七音は謹慎処分を受け、一ヶ月間自宅で過ごしていたが、そのまま夏休みに突入してしまった。
「ねえ、毎日来てあげてるのに!」
耳障りな女の声が、頭の奥をじりじりと刺激する。
彼女という立場をいいことに、学校を休んでいる間、女はほとんど毎日のように七音の部屋へ上がり込んできた。
七音は、心底うんざりしていた。
「全然、手出してくれないんだから!」
一つ年上の彼女は、見た目だけなら可愛いのかもしれない。だが七音にとっては、街ですれ違う誰かと変わらない、ただの人間の一人にすぎなかった。
膝の上にまたがられ、誘うように顔を寄せられても、何ひとつ心が動かない。
自分の部屋に彼女を上げ、二人きりの空間――普通の思春期の男子なら、願ってもない状況なのだろう。
けれど七音にとっては、吐き気が込み上げるほどの嫌悪感の対象でしかなかった。
女がキスを求めるように顔を近づけてくるたび、唯の唇がふと頭をよぎる。
あの瞬間、唯にキスをした感覚を――止めどなく愛おしさがこみ上げる感情を。
七音は女からの視線と要求を避けるように外した。
唯の答えなんて分かっているし、唯から振られるのが怖くて逃げていた。
どうせ、唯は俺を選ばない。そんな自暴自棄になっていたタイミングで告白され、「お試しでいいから」と何度も頼まれ、断りきれずに付き合うことになっただけ。
それなのに、彼女の欲だけが、日に日に七音を苦しめていた。
「先輩、俺たち、まだお試し期間ですよ?それに、高校生」
七音は笑顔を崩さないまま、軽く受け流すように言った。
「お試しであれ、先輩のこと、大事にしたいから。ダメです」
誘いかけてくる彼女をなだめるには、結局こうした柔らかな言葉がいちばん効く。下手に断ると、この手のタイプは驚くほどの被害妄想に浸る――それは七音の経験から、よく分かっていることだった。
これまで、他人と深く付き合ってきたわけではない。けれど、男女を問わず、自分に近づいてくる人間の多くが、どこか面倒な存在であることも事実だった。
だからこそ七音は、どこにも属さず、どこにも縛られない距離を、自分なりに築き上げてきた。
優しい天城七音。つかみどころのない男――そんな形を、意識的に作り上げてきたはずだった。
けれど、それを自分の手で崩す日が来るとは思っていなかった。
――あのとき、的場を殴りさえしなければ。
こんなふうに謹慎処分を受け、この女と長い時間を共に過ごす必要など、本来はなかった。学校で顔を合わせる、それだけの関係で終わっていたはずなのに。
七音は、今さらになって、自分の行動を噛みしめるように悔やんでいた。
時折、通知が鳴るスマホを覗き込み、思わず小さく溜息をつく。
唯とは、連絡先を交換していない。そう気づいたのは、学校に行けなくなってからだった。
交換日記を続け、隣の席にいることが当たり前になっていたせいで、連絡先を交換していない事実を、すっかり忘れていたのだ。
けれど、それでよかったのではないかと今では思う自分もいる。
キスをしたあの日から、友達に戻れるなどとは思っていなかった。振られたあとも友達としてそばに居続けるのは、きっと辛いだけだ。何より、唯が他の人と付き合うことになったとき、笑って応援できるはずもない。
もし友達のまま一緒に過ごし続ければ、抑えている感情がいつ爆発するか分からない。それこそ、唯に軽蔑されてしまうかもしれない。
だから、距離を取ろうと思っていた――その判断の誤りが、自暴自棄のきっかけとなったのだ。
七音は再び、小さく溜息をついた。
謹慎処分を言い渡されるきっかけになったあの日。七音は、唯にまつわるよくない噂を耳にした。
噂の出どころとして真っ先に思い当たったのが、的場だった。
緑化委員の仕事で花に水をやっている的場を見つけ、何気ないふりを装いながら、「最近仲良くしている中川唯をどう思ってるのか。変な噂が流れているがどうなんだ」と、唯のことを尋ねたのだ。
そして、返ってきた言葉に、胸の奥で何かが音を立てて切れた。
的場は、唯からの好意を、「気持ち悪い」と、はっきり、そう言ったのだ。
その瞬間、抑えていた怒りが形を持ち、拳へと変わっていた。
的場に向けられていた唯の視線。あれは、本当は、自分が欲しかったものだ。
羨ましいと思っていたその視線も、その想いも、まるで汚れたものでも扱うかのように踏みにじられた気がして、七音にはどうしても耐えられなかった。
気づけば、全力で的場を殴っていた。
そして、その結果が――いまの、この有様だった。
何もかもがどうでもいいと思っていた時期だったとはいえ、この女を選ぶべきではなかった。ただただ、面倒なだけだ。
七音は表情にも態度にも出さなかったが、心の奥では、彼女という存在に嫌気が差していた。
学校一の美人と呼ばれていようが、そんなことはどうでもよかった。控えめな性格だと聞き、どこか唯に似ているのではないかと期待して付き合ってみたものの、実際の彼女には控えめなところなど一切なかった。
唯を諦めるための理由にさえならず――その程度の存在でしかなかった。
「ふーん。まあいいけど。じゃあ、これ、行こ!」
彼女から差し出されたチラシに目を落とすと、七音の胸の奥で、また一つ面倒が増えたような気分になる。
それは、夏祭りのチラシだった。
「これに付き合ってくれたら、許してあげる」
許すも何も、悪いことなど何一つしていない。だが、こうして機嫌が直るのなら、そのほうが楽だ。
七音は内心ではため息をつきながらも、表情だけは笑顔を崩さず、静かに承諾した。
謹慎が解け、自由な外出が許された夏祭りの日。
会場に向かう途中、七音は人混みのざわめきの中で、ふと足を止めた。
彼女が喉の渇きを訴えたため、何気なく入ったカフェ。小さな店内には、柔らかな空気が流れ、夏の陽射しを和らげるように差し込んでいた。
――そこで、目に入ったのは、見覚えのある姿だった。
カウンターの向こう、制服姿のままトレーを持つ唯。店長と客の間を忙しそうに動きながらも、どこか落ち着いた表情をしている。
その姿を目にして、胸の奥が、ぎゅっと小さく跳ね、呼吸が一瞬止まるのを七音は感じた。
「……唯」
自然に口をついて出た声は、小さくて届いているはずもなかった。それでも、唯はふと顔を上げ、視線が交わる。
その瞬間、世界が止まったように感じ、行き交う客や店内のざわめきも、まるで遠くに溶けていくようだった。
空気の密度が一瞬変わったかのように、七音の胸は強く、そして小さく跳ねた。
七音は、カフェで働く唯を意識しないように、距離を取り、目をそらそうとする。しかし、無理だった。
店内の明かりや香り、カウンターの向こうでの細やかな仕草、揺れる髪の先まで、全てが目に入る。
一緒に居る彼女の声も話も、頭に入ってこない。自然と唯の動きを追い、時折視線が合うたびに、久しぶりの高揚感が胸を満たし、同時に息苦しさをも伴った。
心の奥で何かがざわつき、抑えようとすればするほど、熱い感情がじわりと膨らむ。
カフェを出るとき、七音の手に握られていたのは、唯からもらった連絡先だった。
見覚えのある、少し丸みを帯びた、七音の好きな唯の字。紙の感触からも、ほんのり残る温度からも、唯の気配がじんわりと伝わってくる。
期待を含ませるような、さりげない仕草が、胸の奥で甘く、痛く、そして重く残った。
ああ、もうダメだ――。
七音は、自分の気持ちが、もはや諦められないところまで唯に堕ちていることを痛感した。
偶然の再会の短い瞬間で、抑え込んでいた想いがほとばしり、理性はどこか遠くへ流れていったようだった。
カフェを出て、人混みに紛れながら、七音は肩の奥まで緊張を抱えたまま歩いた。
祭りのざわめきが遠くから聞こえる。笑い声や太鼓の音に混ざって、胸の高鳴りがさらに鮮明になる。
「先輩、ごめん」
自然に口をついて出たその声に、彼女の顔が一瞬、凍りついたようだった。
「別れたいです」
言わなければならない。もう逃げることはできない。
覚悟を決めた瞬間、七音は、心の奥で小さく震える何かを感じながらも、淡々と、必要な言葉だけを選んだ。
感情に流されることなく、理性で区切りをつける。
その冷徹さは、ほんの一瞬だけ、七音の表情に宿った。
「何で、急に……」
「すみません。先輩を好きになろうと努力はしました」
「それ、今じゃなきゃダメだった?今日くらい我慢できなかった?」
彼女の声は、怒りを抱いて震えていた。
「……俺は先輩とは祭りに行かない」
「なんで、よりによって今日なのよ!」
怒声が、耳を貫き、胸の奥まで響く。
言葉では表せない感情が空気の中でねじれ、七音の耳と心を圧迫する。
夏祭りという特別な日を、最悪の思い出として刻もうとする七音を引き止めようとする、彼女の必死な声。
七音は一歩も動かず、ただ淡々と彼女の感情を受け止めながらも、冷たく現実を突きつけるだけだった。
「絶対いや!別れたくない!」
道を歩く人々の視線がちらちらと七音たちに向けられる。
「すみません。俺は、先輩を好きになれない」
――次の瞬間、頬を叩かれた。
痛みが頬を駆け抜け、肩が跳ねる。反射的に目を閉じる七音。
その瞬間、内心で冷静さを取り戻す自分に、ほんの少しだけ笑みがこぼれた。
問いただされても、もう答えるつもりはない。
静かに、しかし確実に、七音は距離を取る。叫び狂う彼女を背に、足を進めた。
ポケットに入れてある、唯からもらった連絡先を、指先でそっと撫でる。
紙の感触、ほんのり残る温度、丸みを帯びた文字――すべてが胸の奥で甘く痛く広がる。
七音は、心を揺さぶるものだけを意識的に抱きしめながら、歩みを進めた。
帰宅した七音の胸の奥には、熱を帯びた高揚感が残っていた。
唯は、もしかするとただ友達として連絡を取り合いたいだけなのかもしれない。けれど、それでも構わないと思える自分がいた。
こうして唯から声をかけてもらえたこと――それだけで、心の奥が静かに温まるのを感じる。
七音は、メッセージを送る前に何度も文面を確認し、どのスタンプを選ぶか慎重に悩む。
結局、送信できたのは、数日後のことだった。
唯の好きそうなスタンプを購入し、さりげなく「ヨロシク」と送った。
返ってきたのは、たった一文――「こちらこそ」。
それだけなのに、七音の胸は温かくなった。静かで控えめなやり取りの中に、確かな喜びが滲んでいた。
「ねえ、毎日来てあげてるのに!」
耳障りな女の声が、頭の奥をじりじりと刺激する。
彼女という立場をいいことに、学校を休んでいる間、女はほとんど毎日のように七音の部屋へ上がり込んできた。
七音は、心底うんざりしていた。
「全然、手出してくれないんだから!」
一つ年上の彼女は、見た目だけなら可愛いのかもしれない。だが七音にとっては、街ですれ違う誰かと変わらない、ただの人間の一人にすぎなかった。
膝の上にまたがられ、誘うように顔を寄せられても、何ひとつ心が動かない。
自分の部屋に彼女を上げ、二人きりの空間――普通の思春期の男子なら、願ってもない状況なのだろう。
けれど七音にとっては、吐き気が込み上げるほどの嫌悪感の対象でしかなかった。
女がキスを求めるように顔を近づけてくるたび、唯の唇がふと頭をよぎる。
あの瞬間、唯にキスをした感覚を――止めどなく愛おしさがこみ上げる感情を。
七音は女からの視線と要求を避けるように外した。
唯の答えなんて分かっているし、唯から振られるのが怖くて逃げていた。
どうせ、唯は俺を選ばない。そんな自暴自棄になっていたタイミングで告白され、「お試しでいいから」と何度も頼まれ、断りきれずに付き合うことになっただけ。
それなのに、彼女の欲だけが、日に日に七音を苦しめていた。
「先輩、俺たち、まだお試し期間ですよ?それに、高校生」
七音は笑顔を崩さないまま、軽く受け流すように言った。
「お試しであれ、先輩のこと、大事にしたいから。ダメです」
誘いかけてくる彼女をなだめるには、結局こうした柔らかな言葉がいちばん効く。下手に断ると、この手のタイプは驚くほどの被害妄想に浸る――それは七音の経験から、よく分かっていることだった。
これまで、他人と深く付き合ってきたわけではない。けれど、男女を問わず、自分に近づいてくる人間の多くが、どこか面倒な存在であることも事実だった。
だからこそ七音は、どこにも属さず、どこにも縛られない距離を、自分なりに築き上げてきた。
優しい天城七音。つかみどころのない男――そんな形を、意識的に作り上げてきたはずだった。
けれど、それを自分の手で崩す日が来るとは思っていなかった。
――あのとき、的場を殴りさえしなければ。
こんなふうに謹慎処分を受け、この女と長い時間を共に過ごす必要など、本来はなかった。学校で顔を合わせる、それだけの関係で終わっていたはずなのに。
七音は、今さらになって、自分の行動を噛みしめるように悔やんでいた。
時折、通知が鳴るスマホを覗き込み、思わず小さく溜息をつく。
唯とは、連絡先を交換していない。そう気づいたのは、学校に行けなくなってからだった。
交換日記を続け、隣の席にいることが当たり前になっていたせいで、連絡先を交換していない事実を、すっかり忘れていたのだ。
けれど、それでよかったのではないかと今では思う自分もいる。
キスをしたあの日から、友達に戻れるなどとは思っていなかった。振られたあとも友達としてそばに居続けるのは、きっと辛いだけだ。何より、唯が他の人と付き合うことになったとき、笑って応援できるはずもない。
もし友達のまま一緒に過ごし続ければ、抑えている感情がいつ爆発するか分からない。それこそ、唯に軽蔑されてしまうかもしれない。
だから、距離を取ろうと思っていた――その判断の誤りが、自暴自棄のきっかけとなったのだ。
七音は再び、小さく溜息をついた。
謹慎処分を言い渡されるきっかけになったあの日。七音は、唯にまつわるよくない噂を耳にした。
噂の出どころとして真っ先に思い当たったのが、的場だった。
緑化委員の仕事で花に水をやっている的場を見つけ、何気ないふりを装いながら、「最近仲良くしている中川唯をどう思ってるのか。変な噂が流れているがどうなんだ」と、唯のことを尋ねたのだ。
そして、返ってきた言葉に、胸の奥で何かが音を立てて切れた。
的場は、唯からの好意を、「気持ち悪い」と、はっきり、そう言ったのだ。
その瞬間、抑えていた怒りが形を持ち、拳へと変わっていた。
的場に向けられていた唯の視線。あれは、本当は、自分が欲しかったものだ。
羨ましいと思っていたその視線も、その想いも、まるで汚れたものでも扱うかのように踏みにじられた気がして、七音にはどうしても耐えられなかった。
気づけば、全力で的場を殴っていた。
そして、その結果が――いまの、この有様だった。
何もかもがどうでもいいと思っていた時期だったとはいえ、この女を選ぶべきではなかった。ただただ、面倒なだけだ。
七音は表情にも態度にも出さなかったが、心の奥では、彼女という存在に嫌気が差していた。
学校一の美人と呼ばれていようが、そんなことはどうでもよかった。控えめな性格だと聞き、どこか唯に似ているのではないかと期待して付き合ってみたものの、実際の彼女には控えめなところなど一切なかった。
唯を諦めるための理由にさえならず――その程度の存在でしかなかった。
「ふーん。まあいいけど。じゃあ、これ、行こ!」
彼女から差し出されたチラシに目を落とすと、七音の胸の奥で、また一つ面倒が増えたような気分になる。
それは、夏祭りのチラシだった。
「これに付き合ってくれたら、許してあげる」
許すも何も、悪いことなど何一つしていない。だが、こうして機嫌が直るのなら、そのほうが楽だ。
七音は内心ではため息をつきながらも、表情だけは笑顔を崩さず、静かに承諾した。
謹慎が解け、自由な外出が許された夏祭りの日。
会場に向かう途中、七音は人混みのざわめきの中で、ふと足を止めた。
彼女が喉の渇きを訴えたため、何気なく入ったカフェ。小さな店内には、柔らかな空気が流れ、夏の陽射しを和らげるように差し込んでいた。
――そこで、目に入ったのは、見覚えのある姿だった。
カウンターの向こう、制服姿のままトレーを持つ唯。店長と客の間を忙しそうに動きながらも、どこか落ち着いた表情をしている。
その姿を目にして、胸の奥が、ぎゅっと小さく跳ね、呼吸が一瞬止まるのを七音は感じた。
「……唯」
自然に口をついて出た声は、小さくて届いているはずもなかった。それでも、唯はふと顔を上げ、視線が交わる。
その瞬間、世界が止まったように感じ、行き交う客や店内のざわめきも、まるで遠くに溶けていくようだった。
空気の密度が一瞬変わったかのように、七音の胸は強く、そして小さく跳ねた。
七音は、カフェで働く唯を意識しないように、距離を取り、目をそらそうとする。しかし、無理だった。
店内の明かりや香り、カウンターの向こうでの細やかな仕草、揺れる髪の先まで、全てが目に入る。
一緒に居る彼女の声も話も、頭に入ってこない。自然と唯の動きを追い、時折視線が合うたびに、久しぶりの高揚感が胸を満たし、同時に息苦しさをも伴った。
心の奥で何かがざわつき、抑えようとすればするほど、熱い感情がじわりと膨らむ。
カフェを出るとき、七音の手に握られていたのは、唯からもらった連絡先だった。
見覚えのある、少し丸みを帯びた、七音の好きな唯の字。紙の感触からも、ほんのり残る温度からも、唯の気配がじんわりと伝わってくる。
期待を含ませるような、さりげない仕草が、胸の奥で甘く、痛く、そして重く残った。
ああ、もうダメだ――。
七音は、自分の気持ちが、もはや諦められないところまで唯に堕ちていることを痛感した。
偶然の再会の短い瞬間で、抑え込んでいた想いがほとばしり、理性はどこか遠くへ流れていったようだった。
カフェを出て、人混みに紛れながら、七音は肩の奥まで緊張を抱えたまま歩いた。
祭りのざわめきが遠くから聞こえる。笑い声や太鼓の音に混ざって、胸の高鳴りがさらに鮮明になる。
「先輩、ごめん」
自然に口をついて出たその声に、彼女の顔が一瞬、凍りついたようだった。
「別れたいです」
言わなければならない。もう逃げることはできない。
覚悟を決めた瞬間、七音は、心の奥で小さく震える何かを感じながらも、淡々と、必要な言葉だけを選んだ。
感情に流されることなく、理性で区切りをつける。
その冷徹さは、ほんの一瞬だけ、七音の表情に宿った。
「何で、急に……」
「すみません。先輩を好きになろうと努力はしました」
「それ、今じゃなきゃダメだった?今日くらい我慢できなかった?」
彼女の声は、怒りを抱いて震えていた。
「……俺は先輩とは祭りに行かない」
「なんで、よりによって今日なのよ!」
怒声が、耳を貫き、胸の奥まで響く。
言葉では表せない感情が空気の中でねじれ、七音の耳と心を圧迫する。
夏祭りという特別な日を、最悪の思い出として刻もうとする七音を引き止めようとする、彼女の必死な声。
七音は一歩も動かず、ただ淡々と彼女の感情を受け止めながらも、冷たく現実を突きつけるだけだった。
「絶対いや!別れたくない!」
道を歩く人々の視線がちらちらと七音たちに向けられる。
「すみません。俺は、先輩を好きになれない」
――次の瞬間、頬を叩かれた。
痛みが頬を駆け抜け、肩が跳ねる。反射的に目を閉じる七音。
その瞬間、内心で冷静さを取り戻す自分に、ほんの少しだけ笑みがこぼれた。
問いただされても、もう答えるつもりはない。
静かに、しかし確実に、七音は距離を取る。叫び狂う彼女を背に、足を進めた。
ポケットに入れてある、唯からもらった連絡先を、指先でそっと撫でる。
紙の感触、ほんのり残る温度、丸みを帯びた文字――すべてが胸の奥で甘く痛く広がる。
七音は、心を揺さぶるものだけを意識的に抱きしめながら、歩みを進めた。
帰宅した七音の胸の奥には、熱を帯びた高揚感が残っていた。
唯は、もしかするとただ友達として連絡を取り合いたいだけなのかもしれない。けれど、それでも構わないと思える自分がいた。
こうして唯から声をかけてもらえたこと――それだけで、心の奥が静かに温まるのを感じる。
七音は、メッセージを送る前に何度も文面を確認し、どのスタンプを選ぶか慎重に悩む。
結局、送信できたのは、数日後のことだった。
唯の好きそうなスタンプを購入し、さりげなく「ヨロシク」と送った。
返ってきたのは、たった一文――「こちらこそ」。
それだけなのに、七音の胸は温かくなった。静かで控えめなやり取りの中に、確かな喜びが滲んでいた。
