君のつづる文字に、恋をした

「……誰の?」

 中川唯(なかがわゆい)がそれに気づいたのは、移動教室を終え、教室のざわめきが落ち着き始めた頃だった。
 机の中に入れたはずの教科書を取り出そうとして、見覚えのない重みが指に触れた。
薄いノートだった。

表紙には名前もクラスも書かれていない。
ただ、角がきちんと揃えられていて、乱暴に放り込まれたものではないと分かる置き方をしていた。

 誰かの忘れ物だろうか。
そう思って一度は閉じかけたが、開いたページの文字に、唯は小さく息をのんだ。
 英語の短い文章。
 整いすぎているほど綺麗な字だった。
定規で引いたように揃った行間と、癖のないアルファベット。
黒板の字より、教科書より、ずっと丁寧で――だからこそ、一つだけ紛れたスペルミスが目に入ってしまった。

 直したほうがいいのだろうか。
 余計なお世話だろうか。

ノートを持ち上げ、しばらく迷う。
知らない誰かのものに触れていい理由を、唯は慎重に探す。
けれど、そのまま戻すには、この字はあまりにも誠実だった。

 唯は鞄から小さな付箋を一枚取り出し、間違えた文字だけをそっと書き直した。
名前は書かない。代わりに、ほんの出来心で、ポケットに入れていた小さなシールを一枚、付箋の端に貼る。

 机の奥にノートを戻したあと、胸の奥が、ほんの少しだけざわついた。
 それが、誰かのもとへ戻るまでの、短い出来事で終わるはずだった。

 ――このときの唯は、まだ知らなかった。
たった一枚の付箋と小さなシールが、これから長い時間、自分の日常の一部になっていくことを。