一乗家のかわいい花嫁

「っ少し……埃を吸い込んだだけだから問題ない。病の咳ではない」
「ああ、私がお布団を上げ下ろしして埃が立ってしまったんですね。すみません」
「……埃は君のせいじゃないだろう」
「もう少し静かに運ぶべきでした」
「もう結構。大丈夫だ」
 しかし、そう言われても千代は善路の背中をさすり続けた。善路はまだ小さい咳を続けていたから。どうやら止まらないようだ。
 静かだった。
 ただ千代が善路の背中をさする衣擦れの音と、部屋の外で鳥が鳴く涼やかな声が聞こえるのみ。
 いつの間にか、残っていた善路の咳もすっかりと治まっていた。
「随分と慣れた手つきだ」
「ずっと母を看病しておりましたから。母の咳が止まらない時は、こうしてよく背中を撫でたものです」
「看病? 君がか?」
「はい。私が女学校に入った後すぐに母の肺病がわかり、それからは二人離れに移されたため、私が看病しておりました。一年持ちませんでしたけど……」
 善路は「そうか」と呟いただけで、再び二人の間に沈黙が訪れる。
「……袖」
 先に口を開いたのは善路だった。
「袖?」と千代は袖口を見て「ああ」と、今はじめて気付いたとばかりの声を漏らした。
「汚してしまってすまなかった」
「気にされないでください。着物など洗えば良いだけですもの。それに、私の着物は高いものではありませんから、じゃぶじゃぶ洗っても問題ないんですよ」
 チラ、と善路が肩越しに顔だけで振り向く。
「……そういえば、その縞柄は一昨日も着ていた気がするな」
 カッと千代の頬が赤くなった。
「す、すみません、汚いですよね。あっ、でもちゃんと手入れしていますので、く、臭くはないかと……」
 再び「すみません」と千代は恥じ入るような小声で言った。
「他にも着物を持ってきているだろう」
「はい、あと二枚ほど」
 善路が「三枚だけか!?」と眉をひそめた。
「結納金はそれなりに渡したはずだが……それで着物を買わなかったのか」
 千代の顔は俯き、背中をさすっていた手も止まっていた。
「こ、婚礼衣装に使わせていただきました」
「いくら白無垢でも五百円はしないだろう」
 一般的な白無垢は数十円から高くても百円程度だ。
 千代の手がゆっくりと善路の背中から離れる。その手は微かに震えており、善路は気付いたものの、理由を尋ねるようなことはしなかった。ただ、また「そうか」とだけ言うと、脇に置いていた読みかけの本を手に取り、意識を千代から本へと注いでいた。
 咳も治まり、本を捲る音だけが唯一だった。
 千代は読書の邪魔をしないようそろりと立ち上がると、盆を片手に障子を開けた。
 そうして、小声で「失礼しました」と障子を閉めようとした時。
「ありがとう」
 戸の隙間からハッキリと聞こえた。善路のぶっきらぼうな声が。
「また、咳が出た時は背中をさすってくれ。それと……大根と蜂蜜も……」
 隙間からでは善路の表情はわからなかったが、声音に険はもうなかった。
 みるみる、千代の顔に喜色が広がっていく。
「はいっ、喜んで。お義父様!」
 直前まで俯いていたのが嘘のような明るい声音で相槌を打つと、千代は足取り軽く台所へと戻っていった。
 その表情は、台所にいたナリが「何があったんです!?」と目を丸くしてしまうほど、幸せに満ちたものだった。

        ◆

 仕事を終えて帰ってきた雪人を出迎えたのは、千代ではなく父の秘書である実富だった。千代の顔が見られると思って帰ってきた雪人にとって、不服と言える状況であり、さらに「大旦那様がお呼びです」と言われればなおさら口角が下がった。
 父が自分を呼び出すなど、「結婚相手の希望はないか」と聞かれた時以来だった。
 もしかして、今になって千代は嫁にはふさわしくないなどと言うつもりか。
 最近の千代の話を聞けば、父が千代を好ましく思っていないのは確かだった。おそらく千代の噂故だろう。しかし、父は婚前に噂のことは知っていたと思われる。一乗を一代でしがない平民から実業家と言われるまで大きくした人だ。婚約者の情報など事前に調べているに違いなかった。
「今さらなんだ? 別れろとか言うつもりじゃないだろうな」
 当然ながら、彼女と別れるつもりなど毛頭ない。
 雪人は何を言われても『否』と言う覚悟をして、善路の部屋を訪ねたのだが……。


「お前の妻は、清須川千代か?」
「そう……ですけど」
 予想外の質問に素直に『是』と言ってしまった。いや、想定していた言葉ではなかったから肯定しても問題はないのだが。
「突拍子もないことを言うのはやめてください、父さん」
 とは言いつつも、雪人は父の質問の意味に薄々気付いていた。
「彼女は間違いなく俺の妻の清須川千代ですよ。ただ……例の『清須川のチヨ』ではありませんがね」
 父は鼻からふうと強めの息を吐いた。そこには『やはりか』という納得と、『どうして』という猜疑が滲んでいた。
「やはり、父さんもあの噂を知ってたんですね」
「当然だ」と、父の眉がひくりと微動した。
 雪人は腕を組み、背後の障子に背中を預ける。近くに人の気配はない。
「それでも結婚を許したのは、俺を試すためですか」
「馬鹿正直に毒婦を掴むのなら、そこまでの男だと思っただけだ」
「そして、公私共に父さんの息のかかった者達を俺の近くに置く……ですか?」
 父は鼻で笑った。
「馬鹿に会社の舵取りは不可能だからな」
 雪人も片口をつり上げ、自信満々の笑みを返す。
「ご安心ください。彼女は噂の彼女とは別人ですよ」
「ほう、いやにはっきりと言うな。根拠でもあるのか」
 ええ、と雪人は頷いた。
 ちょうど今日、再び噂について調査させていた忠臣から報告があったのだ。


『社長、あの噂についてですけど、実際に千代という女性と会った男を見つけましてね。話を聞くことができました』
 よくやった、と雪人は忠臣を手放しで褒めた。