彼から返ってきたのは、眉が垂れ下がり、口角が優しげに上がった柔らかな笑み。思わず、食べていた煮豆の咀嚼もそこそこに、ゴクンと飲み込んでしまった。
(この笑みは、ど、どういう風に受け取ればいいのかしら……)
千代の心は戸惑いでいっぱいだった。
なぜ、新郎の笑顔に戸惑わなければいけないのか……それは、一乗家に到着した時、茜に耳打ちされた言葉が原因だった。
屋敷の立派さに、千代がしばらく呆気にとられていた時のこと。
突然茜に『お姉さま、知ってる?』と肩を叩かれた。
『どうしたの、茜』
『私、お姉さまの幸せを壊しちゃいけないって、ずっと黙ってたんだけど……。女学校の友達にお姉さまの結婚のことを話したら、彼女のお兄さまが東京で雪人さんと同じ学校に通っていたようで、色々聞いちゃったの』
茜は眉をひそめていた。
『……色々?』
『そう。たとえば、雪人さんって確かに学校でも優秀だったんだけど、人付き合いに難があるって。ひとりでいるのを好んでいて、特に女の人に対する態度がひどいって……。お家のこともあるし、幾人かの女性と付き合っていたこともあるみたいだけど、どれも気前が良いのは最初だけで、その後は釣った魚に餌をやらないとか』
『そ、そう……』
そういえば、近頃の自由恋愛も結構流行っているんだったか。学生時代からそのような色事とはとんと無縁だった身としては、そう言われてもあまり想像できないが。
『でねっ! そのことで女のほうが何か少しでも文句を言うと、今まで買ってもらったもの全部奪われてそこで終わりなんですって。だから、お姉さまも気を付けてくださいね! 雪人さんの機嫌を損ねないように、なるべく関わらないほうがいいわ。どうせこの結婚も、雪人さんにとっちゃ家のための契約結婚だろうし』
相変わらず痛いところを無邪気についてくる妹だなと、「そうね」と千代は苦笑を返したのだった。
(茜の話をすべて信じたわけじゃないけど……やっぱり、これも魚を釣るための笑みなのかしら)
やはり、花嫁の親族がいる前だからだろうか。であれば、これからどんどんと彼は冷たくなっていくということか。
(でも、元から愛だの恋だのっていう結婚じゃないってわかってたし、そんなに不安はないというか……きっと、機嫌を損ねるほど関わることもないでしょうし)
当初から看病人目当ての結婚という話だったため、元より結婚に恋愛などの色事は期待していなかった。
それは、相手が雪人になっても同じだ。むしろ、歳が近くなった分、よくある普通の契約結婚になった気がする。
彼も、自分とというよりも清須川家と結婚したかったのだろう。横濱に来たばかりならば、清須川家が持つ人脈は魅力的なはずだ。
千代は、ふぅと密かに息を吐き、あれやこれやと考えてしまった余計な思いを追い出し、目の前の膳に集中した。
(うん、美味しいっ)
千代は丁寧に作られたひとつひとつの美味しい料理を、大切に食べ進めた。
その横顔を、雪人がチラチラと見ていたことも知らずに。
◆
そして、つつがなく祝言を終えることができたのだが……。
(こ……っ、こんなに緊張するものだなんて思わなかったわ)
千代の本日最後の役目は、初夜――夜伽である。
先に風呂に入り寝間着を着て待っているのだが、女中に案内された寝室は洋室で、さらに中にあった寝具がはじめて見る『ベッド』というものだった。はじめて尽くしの中で落ち着かずに、千代はベッドの上で正座して、置物のように固まっていることしかできなかった。
「外側もすごいけど、内側もとっても凝った造りなのね」
柔らかな紺色の絨毯敷きに、淡色で描かれた花柄の壁紙、たっぷりとひだの入ったカーテンに、蜜が掛かったようにツヤツヤとした背の高い箪笥。
これから自分はここで暮らすのだと思っても、あまりにも今までの生活と違いすぎて、実感はわかなかった。
清須川家では、千代が住んでいたのは本邸の脇に建てられた、小さな離れだった。母が肺を患った時、『労咳』と思った父が、母を隔離するために作った場所だ。結局は労咳ではなくただの肺病だったのだが。
しかし、母が本邸に戻されることはなかった。
それ以来、離れ母の部屋となり、その後はつきっきりで看病していた千代の部屋となった。一軒屋と言えば聞こえは良いが、女中部屋みたいなものだ。狭く、必要最低限の家具しか置かれておらず、掃除も配膳も自分でやらなければならなかった。
そして、千代の部屋は茜のものになっていた。
だが、千代は離れ暮らしをそう悲観していなかった。むしろ、誰の目もなくひとりで過ごせる時間があるほうが楽だった。
「本を読んでいても咎められなかったし……あ、そうだわ。この家に何か本はあるかしら? 貸してもらえるようお願いできるかしら」
と呟いたところで、部屋のドアがコンコンと叩かれた。
千代の背筋が、弦が切れた弓のようにビンッと反る。
「はい」と返事する声が裏返ってしまった。
ドアがゆっくりと開き、雪人が入ってくる。
結納や祝言の時は綺麗に整えられていた黒髪はしっとりと湿り、毛先は無造作に跳ねている。湯で温まったのか頬がほんのりと上気しており妙に色っぽく、千代は顔を勢いよく逸らした。
ゆっくりと足音が近付いてくる。
ベッドがギッと軋むと一緒に揺れた。
心臓が耳の奥にでもあるかのように、自分の鼓動がうるさかった。
「お待たせ、千代さん」
耳元で聞こえた雪人の艶声に、千代はギュッと目を閉じて、これから行われるであろう初めて経験を想像して、身を固くしたのだった。
【第二章・一乗家の新妻】
1
外がぼんやりと明るくなりはじめた頃、千代は目を覚ました。一瞬見慣れない景色にドキッとするが、そういえば昨日自分は結婚したのだったと思い出す。
千代は隣でまだ寝ている様子の雪人をチラと見やる。こちらに向けた背が規則正しく動いている。
(この笑みは、ど、どういう風に受け取ればいいのかしら……)
千代の心は戸惑いでいっぱいだった。
なぜ、新郎の笑顔に戸惑わなければいけないのか……それは、一乗家に到着した時、茜に耳打ちされた言葉が原因だった。
屋敷の立派さに、千代がしばらく呆気にとられていた時のこと。
突然茜に『お姉さま、知ってる?』と肩を叩かれた。
『どうしたの、茜』
『私、お姉さまの幸せを壊しちゃいけないって、ずっと黙ってたんだけど……。女学校の友達にお姉さまの結婚のことを話したら、彼女のお兄さまが東京で雪人さんと同じ学校に通っていたようで、色々聞いちゃったの』
茜は眉をひそめていた。
『……色々?』
『そう。たとえば、雪人さんって確かに学校でも優秀だったんだけど、人付き合いに難があるって。ひとりでいるのを好んでいて、特に女の人に対する態度がひどいって……。お家のこともあるし、幾人かの女性と付き合っていたこともあるみたいだけど、どれも気前が良いのは最初だけで、その後は釣った魚に餌をやらないとか』
『そ、そう……』
そういえば、近頃の自由恋愛も結構流行っているんだったか。学生時代からそのような色事とはとんと無縁だった身としては、そう言われてもあまり想像できないが。
『でねっ! そのことで女のほうが何か少しでも文句を言うと、今まで買ってもらったもの全部奪われてそこで終わりなんですって。だから、お姉さまも気を付けてくださいね! 雪人さんの機嫌を損ねないように、なるべく関わらないほうがいいわ。どうせこの結婚も、雪人さんにとっちゃ家のための契約結婚だろうし』
相変わらず痛いところを無邪気についてくる妹だなと、「そうね」と千代は苦笑を返したのだった。
(茜の話をすべて信じたわけじゃないけど……やっぱり、これも魚を釣るための笑みなのかしら)
やはり、花嫁の親族がいる前だからだろうか。であれば、これからどんどんと彼は冷たくなっていくということか。
(でも、元から愛だの恋だのっていう結婚じゃないってわかってたし、そんなに不安はないというか……きっと、機嫌を損ねるほど関わることもないでしょうし)
当初から看病人目当ての結婚という話だったため、元より結婚に恋愛などの色事は期待していなかった。
それは、相手が雪人になっても同じだ。むしろ、歳が近くなった分、よくある普通の契約結婚になった気がする。
彼も、自分とというよりも清須川家と結婚したかったのだろう。横濱に来たばかりならば、清須川家が持つ人脈は魅力的なはずだ。
千代は、ふぅと密かに息を吐き、あれやこれやと考えてしまった余計な思いを追い出し、目の前の膳に集中した。
(うん、美味しいっ)
千代は丁寧に作られたひとつひとつの美味しい料理を、大切に食べ進めた。
その横顔を、雪人がチラチラと見ていたことも知らずに。
◆
そして、つつがなく祝言を終えることができたのだが……。
(こ……っ、こんなに緊張するものだなんて思わなかったわ)
千代の本日最後の役目は、初夜――夜伽である。
先に風呂に入り寝間着を着て待っているのだが、女中に案内された寝室は洋室で、さらに中にあった寝具がはじめて見る『ベッド』というものだった。はじめて尽くしの中で落ち着かずに、千代はベッドの上で正座して、置物のように固まっていることしかできなかった。
「外側もすごいけど、内側もとっても凝った造りなのね」
柔らかな紺色の絨毯敷きに、淡色で描かれた花柄の壁紙、たっぷりとひだの入ったカーテンに、蜜が掛かったようにツヤツヤとした背の高い箪笥。
これから自分はここで暮らすのだと思っても、あまりにも今までの生活と違いすぎて、実感はわかなかった。
清須川家では、千代が住んでいたのは本邸の脇に建てられた、小さな離れだった。母が肺を患った時、『労咳』と思った父が、母を隔離するために作った場所だ。結局は労咳ではなくただの肺病だったのだが。
しかし、母が本邸に戻されることはなかった。
それ以来、離れ母の部屋となり、その後はつきっきりで看病していた千代の部屋となった。一軒屋と言えば聞こえは良いが、女中部屋みたいなものだ。狭く、必要最低限の家具しか置かれておらず、掃除も配膳も自分でやらなければならなかった。
そして、千代の部屋は茜のものになっていた。
だが、千代は離れ暮らしをそう悲観していなかった。むしろ、誰の目もなくひとりで過ごせる時間があるほうが楽だった。
「本を読んでいても咎められなかったし……あ、そうだわ。この家に何か本はあるかしら? 貸してもらえるようお願いできるかしら」
と呟いたところで、部屋のドアがコンコンと叩かれた。
千代の背筋が、弦が切れた弓のようにビンッと反る。
「はい」と返事する声が裏返ってしまった。
ドアがゆっくりと開き、雪人が入ってくる。
結納や祝言の時は綺麗に整えられていた黒髪はしっとりと湿り、毛先は無造作に跳ねている。湯で温まったのか頬がほんのりと上気しており妙に色っぽく、千代は顔を勢いよく逸らした。
ゆっくりと足音が近付いてくる。
ベッドがギッと軋むと一緒に揺れた。
心臓が耳の奥にでもあるかのように、自分の鼓動がうるさかった。
「お待たせ、千代さん」
耳元で聞こえた雪人の艶声に、千代はギュッと目を閉じて、これから行われるであろう初めて経験を想像して、身を固くしたのだった。
【第二章・一乗家の新妻】
1
外がぼんやりと明るくなりはじめた頃、千代は目を覚ました。一瞬見慣れない景色にドキッとするが、そういえば昨日自分は結婚したのだったと思い出す。
千代は隣でまだ寝ている様子の雪人をチラと見やる。こちらに向けた背が規則正しく動いている。


