『わかったよ。色々とすまなかったな、仕事もこなしながらで大変だっただろう。三日の休暇を出すから少し休め』
『やった! さっすが社長! 人の扱い方をよくわかってらっしゃるう』
雪人は結納の時、千代を目にした瞬間から噂は嘘だと確信していたため、この再調査は周囲を納得させる証拠を集めるためのようなものだった。
自分ひとりの感情論で否定するより、生の彼女を見てもらった後に証拠を出したほうが説得力も増すというもの。
案の定、父は顎を指で撫でながら「なるほど」とひとりごちていた。
「最初は猫をかぶっているのかと警戒したが、それもしっくりこなかった。彼女の言動は……本心から私を気に掛けるようなものばかりだった」
雪人の口元が緩んだ。
どうだと言わんばかりの表情に、善路の目も大きく見開く。次の瞬間、善路は「ハッ」と眉根を寄せ、堪らないとばかりに声を上げて笑った。
「お前のそんな顔、親ながらはじめて見るな。よっぽど千代さんのことが気に入っているんだな」
雪人は父に大笑され自分の顔が緩んでいることに気付き、手で口元を隠すようにして緩んだ頬を揉んだ。無意識だった。
「お前のその顔だけで、彼女を嫁に選んだ甲斐はあったかな」
「その件については一生感謝しますよ」
清須川家との縁談の話が来たのは本当に偶然だった。だが、そこで千代が相手だったのは、偶然ではなくやはり運命なのだろう。
再び父はクツクツと喉を鳴らして笑っていた。また顔が緩んでいたのかもしれない。気を付けなければ……。
父が「さて」と言った瞬間、彼の顔からは既に笑みは消えていた。
「この噂、実に恣意的なものを感じるな」
部屋の温度がぐんと下がった――気がした。病に伏しているとはいえ、一年前まで会社を引っ張ってきた男だ。本気になった時に纏う空気には、息子の雪人でも未だに唸ってしまうものがある。
「ご安心を。妻を貶めるような噂を流す輩を、このまま放ってはおくことはしませんから」
父が頷いた。
「清須川家……ですか」
「妹が家に残り、姉が嫁に出る家とな。千代さんは、結納金で白無垢だけを誂えたそうだ。箪笥には三枚の着物しか入っていないらしい」
雪人は一瞬だけ目を見開き、次の瞬間には「初耳ですね」と冷たい光を宿す。
「さて、由緒ある横濱の大木は、どの部分まで腐っているのか」
枝か幹か……それとも根からか。
「何かあれば私も力を貸そう。彼女は……千代さんは一乗家の嫁だからな」
善路の千代を気に入ったと同義の予想外な言葉に、雪人は「さすが彼女だ」と嬉しい苦笑を浮かべた。
◆
それから数日後。朝、いつも通り千代が雪人に「いってらっしゃいませ」と告げて一時間後。ちょうど善路に朝の薬を届けに行こうとした時、突然の来客があった。
「こんにちはぁ、お姉さま」
「あ、茜!? どうしたの、急に」
「お姉さまに会いたくて来ちゃった」
一乗家の扉を叩いたのは茜だった。
【第三章・姉と妹】
1
朝の薬を、千代ではなくミツヨが持ってきたことに善路は首を傾げた。
「千代さんは具合でも悪いのか」
千代が薬を持って来なかっただけで、何かあったのではと心配する善路を見て、ミツヨは楽しそうに目を細め、薬を手渡す。
「違いますよ。来客がありまして」
「こんな朝からか? 誰だ」
「奥様の妹さんですよ」
善路は白湯を飲み干し、ミツヨが差し出した盆にコトンと置いた。
「へえ……家に残った妹か」
◆
「急に来るから驚いたわよ。学校は?」
「休んじゃった。お姉さま今頃どうしてるかなって、寂しくなっちゃったの」
玄関の奥にある応接室で、千代は朝から訪ねてきた茜の対応をしていた。
「休んだって……嬉しいけど、お金を出して通わせてもらってるんだから、今度からは休日に訪ねてらっしゃい。それと、前もって連絡はしてね」
茜はごめんなさいと首をすくめていた。
それにしても、わざわざ一乗家まで自分を訪ねてくるとは驚いた。清須川家にいる時は、離れと本邸とで顔を合わせる機会も少なかったが、寂しいからと彼女が離れに来ることはなかったというのに。
「でも、連絡っていっても、一乗のお家には電話なんてないでしょう? うちにはあるけど」
電話線が引かれて三十年近く経つが、未だに電話というものは高価なもので、持つ家は限られている。官公庁や企業など、通信が業務や商売として必要な者達の利用がほぼで、その他は華族や資産家など一部の者達の家にしかなかった。
「気遣ってくれてありがとう。でも、一乗にも電話はあるから安心して」
「え?」
女中部屋の隣に、開け放しだが電話部屋があった。基本的に掛かってきた電話はミツヨ達が受け、取り次いだり伝言を預かっているらしい。
「だけどやっぱり、前もって手紙でお願いね。個人的に電話を使うのは気が引けちゃうもの。お仕事の電話が掛かってくるかもしれないから」
「ね?」と千代が同意を促せば、茜は「今度はそうする」と頷いた。
「……ねえ、茜。お父様の会社のことなんだけど、あなたは何か関わってたりする?」
いきなりの結婚で家をでたため、会社のことが気になっていた。
「会社? 清須川製糸のこと?」
「うん。ほら、書類整理とか本を探したりだとか……お父様に頼まれてない?」
「あっはは! やぁねえ、お姉さまったら。私、まだ学生よ。そんなこと頼まれるわけないじゃない」
千代も母も、確かに目立つ部分ではないが、会社の運営に多少なりとも携わってきた。千代が女学校の図書室で働いていたのも、その結果だ。
千代に対しては、父は学生だろうがまるで構わなかった。言葉を柔らかくして言ったが、本当は父に頼まれたことなどない。自分には、いつも命令だったのだ。
しかし、茜は何も知らないらしい。
それどころか、彼女の言い方では、頼まれ事すらされたことがなさそうだ。
前々から痛いほど理解していたが、父の愛情には姉妹の間で大きな差があったようだ。
『やった! さっすが社長! 人の扱い方をよくわかってらっしゃるう』
雪人は結納の時、千代を目にした瞬間から噂は嘘だと確信していたため、この再調査は周囲を納得させる証拠を集めるためのようなものだった。
自分ひとりの感情論で否定するより、生の彼女を見てもらった後に証拠を出したほうが説得力も増すというもの。
案の定、父は顎を指で撫でながら「なるほど」とひとりごちていた。
「最初は猫をかぶっているのかと警戒したが、それもしっくりこなかった。彼女の言動は……本心から私を気に掛けるようなものばかりだった」
雪人の口元が緩んだ。
どうだと言わんばかりの表情に、善路の目も大きく見開く。次の瞬間、善路は「ハッ」と眉根を寄せ、堪らないとばかりに声を上げて笑った。
「お前のそんな顔、親ながらはじめて見るな。よっぽど千代さんのことが気に入っているんだな」
雪人は父に大笑され自分の顔が緩んでいることに気付き、手で口元を隠すようにして緩んだ頬を揉んだ。無意識だった。
「お前のその顔だけで、彼女を嫁に選んだ甲斐はあったかな」
「その件については一生感謝しますよ」
清須川家との縁談の話が来たのは本当に偶然だった。だが、そこで千代が相手だったのは、偶然ではなくやはり運命なのだろう。
再び父はクツクツと喉を鳴らして笑っていた。また顔が緩んでいたのかもしれない。気を付けなければ……。
父が「さて」と言った瞬間、彼の顔からは既に笑みは消えていた。
「この噂、実に恣意的なものを感じるな」
部屋の温度がぐんと下がった――気がした。病に伏しているとはいえ、一年前まで会社を引っ張ってきた男だ。本気になった時に纏う空気には、息子の雪人でも未だに唸ってしまうものがある。
「ご安心を。妻を貶めるような噂を流す輩を、このまま放ってはおくことはしませんから」
父が頷いた。
「清須川家……ですか」
「妹が家に残り、姉が嫁に出る家とな。千代さんは、結納金で白無垢だけを誂えたそうだ。箪笥には三枚の着物しか入っていないらしい」
雪人は一瞬だけ目を見開き、次の瞬間には「初耳ですね」と冷たい光を宿す。
「さて、由緒ある横濱の大木は、どの部分まで腐っているのか」
枝か幹か……それとも根からか。
「何かあれば私も力を貸そう。彼女は……千代さんは一乗家の嫁だからな」
善路の千代を気に入ったと同義の予想外な言葉に、雪人は「さすが彼女だ」と嬉しい苦笑を浮かべた。
◆
それから数日後。朝、いつも通り千代が雪人に「いってらっしゃいませ」と告げて一時間後。ちょうど善路に朝の薬を届けに行こうとした時、突然の来客があった。
「こんにちはぁ、お姉さま」
「あ、茜!? どうしたの、急に」
「お姉さまに会いたくて来ちゃった」
一乗家の扉を叩いたのは茜だった。
【第三章・姉と妹】
1
朝の薬を、千代ではなくミツヨが持ってきたことに善路は首を傾げた。
「千代さんは具合でも悪いのか」
千代が薬を持って来なかっただけで、何かあったのではと心配する善路を見て、ミツヨは楽しそうに目を細め、薬を手渡す。
「違いますよ。来客がありまして」
「こんな朝からか? 誰だ」
「奥様の妹さんですよ」
善路は白湯を飲み干し、ミツヨが差し出した盆にコトンと置いた。
「へえ……家に残った妹か」
◆
「急に来るから驚いたわよ。学校は?」
「休んじゃった。お姉さま今頃どうしてるかなって、寂しくなっちゃったの」
玄関の奥にある応接室で、千代は朝から訪ねてきた茜の対応をしていた。
「休んだって……嬉しいけど、お金を出して通わせてもらってるんだから、今度からは休日に訪ねてらっしゃい。それと、前もって連絡はしてね」
茜はごめんなさいと首をすくめていた。
それにしても、わざわざ一乗家まで自分を訪ねてくるとは驚いた。清須川家にいる時は、離れと本邸とで顔を合わせる機会も少なかったが、寂しいからと彼女が離れに来ることはなかったというのに。
「でも、連絡っていっても、一乗のお家には電話なんてないでしょう? うちにはあるけど」
電話線が引かれて三十年近く経つが、未だに電話というものは高価なもので、持つ家は限られている。官公庁や企業など、通信が業務や商売として必要な者達の利用がほぼで、その他は華族や資産家など一部の者達の家にしかなかった。
「気遣ってくれてありがとう。でも、一乗にも電話はあるから安心して」
「え?」
女中部屋の隣に、開け放しだが電話部屋があった。基本的に掛かってきた電話はミツヨ達が受け、取り次いだり伝言を預かっているらしい。
「だけどやっぱり、前もって手紙でお願いね。個人的に電話を使うのは気が引けちゃうもの。お仕事の電話が掛かってくるかもしれないから」
「ね?」と千代が同意を促せば、茜は「今度はそうする」と頷いた。
「……ねえ、茜。お父様の会社のことなんだけど、あなたは何か関わってたりする?」
いきなりの結婚で家をでたため、会社のことが気になっていた。
「会社? 清須川製糸のこと?」
「うん。ほら、書類整理とか本を探したりだとか……お父様に頼まれてない?」
「あっはは! やぁねえ、お姉さまったら。私、まだ学生よ。そんなこと頼まれるわけないじゃない」
千代も母も、確かに目立つ部分ではないが、会社の運営に多少なりとも携わってきた。千代が女学校の図書室で働いていたのも、その結果だ。
千代に対しては、父は学生だろうがまるで構わなかった。言葉を柔らかくして言ったが、本当は父に頼まれたことなどない。自分には、いつも命令だったのだ。
しかし、茜は何も知らないらしい。
それどころか、彼女の言い方では、頼まれ事すらされたことがなさそうだ。
前々から痛いほど理解していたが、父の愛情には姉妹の間で大きな差があったようだ。


