。
熊なのか、それともタヌキなのか。判別のつかないその姿に、唯は思わず小さく笑った。

 ――あれは、高校に入学してしばらく経った頃のことだ。

 移動教室で使われた教室の、自分の机の中に、一冊のノートが入っていた。
名前もクラスも書かれていない、誰のものかわからないノート。
忘れ物だと思い、最初は深く考えなかった。

 英単語のスペルミスに気づき、付箋でそっと指摘を書き添えた。
きっと、そのうち持ち主が現れるだろうと思っていた。

けれど、持ち主は現れないまま。次の移動教室の日が訪れた。
ノートは、変わらず机の中に置かれたままだった。

 再び開いたページには、付箋の横に、直接書かれた短い返事があった。

 ――教えてくれてありがとう。

 その言葉の隣には、犬とも猫ともつかない歪な絵。
綺麗な文字からは想像もつかないその絵に、唯は思わず息を漏らした。

 名前はなく、お礼の言葉だけ。それでも、そのまま机に戻してしまう気にはなれなかった。
しばらくノートを見つめたあと、唯は今度は付箋ではなく、迷いながらも直接返事を書いた。

『このノートは、どうするの?』

 数日後の移動教室。机の中のノートを開くと、また短い返事が書かれていた。

 ――友達になろう。

 意味のわからない絵が、また一つ添えられている。
こうして、文字と絵だけの、不思議な交換日記が始まった。

 ページを閉じ、唯はそっとノートを机の引き出しに戻す。
誰にも見せないまま、胸の奥にしまい込むように。

 なぜ胸があたたかくなるのか。その理由を考えるのは、まだ少し怖かった。
現実に引き戻され、唯は隣の席に座る天城七音から、そっと目を逸らす。

「それ、好きなの?」

 逸らしたはずの視線の先から、突然声を掛けられ、唯は肩をびくりと跳ねさせる。

「へ?」

 驚きと戸惑いが混ざった変な声が漏れ、思わず赤面した。

「そ・れ」

 にっこりと微笑みながら、七音は唯の机の右端に貼られた、とても小さなシールを指差す。
教師ですら気にも留めないほどのそれに気づいた観察力に、唯は内心驚いた。

「え?これ?」
「そう、それ」

 思わず敬語を抜いた口調で返してしまったが、七音は気にする様子もない。

「あ、うん。好きだよ」
「それさ、なかなか手に入らないよね」

 その言葉に、唯は目を瞬かせた。まるで、このシールの価値を知っているかのようだったからだ。

 妹へのご褒美として集めていたシールは、いつの間にか唯自身の趣味になっていた。
特に、この犬のような謎の生物のぷっくりとしたシールはお気に入りだ。地道に人気を集め、今では入手困難なもの。
交換日記の相手が描く歪な絵に、どこか似ているところも気に入っていた。
だからこそ、このシールは席替えをしても相手がすぐ気づけるように、目印として貼ってあるのだった。

「キャラクターが好き?それともシール自体?」

 七音の関心は止まらない。

「……どっちも、かな」

 返答に困りつつも、嘘はつけずにそう答えた唯は、ふと七音の筆箱に目を留めた。
そこに貼られていたのは、自分が持っていたものと同じシール――すでに交換日記の相手に渡してしまったものと、同じ絵柄だった。
けれど、そのシールは特別に珍しいものではない。彼の筆箱には他にもいくつものシールが貼られていて、唯は深く考えずに視線を戻した。

「天城くんも、シール集めてるの?」
「んー、俺は集めてないけど。もらい物とか、妹のシール交換の付き合い」
「妹さんが、いるんだ」
「そうそう。クソ生意気なやつ」

 そう言いながら笑う七音に、言葉とは裏腹な優しさが、ふっと滲んで見えた。

「これ、よかったら妹さんに。被って持ってるやつだから」

 唯は鞄からシールを取り出し、そっと差し出した。言葉にした途端、胸の奥がきゅっと縮む。
どうしてこんな可愛いシールを持っているのか。変に思われはしないだろうか。
そんな考えが、一気に押し寄せる。

「マジで?サンキュー!」

 軽い調子の言葉に、不安が溶け、不思議と嫌な気はしなかった。
太陽みたいに笑う七音の表情が、やけに心に残ったからだろうか。

「じゃあ、これあげるよ」

 七音は筆箱から一枚のシールを剥がし、唯の国語の教科書に貼った。

「え、あ……ありがとう」

 無邪気すぎるその行動に戸惑いながら、唯は視線を落とした。教科書の端に貼られたそのシールが、やけに目につく。

 ――悪い人ではないのかもしれない。

 そう思った瞬間、あのノートにこのことを書くべきか、ふと迷う。
なぜ戸惑ってしまったのか、自分でもうまく説明できなかった。

 誤解されたくない、と思った。
何を、誰に、なのかはわからないまま。

 唯は胸に残る小さな引っ掛かりを抱えたまま、隣にいる天城七音の存在が、思っていたよりも自然に感じられてしまうことに、静かに困惑していた。

 今日のことを、あのノートに書くべきかどうか。唯は迷う。
「友達はできた?」――相手の言葉への返事としてなら、書けなくもない。
けれど、それを言葉にするには、まだ怖かった。

だから唯は、その続きを書かないまま、そっと胸の奥にしまい込んだ。