君のつづる文字に、恋をした

 時間は、あまりにも早く過ぎていった。
七音がすぐそばにいるだけで、胸がいっぱいになり、体が重く感じられる。
予鈴が鳴り、本鈴へと切り替わるころには、廊下に残る生徒の姿はほとんどなく、静けさがゆっくりと漂っていた。
 ――戻らなきゃ。
そう思うのに、足は動かない。
唯は自然と床にしゃがみ込み、ぐずついた鼻を小さくすすった。
「もう大丈夫」――そう口にしてみる。けれど、七音の瞳はその言葉を簡単には受け入れようとしない。

「どうせ、もう授業だし。たまにはサボろ?」

 柔らかな笑みを浮かべたまま、七音はスマートフォンを取り出した。

「クラスのやつに、唯が体調崩したから保健室連れてくって送っとく」

 慣れた手つきで画面を片手の指先だけでなぞる。爪がぶつかる音が、静かな教室に小さく響いた。
七音のスマートフォンに貼られた、唯があげたステッカーが目に入る。自分を大事に思ってくれていることが、胸の奥をそっとくすぐった。

「で、なんで泣いてんの?」

 送信を終えると、七音は改めて唯の方へ視線を向ける。逃げ場を与えないほど近い距離で、けれど責める色はなく、ただ心配そうな色だけがそこにあった。

「そんな、大したことじゃないよ」

 唯は、無意識のうちにそう答えていた。自分の中で鳴っている心の悲鳴を、人に聞かせないことが、いつの間にか癖になっている。けれど七音の視線は、その言葉の裏にあるものまで、そっと見透かしているように感じられた。
唯のそれを見抜いたのか、七音はわずかに眉を寄せた。

「大丈夫じゃないでしょ。目、真っ赤だよ」

 そっと目元に触れられ、乾きかけていた皮膚が、ぴりっと痛む。
けれど、その指先は驚くほど温かくて――唯は、ほんの一瞬だけ、目を閉じた。
優しい七音に心を許すように、唯は小さな声で、ぽつりと語り始める。

「俺ね、失恋したみたい」

 唯は、どこか無理に形を作ったような笑みを浮かべた。うまく笑えている自信はなかったが、泣いている顔をそのまま見せ続けることもできなかった。
始まってもいない恋だった。ただ、少し気になっていただけ――そう言い聞かせようとしても、胸の奥に残る痛みは消えない。あの文字の主が、頭の中に浮かぶ。
込み上げてくる感情を押し戻そうと、唯は小さく息を吸った。だが、こらえきれなかった涙が、再び視界を滲ませる。

「だれ?」

 七音の声が落ちてきた。低く、短い問いだった。その響きは、どこか鋭く、唯の胸の奥を探るようだった。

「え……?」

 戸惑って顔を上げると、七音はまっすぐこちらを見ている。

「的場?」

 突然、誰かを言い当てられ、唯は思わず肩をビクリと震わせた。胸の奥がざわつき、心臓が早鐘のように鳴る。男を好きだということを知られ、七音の目にどう映るのか、考えるだけで恐怖が胸を締め付ける。

「なに……言って……まさか、そんな。的場くん、男だし」

 否定の声は震え、無意識に息を呑む。頭では、七音がそんな偏見を持つ人ではないと理解しているのに、身体が先に反応してしまう。
慌てて否定しながら、唯は自分の声が少し上ずっていることに気づいた。
七音は小さく息を吐き、視線を落とさないまま言った。

「男とか女とか、どうでもいいだろ。唯がだれを好きなのか、だろ」

 その表情は、どこか切なそうで、けれど目の奥には、抑えきれない何かが滲んでいるようにも見えた。

「男が好きじゃ、ダメなの?」

 七音の低く落ちた声に、唯の胸がわずかに揺れる。

「そんなこと……ない」

 すぐにそう答えたものの、言葉を口にした瞬間、唯は自分が少し前に「男だし」と言い訳のように言ってしまったことの恥ずかしさに、胸が落ち着かなくなるのを感じた。性別など関係ないと、頭では理解しているはずなのに、七音なら、自分を否定したりしないと分かっているのに、信じきれなかった自分がいて、その弱さや醜さに、唯は小さく肩をすくめた。
唯は視線を落とし、小さく息を整える。

「そんなことないよ……好きだったと思うんだ。俺、的場くんを」

 ようやく、本音が、静かに漏れ出た。再び目を覆う涙。堰を切ったように、止めどなく言葉が零れ落ちる。
交換日記のこと。相手の正体が分からなかったこと。交換日記が突然消えたこと。悲しかったこと。そして、最近になって、その相手が的場なのだろうと思ったこと。気づけば、その相手に惹かれていたこと。自分でも驚くほど正直に、唯は七音にすべてを吐き出していた。
言葉にするたび、胸の奥に押し込めていた感情が少しずつ形を持ち、同時に静かに崩れていくのを感じる。
 七音は何も言わず、ずっと唯の言葉に耳を傾けていた。

「男が好きとか……七音くんが、引かないでくれてよかった」

 すべてを吐き出したあと、ようやく零れた言葉だった。胸の奥に溜め込んでいたものを一気に外へ出したせいか、体の力が少し抜けていく。
 もし人に知られたら、軽く笑われるかもしれない。気まずそうな顔をされるかもしれない。そんな不安が、どこかにずっとあった。
けれど、七音なら受け止めてくれる――そんな安心があった。
だから、ここまで話してしまったのだ。知られて困るはずのことまで、隠さずに。
 唯は、まだ少し潤んだ視界のまま、隣にいる七音を見る。
拒まれなかったことへの安堵が、遅れて胸の奥に広がっていく。

「好きになった理由も、交換日記の相手が的場くんだったってだけなのにね」

 唯は笑みを浮かべながらも、どこか照れくさそうに視線を落とす。教室の窓から差し込む光が、頬を淡く照らしていた。

「でも、本当に好きだったのかも分からなくなっちゃった。悲しいのも、ノートがないことに焦った気持ちとか、不安とかがあって答えを知りたいって焦った感じだったのかなって」

 小さく肩をすくめ、唯は言葉に力を込めすぎないようにしている。けれど、吐き出すたびに胸の奥の重みが、少しずつ軽くなるのを感じていた。

「涙は出るけど、吹っ切れた感じもする。なんか不思議」

 唯は徐々に気持ちの晴れを感じて笑顔を見せる。
七音には無理に笑って見えるのだろうか。そう思うと、唯は大丈夫だと解るように話題を作ろうと心がけた。

「的場くん、字が綺麗だから、惹かれただけだったのかも。俺って字フェチだったのかな」

 茶化すように冗談を混ぜる口調にして、唯は笑った。急に別の話題を振って、話をそらしていると思われたくはなかった。だからこそ、そう出た言葉だった。

「交換日記の相手だと思ったから、的場が好きだって思ったの?」

 七音の声が静かに響く。
深く重く沈むような真剣な声に、唯の心が一瞬止まる。今は冗談を交わすタイミングではない――そうはっきり告げられていることに、唯は気づく。

「え?」
「なんで、的場だ。って思ったの?」

 七音の低く沈む声が、唯の心を貫くように届く。

「ちゃんと確認した?的場の字」

 その声は、静かに、そして冷たく、唯を責めるように響いた。

「緑化委員の日誌で見たよ」
「それ、本当に的場の字?」

 七音はいつになく真剣な面持ちで、怒りにも似た感情をこめ、唯に問い続ける。
唯は視線を逸らせず、動悸を感じながらも、必死に平静を保ち、わずかに息を詰めた。
七音の怒りめいた視線に、どう答えればいいのか唯の胸は張り裂けそうになった。答えを探すように視線を返すものの、心の内は動揺で渦巻いていた。

 沈黙の中、教室の空気は二人だけのもので満ちていた。
窓から差し込む光も、遠くの時計の針の音も、すべてがわずかに重く感じられる。
唯の胸の内が騒ぎ、心臓が早鐘のように打つのを押さえながら、視線を逸らすこともできず、七音の真剣な眼差しを受け止める。その視線の重みに、胸の奥がぎゅっと締め付けられるようで、思わず手に力が入った。

「だって……」

 唯は混乱した。どう考えても唯の思考ではあの字は的場にたどり着く。

「唯」

 七音の視線が、あまりにも近くにあった。唯が次に何を言うのか、何をするのか――そのすべてを見つめているような、静かで、抗えない重みを帯びた視線。

「ばーか」

 次の瞬間、唇が自分の唇に触れた。唯は思わず息を止め、目を見開く。心臓が跳ね、どうして自分がキスされたのか、その理由はまったくわからなかった。

七音の目を見つめたまま、唇の重なりは解けない。
思考は瞬時に止まり、言葉も順序も出てこない。ただ、唇に触れた温かさだけが、胸の奥にじんわりと染み渡り、全身を包むように残った。

 わずかに微笑む七音が、静かに、でも確かに囁く。

「俺は、唯が好きだよ」

 それだけの短い言葉に、すべての想いが凝縮されているようで、唯は胸の奥がぎゅっと締め付けられ、同時に溶けるようなあたたかさを感じた。

「先行く」

 七音は切ない笑みを浮かべ、ゆっくりと立ち上がった。
教室のドアの向こうで、足音がやわらかく、しかし確かに遠ざかっていく。
唯はそのまま床に座り込み、唇に残る温もりと、七音の言葉の余韻を胸に抱えたまま、静かに呼吸を整えた。
心の奥では、まだ整理できない思いが小さく波打つ。

 唯は、確かに何かが変わったのを、感じていた。