君のつづる文字に、恋をした

 一日経って、唯はようやく少しだけ冷静になっていた。
もしかしたら、的場は自分と距離を取りたいのかもしれない。ノートを持ち帰ったのなら、何かしら理由があるはずだ。気づけというサインなのか、それとも呆れられてしまったのか。
落ち着こうとすればするほど、不安だけが静かに膨らんでいく。

 ――もう少し、答えを考えた方がいいのかもしれない。

 そう思いながら唯は、昼休み、委員の仕事をこなしている的場の姿をちらちらと目で追っていた。

「俺の顔に何かついているか?」

 視線に気づいたのか、的場が顔を上げ、静かに問いかけてくる。
唯は慌てて首を振り、「いや、何も」とだけ答えると、手元のプリントに視線を落とした。まとめるべき資料に、マーカーで線を引いていく。
 委員会の仕事で文字を書く機会は、活動記録くらいしかない。普段は渡されたプリントにチェックを入れる程度で、生徒たちが文字を書く場面を見ることはほとんどなかった。強いて言えば、各自が持ち歩くメモ帳に書き込むくらいだ。
 だが今日は、的場がプリントに直接文字を書き込んでいる。
すらりと長い指がペンを持ち、紙の上を滑っていく。鉛筆の芯が紙に触れる、かすかな擦過音が耳に届いた。なぜか、それが妙に心地よく感じられる。

 ――きっと、綺麗な字を書いているんだろうな。

 そんなことを思いながら、唯は黙々とマーカーを引き続けた。
いつ切り出そう。話しかけたい気持ちと、やはり黙っているべきなのではないかという迷いが、胸の中でせめぎ合う。

「あ、あのさ」

 ようやく出た声は、思った以上に上ずっていた。声をかけたものの、いきなり本題に入る勇気は出ない。唯は一瞬迷い、結局、遠回りな話題から切り出した。

「的場くんって、好きな人とかいるの?」

 ペン先が止まる。的場はゆっくり顔を上げ、わずかに眉をひそめた。予想していなかった質問だったのだろう。

「いや、その……的場くんってかっこいいから、モテるだろうなって思って」

 自分でも驚くほど、言葉が次々と口から出てくる。

「男の人から見ても、憧れる感じっていうか。完璧って感じがして」
「……ありがとう」

 的場は少し不思議そうな表情のまま、短く礼を言った。どう返せばいいのか測りかねているような、やや形式的な声だった。

「どうした、急に」

 探るような視線を向けられ、唯の喉がわずかに乾く。自然な流れを作る言葉はいくらでもあるはずなのに、どれを選べばいいのか分からない。
迷った末、口から出たのは、思いもよらない一言だった。

「俺、的場くんが好きだなって思って」

 言った瞬間、自分でも驚いた。あまりにもストレートな言葉だったうえに、何より、そのあとに返ってくる反応が怖かった。

「……それは、友情的な?それとも恋愛的な?」

 的場の声が、わずかに低くなる。唯は瞬時に、選択を間違えかけたことを悟った。

「友達としてだよ!」

 慌てて笑顔を作り、軽い調子で言い直す。外から見れば落ち着いているように見えるかもしれないが、唯の頭の中は完全に混乱していた。

「……そうか。最近、同性愛疑惑をかけるのが流行っているからな。中川もそれかと思ったよ」

 的場は、少し困ったように肩をすくめた。確かに、男同士で親しいというだけで同性愛者だと冗談交じりに言う風潮は、近ごろよく見かける。

「同性愛者って、嫌なの?」

 唯が恐る恐る尋ねると、的場は首を横に振った。

「嫌ではない。ただ、誤解されるのは困る」

 そこで一拍置き、彼は淡々と続けた。

「俺には彼女がいるからな」
「え?」

 思わず、声が漏れる。

「知らなかったのか?中学から付き合ってる彼女がいる。他校だが」
「し、知らないよ。最近仲良くなったばかりだし、彼女の話なんて聞いたことなかったし……他校なら気づかないよ」
「そうか……。入学当初から色んな子に告白されてな。彼女がいると言っても信じてもらえないし、断り続けていたら、男が好きなんじゃないかって疑われることもあってな。だから、中川も興味本位で聞いてきたのかと思ったが……違うならいい」

 そう言って、的場は再び手元のプリントへ視線を落とした。
唯は、今何をするべきなのか分からなくなっていた。
ただ時間だけが流れ、昼休みの終わりを告げるチャイムが校舎に響く。

「中川、授業始まるぞ」
「うん、これ片づけたら行くよ。先行ってて」
「そうか」

 的場は「じゃあな」と短く言い残し、先に教室へ戻っていった。
その背中が廊下の角を曲がって見えなくなったあとも、唯はしばらくその場から動けなかった。

胸の奥で、何かがすうっと抜け落ちていく。
支えにしていたものを、静かに取り上げられてしまったような感覚だった。

 唯は、遅れてやってきた虚無感に、立ち尽くしたまま呑み込まれていった。
的場の言葉が、頭の中でゆっくりと反響する。
 ――彼女がいる。
 その事実に、胸の奥が一瞬だけ強く沈んだ。同時に、なぜか小さく息をつけるような感覚もあった。何に対しての安堵なのか、自分でもよく分からない。
けれど、思考はすぐに別の方向へと滑っていく。

(……じゃあ、あのノートの相談って)

 交換日記に書かれていた、恋愛の悩み。
あれは、彼女についての話だっただけなのかもしれない。

そう思い至った瞬間、胸の奥で何かが小さく音を立てて崩れた。

 ノートに綴られていた言葉の意味が、ゆっくりと別の形に組み替わっていく。
自分とは関係のないところで続いていた時間を、ただ読み違えていただけだったのかもしれない。

(……そっか)

 まだ何も始まってすらいない。
それでも、はっきりと分かった。

 ――自分は、告白をする前に、もう失恋していたのだ。

 手に持っていたプリントの端が、わずかに震えている。うつむいた視界の中で、文字がぼやけた。
誰もいない教室に、昼休みのざわめきだけが遠くから届く。唯は唇を噛み、こぼれそうになる息を何度か飲み込もうとしたが、うまくいかなかった。
視界が、ゆっくりと滲んでいった。

「……っ」

 小さく息を漏らし、唯は慌てて目元を押さえた。涙は止めようとするほど、静かにあふれてくる。
どうして泣いているのか、自分でもはっきりとは分からない。けれど、胸の奥に残っていた何かが、ようやく形を失っていくのだけは、はっきりと感じていた。

「あれ?唯。もう次、本鈴……」

 予鈴が鳴っても唯の姿が見えず、様子を見に来たのだろう。七音がガラリと教室の扉を開けた。
そして、唯の表情を目にした瞬間、言いかけていた言葉を途中で止める。

「あ、ごめん。今、行くところ」

 唯は震えそうになる唇をぎゅっと噛み、無理に笑顔を作った。けれど、その笑顔は自分でも分かるほど頼りなかった。

「どうした?」

 低く、静かな声。責めるでも、詮索するでもない、ただ心配だけが滲んだ声だった。
その一言が、胸の奥に溜めていた何かを一気に揺らす。
張りつめていた気持ちが、ふっと緩むと、こらえていたはずの涙が、また視界をにじませた。
唯は、慌てて顔を背けようとしたが、うまく動けなかった。

――見られたくない。でも、今は一人で立っていられる自信もない。

 揺れる感情のまま、唯は目元を押さえながら、小さく息をこぼした。
七音は何も言わず、少しだけ距離を詰める。すぐ隣まで来ても、肩に触れることも、無理に顔をのぞき込むこともしなかった。ただ、逃げ場を塞がない位置で立ち止まる。

「……授業、まだ少し時間ある」

 それだけを、静かに言った。
その言葉に、唯はようやく、自分がこのまま少し泣いていてもいいのだと許された気がした。