毒小町、宮中にめぐり逢ふ


 *

 紫檀と紫苑は、出掛けていて、念誦堂には、菫子一人だった。

 高階の家から届けてもらった香料と香道具を広げているところだ。大叔母とは、宮中に出仕してから手紙のやり取りを数度していた。尚薬となったこと、調査に協力することなど、言っても構わない範囲で、菫子の状況を伝えていた。隔離や厳しい礼儀作法の教えなど、好ましく思ってはいないが、それが仕方のないことであるとも理解している。決まりとはいえ、菫子を家に置き、衣食住を与えてくれたことには恩を感じている。

「一通り送ってくれたのね」
 香を作り始めたきっかけは、毒の調合の練習からだった。毒を実際に調合する前に、香でその手順を確認するため、だったのだが、やってみると奥が深く、菫子は香そのものに興味を持つようになった。

 今回の香は、この季節に合わせて梅花香(ばいかこう)を作ることにする。香料は、予め粉末にしてあるので、乳鉢と乳棒を手に取って、さっそく香作りを始める。

「まずは沈香(じんこう)を入れ、その半分ほどの甲香(こうこう)、少し減らした丁子(ちょうじ)を」
 菫子は、乳棒でそれらを丁寧に混ぜ合わせる。一種類香料を入れるたびに、香りを確認しながら、調合していく。

「次に少量の、麝香(じゃっこう)甘松(かんしょう)白檀(びゃくだん)薫陸(くんろく)、そして占唐(せんとう)……」

 占唐は、橘に似た香りとも言われている。橘から連想して俊元のことを思い、無意識にため息が零れた。俊元がここに来なくなることを寂しく思っていることに気が付いた。一人は慣れていたはずなのに。菫子は、桜衣の羽織を手に取って抱きしめた。今まで、この羽織があれば、気丈でいられたのに。


 ――あの日のことは、よく覚えている。
 高階の家の念誦堂は、さほど大きくないが、幼い菫子にとっては、とても広いところに思え、寂しさが増した。外には藤の花が咲き誇っていたが、それを愛でる余裕などなかった。

「おかあさま……」
 亡き母を弔うなんて、すぐに出来るはずがない。母は菫子の毒のせいで帰らぬ人になってしまった。苦しい。辛い。自分のせいで。

「ごめんなさい、ごめんなさい」
 謝っても何も答えてはくれない。泣いても泣いても涙は止まらない。もうこのまま儚くなってしまいたいと思う。でも目を閉じても眠りにつくことが出来ない。夜は、菫子を責めるようで、全部飲み込むようで、恐ろしい。

 ある夜、少年がやってきた。十代半ばの桜衣を肩にかけた見たことのない少年で、そっと念誦堂の戸を開けて入ってきた。着物に藤の花がはらりと乗っていた。

「泣いている声が聞こえたんだ。どうしたの? 大丈夫?」
 誰も寄り付かないはずのここに、どうして人が、と思った。毒を持つ菫子に近付こうとする者などいない。優しい言葉をかける者など母以外にいない。だから、これは夢なのだと思った。菫子の作り上げた、都合のいい夢。

「わたしが悪い子だから、おかあさまが儚くなってしまわれたの。わたしが悪い子だから……」
「こんなに悲しんでいる子が、悪い子なはずがないよ」
「でも、わたしは」
「大丈夫、大丈夫」

 少年は、菫子の頭を柔らかく撫でてくれた。本当に菫子に甘く優しい夢だ。こんな風に笑いかけてもらえるなんて。

「こんなに目を腫らして。眠った方がいい」
「夜は、恐ろしいから」
「そうか。でも夜は怖くない。君に寄り添う友になってくれる。怖がらなくていいよ」
「本当に?」
「ああ」

 少年は菫子の背をとん、とん、とん、と手のひらで軽く叩く。その規則正しい手のひらの拍子に誘われるようにして、菫子はゆっくりと眠りに落ちていく。

「俺は、いつか泣き暮れる子がいないような世にしたいと思う。そうなった時は、君をここから連れ出すよ、きっと」
「……んー」
 眠気が迫ってきていて、少年の言葉は、紗がかかったようであまりよく聞こえなかった。

 翌朝、母が亡くなってから初めて、きちんと寝て起きることが出来た。都合のいい夢に救われた、そう思いつつ起き上がったところで、菫子の肩から桜衣の羽織が滑り落ちた。

「えっ……」
 羽織がある。つまり、あれは夢ではなかった。あの少年は菫子の願望などではなく、本当に存在したのだ。

「嘘、そんな……」
 少年は、菫子の頭を撫でていた。髪に触れていた。夢だからと、避けることをしなかった。夢でないのなら。

「ああ……ああああ! いやああああ」
 あの少年を、菫子の毒が殺めてしまった。母と侍女に続いて、心優しい少年までも、殺めてしまったのだ。どうして、どうして……。

 こんな体に生まれたくなかった。大事な人が、自分のせいでいなくなってしまうなんて、そんなこと望んだことなんて、一度もない。どうして、菫子が生きて、あの人たちが死んでしまうのか。おかしいじゃないか。

「ごめんなさい。わたしも、すぐに……」
 箪笥に置いていた懐剣を手に取った。鞘を捨てて、冷たい刃を喉に当てた。その時、母の言葉がすぐ耳元に囁かれた気がした。『幸せになりなさい』と。
 菫子の手には、それ以上力が入らず、懐剣を取り落とした。

「ううっ……うう、おかあさま……」
 喉の奥から這い出るような嗚咽が、堂に響いた。母の言葉を、遺言を果たせないまま死ぬのは、それこそ母を悲しませることのように思えた。最期の望みすら叶えられない娘は、許してもらえないと思った。

 それから、幸せが何かを考えた。でも、いくら考えても、分からなかった。鈍色の着物を身に付け、写経をして心を落ち着かせても、分からない。……でも、不幸せなら、分かる。大事な人を亡くすことは、幸せではない。それが毒なんかで理不尽に奪われるなんて、尚更。

 菫子は、三人の命を奪ったせめてもの罰を、熱した灰押を、体に押し当てた。
「――――っ!」
 焼け爛れた痛みは、菫子の罪とやるべきことを体に刻み付けた。

 それから、菫子は毒にまつわることを必死に勉強した。教本をかき集めて、調べた。実際に調合して、実験を繰り返した。毒を取り込んだ場合、どういう反応になるのか、何が効くのか、教本に書かれたことだけでは、不十分だったのだ。

 菫子は、自身の体が毒であるから、毒で死ぬことはない。だから、自分自身で実験を繰り返した。死なない、というだけで、痛みや苦しみはある。意識を失ったことも何度もある。菫子はそれすらも記録し、まとめていった。次第に毒に耐性が付き、どんな毒も効かなくなっていった。そうしてまとめたのが、あの折り本だ。

「……毒で苦しむのは、わたしだけで、いい」
 誰も毒で死なないように、毒の注意点や対処法をまとめ上げた。まだ足りていないのは分かっている。でも、いつか完成したら、許されたら、死にたいと思っていた。

 帝を救うことが出来たのなら、許されたことになるかもしれないと、そう思った。菫子は、混ぜ続けていた乳棒を止めた。もうとっくに混ざりきっていた。

「幸せに、なってみたかったけれど」
 母の願いだったそれは、いつの間にか菫子自身の願いにもなっていた。でも、その答えは見つからないままだ。

「あんた、幸せになりたいの」
「! あ、紫苑。おかえりなさい」
 紫檀と紫苑が帰ってきていたことに気が付かなかった。戸の開く音くらいしたはずなのに、かなり物思いに耽っていたようだ。

 人を殺めてしまった話をした後も、双子は態度を変えなかった。菫子の毒は無意味だから、どうってことはない、と初めに会った時と同じことを言って、引き続き一緒に念誦堂にいる。

「それ、何?」
 紫檀が菫子の手元を興味深そうにのぞき込んできた。香作りを見るのは初めてなのかもしれない。

「練香を作っているのよ。次は、煤と甘葛(あまづら)を入れて練っていくわ」
「甘葛? あのお菓子に使う蜜でしょ。ここに入れちゃうの」
「香をまとめるために必要なのよ」
 むらがなくなるまでしっかりと練り合わせたら、通常は少量ずつ手に取って丸めていく。物に毒は移らないが、念のため、菫子は短い木製の棒を二本使って、ころころと転がして形を作っていった。

「へえー、面白いじゃない、これ」
「多めに作っているから、一つ作ってみる?」
「やる!」
「僕も」
 紫檀と紫苑の小さな手に、棒で掬い取った練香を乗せた。二人はころころと手のひらで転がして楽しんでいる。

「ねえ、さっきの。あんた、幸せになりたいの?」
「えっ」
 てっきりもうそのことは忘れたのだと思っていたのに、紫苑はまっすぐに菫子を見つめて、改めて問うてきた。

「そう、ね……。でも、幸せが何か分からないのよ」
「幸せねー、お金、恋、友人、夢、とか?」
「仕事、健康、美味しいもの」
 二人の口から次々に『幸せ』が飛び出していたが、菫子にはあまりぴんと来ない。

「そんなにたくさんあるの……?」
「人によって違うんだから、もっともっといっぱいあるでしょ」
「うん」
 人によって違って、たくさんある。やはり、難しいし、分からない。菫子は、出来上がった練香を見て、目を伏せた。もう一回だけ、聞いてみる。

「紫檀と紫苑の幸せって、何?」
「うーん、幸せかー、うーんと、あたしにとっては、楽しいこと!」
「僕は、穏やかなこと。後は、二人一緒にいること」
「あ、それはあたしも!」

 双子は、にこーっと顔を見合わせていた。二人の言った幸せは、さっき言った中には含まれていないように思う。やはり分からない。でも、いいな、とは思った。