唯は、焦る気持ちを抑えきれないまま、机の上、鞄の中、教科書の隙間まで、何度も何度も確かめた。だが、あるはずの場所に、あのノートだけがない。
胸の奥は、焦りと悲しみで混濁していた。背中に、嫌な汗がじわりとにじんだ。
「唯?どうした?」
七音の声が聞こえた気がしたが、うまく意識に届かない。
「ノートが……ノートがない」
掠れた声が、ほとんど独り言のようにこぼれる。
「ノート?」
その言葉に反応したのは、七音ではなく、近くにいたクラスメイトの男子だった。
「忘れてきたとか?」
「違うんだ……ここに、確かに置いたんだ。さっきまで、ここに……」
言いながら、もう一度机の中を探る。
分かっている。ないことは、もう分かっている。それでも、手を止めることができなかった。
顔色を失っていく唯のすぐそばで、七音は密かに口元を押さえ、浮かびそうになる笑みを押し殺していたが、誰もその異変には気づかない。
「間違えて、誰か持っていったとか?」
「そんなに大事なやつ?先生に言う?」
心配そうに周囲から声をかけられ、唯は一瞬だけ言葉に詰まった。
先生に言うわけにはいかない。あのノートは、そもそも自分のものではないのだから。
「いや……大丈夫」
そう答えたものの、声は自分でも分かるほど不自然に震えていた。
(もしかして……)
交換日記の相手が、持ち帰ったのかもしれない。
会ってみたい、と書いたあの日から、やり取りは一度ぎこちなくなった。それでも、また以前のように、他愛ない話を交わせるところまで戻ったと思っていたのに。
何がいけなかったのだろう。どこで、間違えたのだろう。
胸の奥が、ゆっくりと冷えていく。
まるで、深い水の中へ少しずつ沈められていくような、逃げ場のない感覚だった。息が浅くなる。
――あのノートがない。
その事実だけが、現実感のない重さとなって、何度も心の中へ落ちていく。
今になって、唯はようやく気づいた。
あのノートが、どれほど自分の支えになっていたのか。
どれほど当たり前に、日常の中で心を救ってくれていたのか。
―――
七音は、その様子を黙って見ていた。
唯が机の中を何度も探り続ける様子を。
鞄の中、机の奥、教科書の隙間。もうそこにはないと分かっていながら、同じ場所を何度も確かめている。
(……そんなに探すんだ)
七音はノートの持ち帰りを決意し、自分の鞄にしまっていた。
何でもない顔で椅子に背を預ける。足元に置いた鞄には、視線すら向けないようにして。
このまま、いつまでも中途半端な距離を続けていても仕方がない。
どちらに転ぶにせよ、そろそろ終わりを決める時期なのだと、七音は思っていた。
もう、交換日記は潮時だ。そう判断しての行動だった。
唯がどんな反応をするのか、七音はそれを確かめたかったわけではない。
自分が選ばれるはずがないと分かっている。
唯にとって自分は、ただのクラスメイトか友達でしかないのだ。
ノートの向こう側にいる「交換日記の相手」が、唯の想い人だと、七音は分かっている。
しかし、この行動が、ここまでの重さを持っていたとは思っていなかった。
ほんの少し、距離を動かすきっかけになる程度のものだと、どこかで軽く考えていた。
それなのに、ノートが消えた事で、こんなにも唯を絶望させるなんて想像していなかった。
けれど、これ以上、ノートの相手を他の男の面影に重ねているかもしれないと思うと、それだけはどうしても耐えられなかった。
文字の中でだけ存在している、もう一人の自分。
整えた言葉で、わずかに取り繕った自分に、唯は惹かれていく。けれどその視線は、現実では別の男――的場へと向けられているように思えてならなかった。
その光景を、このままずっと見続けるのかと思うと、胸の奥が鈍く軋んだ。
正体が自分であると明かして幻滅されるよりは、曖昧なまま、謎のまま終わらせた方がいい。
それでいいと思っていたはずなのに。胸の奥に残るこの感覚だけは、うまく整理できなかった。
「ノートが……ない」
掠れた声が耳に届いた瞬間、胸の奥がわずかに引っかかる。
思っていたより、ずっと深刻な顔をしている。顔色まで変えて、今にも泣きそうな目で机の中を探している姿を見て、七音は小さく息を吐いた。
(……そこまでかよ)
嬉しいはずだった。それだけ、このやり取りが唯にとって大きかった証拠なのだから。
それでも、胸の奥に生まれたのは、手放しの満足感ではなく、言葉にしづらい小さな違和感だった。
唯がノートの相手を的場だと誤解している以上、この感情に行き場はなかった。
七音は、何も言わない。気づいていないふりをして、いつも通りの顔で前を向く。
もう少しだけ、様子を見てからでいい。
七音は、そっと目を伏せた。
―――
唯が教室で青ざめてい居た時だった。
「中川?」
ふいに、低く落ち着いた声が聞こえた。顔を上げると、教室の入口に、別のクラスの的場が立っていた。
「的場くん!的場くん、俺のノート知らない?!」
縋るような勢いで、唯は思わず声を上げる。
「え?ノート?……これか?」
的場は少しだけ首をかしげ、手に持っていた一冊のノートを差し出した。
「昼休みに忘れていったの、これだったが」
唯の勢いに驚いたのか、ずれた眼鏡を指先で直しながら、淡々とした調子で的場が言う。
差し出されたのは、緑化委員の活動記録用のノートだった。
「あ……」
受け取った瞬間、胸の奥が小さく沈む。
「なんだ、中川、あってよかったな」
近くにいたクラスメイトが気軽に声をかけてくる。
「……うん」
唯は短く答えたものの、探していたのは、これではない。本当に見つかってほしかったもう一冊のノートのことを、思わず強く意識してしまう。
忘れ物を届けに来ただけなのか、的場の表情からは、それ以上のことは何も読み取れなかった。
交換日記について、何か知っている様子もない。
いや、ただ知らないふりをしているだけかもしれない。
一瞬そんな考えが頭をよぎる。けれど、クラスメイトたちが周囲で様子を見ているこの状況で、どう切り出していいかが分からない。
的場が文字から連想される人物像にぴたりと重なるというだけで、交換日記の相手だと決めつけるには、あまりにも根拠がない。
それゆえに、交換日記のことを詳しく聞き出すことなどできなかった。
唯は、受け取ったノートを机の上に置きながら、もう一度そっと机の中へ視線を落とす。
チャイムが鳴り響いた。
それを合図に、的場は唯に軽く手を振り、教室を後にする。唯も、周囲のクラスメイトたちと同じように席へ戻ったが、心は落ち着かなかった。
机の上に置いた、緑化委員のノート。唯はゆっくりと、それを開いた。
ページをめくった瞬間、目に飛び込んできた文字に、思わず指が止まる。
――綺麗な文字。
整った筆跡。無駄のない線。何度も、何度も見てきた、あの文字。
「これ……」
喉の奥で、声にならない呟きが漏れる。胸の奥で、心臓が一気に速く打ち始めた。
自分の記録のすぐ後に書き込まれた、丁寧な文章。見間違えるはずがない。何度も見てきた、交換日記の相手と、同じ筆跡だった。
(……この字)
唯は、静かに息を呑む。
(やっぱり的場くんだったんだ)
その考えが、頭の中で一気に現実味を帯びる。唯の中で交換日記の相手が的場なのだと、確信に近い感覚が、胸の内側に広がっていった。
早く、話さなければ。
どうしてノートを持ち帰ったのか。どうして、何も言わなかったのか。
確かめたいことが、次々と浮かんでくる。
授業が終わるのを待つ時間さえ、ひどく長く感じられた。
放課後のチャイムが鳴った瞬間、唯は鞄を掴み、教室を飛び出した。
的場の背中を探すように、廊下を足早に進んでいく。
廊下に出た瞬間、すでに人の流れができていた。部活へ向かう生徒、下校する生徒、教室を移動する生徒。その中に、的場の姿を探す。
さっき微かに見えた後ろ姿、確かにこの方向へ歩いていったはずだった。
「……いない」
思わず、小さく呟く。
足を速めて、角を曲がる。階段の方を覗き込む。それでも、見慣れた背の高い姿はどこにも見当たらなかった。
(そんな、もう……)
胸の奥が、じわりと焦りで満たされていく。
もう少し早く教室を出ていれば。もう少し早く気づいていれば。
人の波に視線を走らせながら、唯は廊下を歩き続けた。けれど、どれだけ探しても、的場の姿は見つからない。
手に持ったままの委員のノートを、無意識に強く握りしめる。
――今、話さなければいけないのに。
そう思えば思うほど、足取りだけが空回りしていった。
やがて、人の流れが少しずつ減り始める。放課後のざわめきが、ゆっくりと静かになっていく。
それでも、的場の姿は、どこにもなかった。
唯は足を止め、小さく息を吐いた。
背後から、不意に声をかけられた。
「……唯?」
振り向くと、そこに立っていたのは七音だった。片手をポケットに入れたまま、少しだけ首を傾げてこちらを見ている。
「まだ帰ってなかったんだ」
何気ない調子の言葉。けれど唯は、どこかほっとしたように肩の力を抜いた。
「……うん、ちょっと」
言いながら、視線が思わず廊下の奥へ向く。
その様子に気づいたのか、七音は小さく笑った。
「誰か探してる?」
その一言に、唯は一瞬だけ迷った。けれど、隠す理由も思いつかず、素直に口を開く。
「的場くん、見なかった?」
その名前を聞いた瞬間、七音の表情がほんのわずかに止まる。けれど、それは一瞬のことで、すぐにいつもの軽い表情へ戻った。
「的場?いや、見てないけど」
肩をすくめるようにして答える七音。唯は小さく「そっか」と呟き、手に持ったノートを見下ろした。
胸の奥は、焦りと悲しみで混濁していた。背中に、嫌な汗がじわりとにじんだ。
「唯?どうした?」
七音の声が聞こえた気がしたが、うまく意識に届かない。
「ノートが……ノートがない」
掠れた声が、ほとんど独り言のようにこぼれる。
「ノート?」
その言葉に反応したのは、七音ではなく、近くにいたクラスメイトの男子だった。
「忘れてきたとか?」
「違うんだ……ここに、確かに置いたんだ。さっきまで、ここに……」
言いながら、もう一度机の中を探る。
分かっている。ないことは、もう分かっている。それでも、手を止めることができなかった。
顔色を失っていく唯のすぐそばで、七音は密かに口元を押さえ、浮かびそうになる笑みを押し殺していたが、誰もその異変には気づかない。
「間違えて、誰か持っていったとか?」
「そんなに大事なやつ?先生に言う?」
心配そうに周囲から声をかけられ、唯は一瞬だけ言葉に詰まった。
先生に言うわけにはいかない。あのノートは、そもそも自分のものではないのだから。
「いや……大丈夫」
そう答えたものの、声は自分でも分かるほど不自然に震えていた。
(もしかして……)
交換日記の相手が、持ち帰ったのかもしれない。
会ってみたい、と書いたあの日から、やり取りは一度ぎこちなくなった。それでも、また以前のように、他愛ない話を交わせるところまで戻ったと思っていたのに。
何がいけなかったのだろう。どこで、間違えたのだろう。
胸の奥が、ゆっくりと冷えていく。
まるで、深い水の中へ少しずつ沈められていくような、逃げ場のない感覚だった。息が浅くなる。
――あのノートがない。
その事実だけが、現実感のない重さとなって、何度も心の中へ落ちていく。
今になって、唯はようやく気づいた。
あのノートが、どれほど自分の支えになっていたのか。
どれほど当たり前に、日常の中で心を救ってくれていたのか。
―――
七音は、その様子を黙って見ていた。
唯が机の中を何度も探り続ける様子を。
鞄の中、机の奥、教科書の隙間。もうそこにはないと分かっていながら、同じ場所を何度も確かめている。
(……そんなに探すんだ)
七音はノートの持ち帰りを決意し、自分の鞄にしまっていた。
何でもない顔で椅子に背を預ける。足元に置いた鞄には、視線すら向けないようにして。
このまま、いつまでも中途半端な距離を続けていても仕方がない。
どちらに転ぶにせよ、そろそろ終わりを決める時期なのだと、七音は思っていた。
もう、交換日記は潮時だ。そう判断しての行動だった。
唯がどんな反応をするのか、七音はそれを確かめたかったわけではない。
自分が選ばれるはずがないと分かっている。
唯にとって自分は、ただのクラスメイトか友達でしかないのだ。
ノートの向こう側にいる「交換日記の相手」が、唯の想い人だと、七音は分かっている。
しかし、この行動が、ここまでの重さを持っていたとは思っていなかった。
ほんの少し、距離を動かすきっかけになる程度のものだと、どこかで軽く考えていた。
それなのに、ノートが消えた事で、こんなにも唯を絶望させるなんて想像していなかった。
けれど、これ以上、ノートの相手を他の男の面影に重ねているかもしれないと思うと、それだけはどうしても耐えられなかった。
文字の中でだけ存在している、もう一人の自分。
整えた言葉で、わずかに取り繕った自分に、唯は惹かれていく。けれどその視線は、現実では別の男――的場へと向けられているように思えてならなかった。
その光景を、このままずっと見続けるのかと思うと、胸の奥が鈍く軋んだ。
正体が自分であると明かして幻滅されるよりは、曖昧なまま、謎のまま終わらせた方がいい。
それでいいと思っていたはずなのに。胸の奥に残るこの感覚だけは、うまく整理できなかった。
「ノートが……ない」
掠れた声が耳に届いた瞬間、胸の奥がわずかに引っかかる。
思っていたより、ずっと深刻な顔をしている。顔色まで変えて、今にも泣きそうな目で机の中を探している姿を見て、七音は小さく息を吐いた。
(……そこまでかよ)
嬉しいはずだった。それだけ、このやり取りが唯にとって大きかった証拠なのだから。
それでも、胸の奥に生まれたのは、手放しの満足感ではなく、言葉にしづらい小さな違和感だった。
唯がノートの相手を的場だと誤解している以上、この感情に行き場はなかった。
七音は、何も言わない。気づいていないふりをして、いつも通りの顔で前を向く。
もう少しだけ、様子を見てからでいい。
七音は、そっと目を伏せた。
―――
唯が教室で青ざめてい居た時だった。
「中川?」
ふいに、低く落ち着いた声が聞こえた。顔を上げると、教室の入口に、別のクラスの的場が立っていた。
「的場くん!的場くん、俺のノート知らない?!」
縋るような勢いで、唯は思わず声を上げる。
「え?ノート?……これか?」
的場は少しだけ首をかしげ、手に持っていた一冊のノートを差し出した。
「昼休みに忘れていったの、これだったが」
唯の勢いに驚いたのか、ずれた眼鏡を指先で直しながら、淡々とした調子で的場が言う。
差し出されたのは、緑化委員の活動記録用のノートだった。
「あ……」
受け取った瞬間、胸の奥が小さく沈む。
「なんだ、中川、あってよかったな」
近くにいたクラスメイトが気軽に声をかけてくる。
「……うん」
唯は短く答えたものの、探していたのは、これではない。本当に見つかってほしかったもう一冊のノートのことを、思わず強く意識してしまう。
忘れ物を届けに来ただけなのか、的場の表情からは、それ以上のことは何も読み取れなかった。
交換日記について、何か知っている様子もない。
いや、ただ知らないふりをしているだけかもしれない。
一瞬そんな考えが頭をよぎる。けれど、クラスメイトたちが周囲で様子を見ているこの状況で、どう切り出していいかが分からない。
的場が文字から連想される人物像にぴたりと重なるというだけで、交換日記の相手だと決めつけるには、あまりにも根拠がない。
それゆえに、交換日記のことを詳しく聞き出すことなどできなかった。
唯は、受け取ったノートを机の上に置きながら、もう一度そっと机の中へ視線を落とす。
チャイムが鳴り響いた。
それを合図に、的場は唯に軽く手を振り、教室を後にする。唯も、周囲のクラスメイトたちと同じように席へ戻ったが、心は落ち着かなかった。
机の上に置いた、緑化委員のノート。唯はゆっくりと、それを開いた。
ページをめくった瞬間、目に飛び込んできた文字に、思わず指が止まる。
――綺麗な文字。
整った筆跡。無駄のない線。何度も、何度も見てきた、あの文字。
「これ……」
喉の奥で、声にならない呟きが漏れる。胸の奥で、心臓が一気に速く打ち始めた。
自分の記録のすぐ後に書き込まれた、丁寧な文章。見間違えるはずがない。何度も見てきた、交換日記の相手と、同じ筆跡だった。
(……この字)
唯は、静かに息を呑む。
(やっぱり的場くんだったんだ)
その考えが、頭の中で一気に現実味を帯びる。唯の中で交換日記の相手が的場なのだと、確信に近い感覚が、胸の内側に広がっていった。
早く、話さなければ。
どうしてノートを持ち帰ったのか。どうして、何も言わなかったのか。
確かめたいことが、次々と浮かんでくる。
授業が終わるのを待つ時間さえ、ひどく長く感じられた。
放課後のチャイムが鳴った瞬間、唯は鞄を掴み、教室を飛び出した。
的場の背中を探すように、廊下を足早に進んでいく。
廊下に出た瞬間、すでに人の流れができていた。部活へ向かう生徒、下校する生徒、教室を移動する生徒。その中に、的場の姿を探す。
さっき微かに見えた後ろ姿、確かにこの方向へ歩いていったはずだった。
「……いない」
思わず、小さく呟く。
足を速めて、角を曲がる。階段の方を覗き込む。それでも、見慣れた背の高い姿はどこにも見当たらなかった。
(そんな、もう……)
胸の奥が、じわりと焦りで満たされていく。
もう少し早く教室を出ていれば。もう少し早く気づいていれば。
人の波に視線を走らせながら、唯は廊下を歩き続けた。けれど、どれだけ探しても、的場の姿は見つからない。
手に持ったままの委員のノートを、無意識に強く握りしめる。
――今、話さなければいけないのに。
そう思えば思うほど、足取りだけが空回りしていった。
やがて、人の流れが少しずつ減り始める。放課後のざわめきが、ゆっくりと静かになっていく。
それでも、的場の姿は、どこにもなかった。
唯は足を止め、小さく息を吐いた。
背後から、不意に声をかけられた。
「……唯?」
振り向くと、そこに立っていたのは七音だった。片手をポケットに入れたまま、少しだけ首を傾げてこちらを見ている。
「まだ帰ってなかったんだ」
何気ない調子の言葉。けれど唯は、どこかほっとしたように肩の力を抜いた。
「……うん、ちょっと」
言いながら、視線が思わず廊下の奥へ向く。
その様子に気づいたのか、七音は小さく笑った。
「誰か探してる?」
その一言に、唯は一瞬だけ迷った。けれど、隠す理由も思いつかず、素直に口を開く。
「的場くん、見なかった?」
その名前を聞いた瞬間、七音の表情がほんのわずかに止まる。けれど、それは一瞬のことで、すぐにいつもの軽い表情へ戻った。
「的場?いや、見てないけど」
肩をすくめるようにして答える七音。唯は小さく「そっか」と呟き、手に持ったノートを見下ろした。
