一乗家のかわいい花嫁

 早鐘を打つというのは、ああいうことを言うのだろう。自分も人のことを言えた義理ではないが。
「さて、俺は信じてないと言ってもこのままだと気分が悪い。臣が色々と多方面に調べていたし、そろそろ何か報告があるかな」
 あふ、と雪人は欠伸を噛み殺した。
 彼女は緊張していたが意外にもすぐにもすやすやと寝息を立てはじめたのだが、結局自分のほうが緊張して眠れなかった。眠ってしまったら、夢うつつで手を出してしまいそうだったというのもある。
 雪人は千代が起こしに来てくれるまで、もうひと寝入りすることを決め込んだ。

        2

 千代は、母親にずっと『自由に生きなさい』と言われてきた。
 しかし――。
「自由ってなかなか難しいものなのね」
 ほぅと息を吐きながら、千代は無闇に屋敷の中を歩き回っていた。雪人を見送った後、やることもなく身の置き所に困っているのだ。
 一乗家には三人の女中がいる。
 雪人の父――善路の時代から勤めている年嵩のミツヨと、結婚しているため通いでやって来ている桂子、そして千代と同い年のナリだ。
 今朝、できることはないかと厨房へ行ってみたのだが、顔を見せた途端三人にギョッと驚かれ「奥様は朝食までゆっくりしていてください」と問答無用に、台所を押し出された。 やはり、嫁いできたばかりの者が台所に入るというのは、良くなかったかもしれない。
 それであればと昼食後、掃除を手伝おうとして廊下にいたナリに声を掛けたのだが、やはり「奥様はそのようなこと、なさらなくて良いんですよ」「どうかご自由に過ごされてください」と言われてしまった。
 確かに、間取りも何もわかっていない者が手伝うと言ったとて、邪魔にしかならないだろう。
 しかし、大人しく部屋でじっとしてもいられず、こうして屋敷を散策しているのだ。
「えっと、あっちが台所で隣が食堂、それに玄関の奥が応接室……だったかしら」
 私的な部屋は二階にまとめられ、善路がいるのも隣の和館のため、一階の散策は気兼ねなく行えた。
「これが最後の部屋ね。ここは何かしら?」
 念のため扉を叩き反応がないのを確認して、扉を開けた。
 部屋の中を見て、「わあっ」と感嘆の吐息が漏れる。
 壁を覆い隠すほど大きな本棚が、部屋の左右それぞれにあり、本がびっしりと並んでいた。正面には机と座り心地の良さそうな椅子があり、この部屋が書斎だろうことがうかがえた。
 誘われるようにして、ふらりと千代は部屋へと入る。
「すごい……洋書まであるわ」
 本棚に並んだ背表紙は日本語のものもあれば外国語のものもあった。どうやら本の種類に規則性はないらしい。書斎の主は乱読家のようだ。
「本なんて久しぶりに触るわね」
 清須川家にも本棚はあったが、これほどの規模のものではない。それも、父の部屋に置かれていたため、自由に手に取ることもできなかった。
「お父様は、女の人が本を読むのすら嫌がったから……」
 ふと机を見ると、無造作に一冊の本が置かれていた。英語の題字で、どこか見覚えがある。
「イギリスの建築書かしら」
 手にしてまじまじと眺めていると、記憶がよみがえってくる。
「そうだわ。同じ本が学校の図書室にもあったわ」
 当時のことを思い出し、千代の表情は柔らかくなる。
 あの時間は、千代にとって唯一心安まるものだった。
 千代は女学生時代、通っていた学校の図書室で、司書手伝いとしてい働かせてもらっていた。授業が終わり、学生たちが帰りに喫茶店やキネマ館に行こうと言いながら、賑やかに退校していく中、千代はひとり図書室で静かに本を読んでいた。本の整理をしたり、事務仕事をしたりと、それが終わればあとは自由だった。
 意外にも、授業終わりに図書室に来る学生はほぼいなかった。司書の先生は、朝や授業の合間に借りに来る生徒が多いと言っており、皆やはり早く帰りたかったのだろう。
 自分と違って。
「そういえば……一度、誰かと一緒に、暗くなるまで本を探したこともあったかしら」
 あれは誰だっただろうか。もう五年も前のことで、記憶がはっきりとしない。先生だっただろうか。目当ての本を無事に見つけることができ、最後に「ありがとう」と言われたことは今でも覚えている。役に立てたことがとても嬉しかったのだ。
 千代は手にした本をパラパラとめくり、ゆっくりと文字を目で追っていく。
 朗らかな日差しが注ぎ込む暖かな部屋。ページをめくる紙の音と遠くで聞こえる鳥の声。千代はすっかりと久しぶりの本に夢中になっていた。

       ◆

「あら、雪人様。いつもよりお戻りが早いですね」
 空が茜に色付く頃、仕事から帰ってきた雪人を出迎えたのはミツヨだった。
 雪人はミツヨの言葉に決まりの悪そうな顔で、「新婚なんだから早く帰れと、臣に無理矢理会社を追い出されたんだ」と口角を下げて言った。
 ミツヨは「まあ」と雪人の様子に目を丸くしたが、すぐにクスッと小さな微笑を漏らす。
「それで素直に戻ってこられるということは、雪人様も早くお屋敷に戻られたかったというわけですね」
 今まで――特に善路から会社を継いでからは、仕事に心血を注ぎ、付き合っている女性が屋敷を訪ねてきていると連絡しても、忙しいからの一点張りで構おうとしなかったという彼の変化に、ミツヨは喜ぶと一緒に揶揄いも向ける。
 揶揄われていると知りつつも、昔から面倒を見てもらっているミツヨには強く出られず、雪人は口角をさらに下げるばかり。
「それより千代さんは一日どうしていた?」
「奥様ですか。ふふ、もしかすると奥様はじっとしているのが苦手なのかもしれませんね。朝も昼も何か手伝うことはないかと、私達を見つける度に声を掛けてくれていましたよ」
 普通の女ならば、きっとそのようなことは言わないだろう。
 しかし、彼女ならば安易にその場面が想像でき、雪人は小さく頷いた。
「あら、そういえばその奥様が来ませんね……雪人様の帰宅に気づいてないのでしょうか。ちょっと呼びに――」
「ああ、いやいい」