一乗家のかわいい花嫁

 千代は雪人を起こさないよう静かにベッドから出ると、夫婦共用の寝室と続きになっている自室へと向かった。しかし、後ろ手にパタンと戸を閉めた瞬間、へなへなとその場にへたりこんでしまった。
「あー……」と、顔を両手で覆う。
「まさか……初夜のおつとめを果たせなかったなんて。どうしましょう……」
 初夜が済んでいない――つまり、雪人とはまだ本物の夫婦ではないということ。
 やはり、緊張しすぎて呆れられてしまったのか。
 勇一郎とはそのような雰囲気になったことなど一度もなく、正直男女の機微などわからない。
「でも……」
 思い出した昨夜の雪人の温もりに、千代の顔は一瞬で赤くなる。
 自分と違って彼は緊張した様子もなく、石像のようになっていた自分を気遣ってくれる余裕すらあった。
「やっぱり、慣れているのかしら……」
 見目も良くお金もあるときたら、やはり女性には困らないのだろう。であれば、自分のような地味しか取り柄がない女よりも、もっと似合いの者がいただろうに。
「それこそ茜とか……」と言いかけて、首を振り余計な考えを追い出す。
「つ、妻としての役目は果たせなかったけど、それでも私は一乗家の嫁だもの。嫁としては頑張らないと」
 頬を軽く叩き気を引き締める。
 大丈夫だ。自分にできることはあるはずだ。
 千代は素早く身支度を整え終えると、一階の台所へと向かった。

        ◆

 千代が隣の部屋へと姿を消した瞬間、雪人の両目はパチリと開いた。
「……まったく寝た気がしない」
 それもそのはず、寝ようとしても一睡もできなかったのだから。彼の目の下には濃いくまが居座っている。
 ひとりになったベッドで、雪人はごろりと仰向けになる。先ほどまで千代が寝ていた場所に手が触れた。まだ布団に残る彼女の温かさに耳まで熱くなる。
「はぁ……俺もよく耐えたよ」
 閉じたまぶたの裏に思い浮かんだのは、昨夜――初夜の緊張で顔を真っ赤にして見上げてくる千代の姿だった。


『お待たせ、千代さん』
 名前を囁けば、彼女は目をギュッと閉じて、真っ赤な顔をしてカチコチに固まってしまった。
 その姿がとても可愛くて、このままずっと見ておきたいという純粋な気持ちと、夫婦になったのだから遠慮はいらないよなという欲がせめぎ合った。
 首筋に張り付く湿気を帯びた長い髪、風呂上がりだからか、それともこの状況だからか上気する頬、閉じた目元で震えるまつげ。ゴクリと喉がなった。
 千代のすべてが、雪人の欲を強く刺激していた。
 彼女が目を閉じていてくれて良かったと思う。きっと自分の顔は欲に駆られた男の顔をしていたと思うから。そんな顔を見せたら、彼女はきっと貝よりも固くなるだろう。
 自然と彼女の肩に手が伸びていた。が、触れる直前で思いとどまることができた。
『そんなに怯えなくていい。結婚はしたが、無理に君を抱くことはしないから』
 できるだけ優しい声音を出したつもりだ。
『え』と恐る恐るといった様子で、千代は視線を上げた。
 自分では微笑んでいたつもりだったが、上手くできているだろうか。あまり他人に対し微笑むような感情を持ち合わせたことがなく、いつも父や忠臣には冷血漢や能面などと揶揄されていた。
 なるべく彼女を怖がらせたくはなかった。
 今までの様子からして、きっと彼女は自分のことを覚えていない。
 彼女にとって自分はまだ、結婚したばかりの夫というだけの他人なのだから。
 自分の正体を口で言うのは簡単だが、それでもし彼女の記憶の中に自分がいなかったら……想っていたのが自分だけだったとわかったら……やはり躊躇してしまう。
 それに、彼女には自ら思い出してほしかった。
 覚えていてくれた――それだけで彼女の中に確かに自分はいたのだと、この五年の想いも報われる気がしたから。
『そ、そんな不安そうな顔をしなくていい。今夜君を抱けなかったからといって、別れるつもりはないから』
『だっ、抱く……っ』
 顔を先ほどよりもさらに赤くして、羞恥に目を潤ませた彼女を前にして、よく理性がもったなと我ながら自分の理性の強さに感心した。
『俺も君もまだ若いし健康だ。急いで子供を作る必要もないし、そういったことはお互いの気持ちが重なってはじめてするものだと、俺は思っているんだが』
『は、はい……あのっ、ゆ、雪人様がそのように……お、仰るのなら』
 焦りを見せつつも、彼女の纏う空気が先ほどよりも和らいだ。ほっとした。
『寝室もしばらくは別にしよう。この寝室は君の私室から続きになっているし、気兼ねなく使ってくれ』
 雪人はごろんとベッドに横たわる。
『それでは、雪人様はどちらで……』
『俺個人の寝室が別にあるから心配しなくていい。ただ……』
『ただ?』
 ひとりベッドに横になった自分に対し、どうしていいかわからずオロオロする千代を見て少し嗜虐心が疼いた。
 手を伸ばし、彼女の手を引いた。小さな悲鳴と共に、軽々と自分の腕の中に転がり込む彼女。このまま抱き締めてしまいたかったが、思った以上に彼女の顔がいっぱいいっぱいで、そこは自重した。
 だから、せめてと掴んだ手を強く握りしめる。
『それは明日からだ。今夜はせっかくの初夜だし、これくらいは許してくれるか』
 千代は声も出ないといった様子で、ただコクコクと頷いていた。


「いい匂いだったな……彼女」
 彼女の首筋からふわりと香る石鹸の香り。はじめて、女性に対して良い匂いだと思えた。
 きつい香水の香りでも化粧の香りでもない。顔をうずめたくなるような、清らかで甘い香り。同じ石鹸を使っているはずなのに不思議だ。
「それにしても、昨夜の彼女の様子からして、噂はやはりデマだったようだな。元より信じちゃいなかったが」
 男遊びが激しい女であれば、あんなに石像のように固まりはしまい。それに、背中から抱き締めていた時、触れた部分から彼女の鼓動が伝わってきたが、あの速さは演技でどうにかなるものではない。
 フッと、雪人は堪えきれなかったように笑みを漏らした。