そう言って雪人に持ってきた本を手渡せば、彼は目を丸くして本と千代とを交互に見つめた。千代が渡したのは、一般的な英和辞書ではなく、英国の保険制度について書かれた英語の本だ。
「その書類、おそらくですけど英国の保険について書かれているものですよね。保険についてですとこちらの本が詳しいですし、翻訳しやすくなっていたかと」
「読めるのか!?」
ガタンッ、と雪人は椅子が揺れるほど動揺を露わにした。瞠目し呆気にとられている。
千代は勢いよく首と手を横に振った。
「いえっ、全部じゃありません。少しわかる程度で……偶然見覚えのある単語が見えたものですから。本については学生の頃に同じものを昔見たことがあって、偶々です」
「学生……」と呻くように呟くと、雪人は口元を押さえ黙り込んでしまった。
「昔……先生のご厚意で図書室のお仕事の手伝いをさせていただきてまして、それで少し」
「昨日……書斎を覗いたら随分と本が綺麗に並べられていたんだが……もしかして、千代がやってくれたのか?」
「あっ、か、勝手をして申し訳ありません。洋書と和書が混在してましたので、探しやすいようにと少し……ご、ご迷惑なら今後は触りませんので……!」
「いや、そんなことは思っていない。むしろ昨日本を探しに行った時、とても探しやすかったから」
「それでしたら良かったです。大したことではなく申し訳ないですが」
ほっと、千代は胸をなで下ろした。
午後は特に時間を持て余す千代は、ミツヨのすすめもあって書斎で読書をして時間を潰すのだが、やはりただ本を読んでいるだけでは後ろめたく、少しでも何か訳に立てればと本棚の整理をすることにしたのだ。
「俺は整理や片付けが苦手だから、千代のこれはとてもすごいと思うよ。できれば、俺にかわってこれからも書斎を管理してくれないか」
「本当ですか! 是非とも!」
「忙しくて、どうしても手が回らなくてね。それに、これからも本探しを手伝ってもらいたいし、君が管理したほうが探しやすいだろうしな……こんな雑用のようなこと頼んで悪いと思うが」
「まったくです! むしろ、嬉しいです……っ」
自分にも役に立てることがあった。
本棚の整理など誰にでもできることだと、父には言われたことがあった。それなのに、こんなにも喜んでもらえるだなんて。
静かに喜びを噛みしめている千代を見て、雪人は目元を和らげた。
「やはり、美しい人は心も美しいんだな」
千代の顔が跳ね上がった。
「うっ、美し……!?」
「あっ」
まさか雪人の口からそのような言葉が出て来るとは思わず、千代の顔は耳まで真っ赤だ。そして千代の顔から、雪人は自分がなんと口走ったのか気付いたようで、同じく口角を引きつらせて頬を赤くした。
いかんともしがたい、むず痒い空気が流れる。
すると、コンコンと戸をノックする音が、二人の間に割って入った。
「雪人様ー、夕食の準備が整いま――」
「すっ、すぐ行く!」
戸の向こうから聞こえたナリの声に被せて、部屋の外にも余裕で聞こえるだろう大声で返事して足早に入り口へと向かった。
「あら、奥様もこちらにいらっしゃったんですね」
「あ、ああ、ちょっとな」
ナリと雪人が何か会話していたが、千代の耳にはまるで届かない。
(き、綺麗って……き、聞き間違いかしら……)
目を閉じれば、先ほどの雪人の顔が思い出される。しまったとばかりの顔をしていた
(すごいって……褒められちゃった……)
自然と頭に手が伸びた。
誰かに頭を撫でられたのはいつぶりだろうか。
頑張れと応援されたことなどあっただろうか。
「……っ」
千代はじんじんとする頬を両手で包み込んだ。
(熱い……)
胸の内側がドクドクと騒がしかった。
◆
「い、いぃい行ってらっしゃいませ、雪人、っさん」
「っあ、ああ、行ってくる……ち、千代」
互いにあらぬ方を向いているため、鞄の受け渡しにことごとく失敗している千代と雪人を、傍らからナリが瞼を重くして眺める。
「……お二人とも何してるんですか」
千代と雪人は「何も!」という異口同音に声を重ね、やっと鞄の受け渡しに成功した。
玄関の扉がパタンと閉まると、千代はふぅと、ひと仕事を終えた感じの息を吐いた。まだ朝もはじまったばかりだというのに。
(な、なんだか昨日から雪人さんの顔を見ると恥ずかしくなっちゃって……どうしたのかしら。初夜の後……よりも、今のほうが恥ずかしいだなんて)
無事に見送りができた千代は、熱くなった顔を手で仰ぎながら台所へと向かう。
その背に、「おっくさまっ!」と独特な抑揚でナリの声が掛かった。跳ねるようにして隣にやって来たナリは、にまにまとニヤついた顔で千代を眺める。
「奥様ぁ~もしかして、雪人様と昨夜仲良しだったんですかぁ~」
「え? 仲良し?」
昨夜は別に何もなかったはずだが。
いつも通り、風呂に入った後は雪人の部屋を訪ね、「おやすみなさい」と挨拶をしてから寝室へと入るのだが、特に挨拶の時に仲良くした覚えもない。違うことと言えば、少し照れくさく、挨拶がいつもより控えめな声になってしまったことくらいか。
「うん?」と天井を眺めて頭に疑問符を浮かべる千代に、ナリが噴き出すようにして笑った。
「あっはは! 奥様ってば本当可愛いですね」
「か、可愛い!?」
その言葉――美しいや可愛い――は、自分への言葉ではなく、すべて妹のための言葉だったのに。昨日から一体なんなのか。
「か、揶揄わないでください、ナリさん」
「揶揄ってませんよ、本心ですもん」
しれっとして言うナリに、千代は気恥ずかしくなり顔を俯ける。
「あたし、実は雪人様が結婚するって聞いた時、本当は嫌だったんです」
思わず千代は足を止めてしまった。あわせて、ナリの足も止まる。
「今まで……っても、一乗家が横濱に来てから雇われたんで、東京にいた頃は知らないですが……何度か雪人様が女性を屋敷に連れてきたことがあったんです」
「そう……なんですか……」
「その書類、おそらくですけど英国の保険について書かれているものですよね。保険についてですとこちらの本が詳しいですし、翻訳しやすくなっていたかと」
「読めるのか!?」
ガタンッ、と雪人は椅子が揺れるほど動揺を露わにした。瞠目し呆気にとられている。
千代は勢いよく首と手を横に振った。
「いえっ、全部じゃありません。少しわかる程度で……偶然見覚えのある単語が見えたものですから。本については学生の頃に同じものを昔見たことがあって、偶々です」
「学生……」と呻くように呟くと、雪人は口元を押さえ黙り込んでしまった。
「昔……先生のご厚意で図書室のお仕事の手伝いをさせていただきてまして、それで少し」
「昨日……書斎を覗いたら随分と本が綺麗に並べられていたんだが……もしかして、千代がやってくれたのか?」
「あっ、か、勝手をして申し訳ありません。洋書と和書が混在してましたので、探しやすいようにと少し……ご、ご迷惑なら今後は触りませんので……!」
「いや、そんなことは思っていない。むしろ昨日本を探しに行った時、とても探しやすかったから」
「それでしたら良かったです。大したことではなく申し訳ないですが」
ほっと、千代は胸をなで下ろした。
午後は特に時間を持て余す千代は、ミツヨのすすめもあって書斎で読書をして時間を潰すのだが、やはりただ本を読んでいるだけでは後ろめたく、少しでも何か訳に立てればと本棚の整理をすることにしたのだ。
「俺は整理や片付けが苦手だから、千代のこれはとてもすごいと思うよ。できれば、俺にかわってこれからも書斎を管理してくれないか」
「本当ですか! 是非とも!」
「忙しくて、どうしても手が回らなくてね。それに、これからも本探しを手伝ってもらいたいし、君が管理したほうが探しやすいだろうしな……こんな雑用のようなこと頼んで悪いと思うが」
「まったくです! むしろ、嬉しいです……っ」
自分にも役に立てることがあった。
本棚の整理など誰にでもできることだと、父には言われたことがあった。それなのに、こんなにも喜んでもらえるだなんて。
静かに喜びを噛みしめている千代を見て、雪人は目元を和らげた。
「やはり、美しい人は心も美しいんだな」
千代の顔が跳ね上がった。
「うっ、美し……!?」
「あっ」
まさか雪人の口からそのような言葉が出て来るとは思わず、千代の顔は耳まで真っ赤だ。そして千代の顔から、雪人は自分がなんと口走ったのか気付いたようで、同じく口角を引きつらせて頬を赤くした。
いかんともしがたい、むず痒い空気が流れる。
すると、コンコンと戸をノックする音が、二人の間に割って入った。
「雪人様ー、夕食の準備が整いま――」
「すっ、すぐ行く!」
戸の向こうから聞こえたナリの声に被せて、部屋の外にも余裕で聞こえるだろう大声で返事して足早に入り口へと向かった。
「あら、奥様もこちらにいらっしゃったんですね」
「あ、ああ、ちょっとな」
ナリと雪人が何か会話していたが、千代の耳にはまるで届かない。
(き、綺麗って……き、聞き間違いかしら……)
目を閉じれば、先ほどの雪人の顔が思い出される。しまったとばかりの顔をしていた
(すごいって……褒められちゃった……)
自然と頭に手が伸びた。
誰かに頭を撫でられたのはいつぶりだろうか。
頑張れと応援されたことなどあっただろうか。
「……っ」
千代はじんじんとする頬を両手で包み込んだ。
(熱い……)
胸の内側がドクドクと騒がしかった。
◆
「い、いぃい行ってらっしゃいませ、雪人、っさん」
「っあ、ああ、行ってくる……ち、千代」
互いにあらぬ方を向いているため、鞄の受け渡しにことごとく失敗している千代と雪人を、傍らからナリが瞼を重くして眺める。
「……お二人とも何してるんですか」
千代と雪人は「何も!」という異口同音に声を重ね、やっと鞄の受け渡しに成功した。
玄関の扉がパタンと閉まると、千代はふぅと、ひと仕事を終えた感じの息を吐いた。まだ朝もはじまったばかりだというのに。
(な、なんだか昨日から雪人さんの顔を見ると恥ずかしくなっちゃって……どうしたのかしら。初夜の後……よりも、今のほうが恥ずかしいだなんて)
無事に見送りができた千代は、熱くなった顔を手で仰ぎながら台所へと向かう。
その背に、「おっくさまっ!」と独特な抑揚でナリの声が掛かった。跳ねるようにして隣にやって来たナリは、にまにまとニヤついた顔で千代を眺める。
「奥様ぁ~もしかして、雪人様と昨夜仲良しだったんですかぁ~」
「え? 仲良し?」
昨夜は別に何もなかったはずだが。
いつも通り、風呂に入った後は雪人の部屋を訪ね、「おやすみなさい」と挨拶をしてから寝室へと入るのだが、特に挨拶の時に仲良くした覚えもない。違うことと言えば、少し照れくさく、挨拶がいつもより控えめな声になってしまったことくらいか。
「うん?」と天井を眺めて頭に疑問符を浮かべる千代に、ナリが噴き出すようにして笑った。
「あっはは! 奥様ってば本当可愛いですね」
「か、可愛い!?」
その言葉――美しいや可愛い――は、自分への言葉ではなく、すべて妹のための言葉だったのに。昨日から一体なんなのか。
「か、揶揄わないでください、ナリさん」
「揶揄ってませんよ、本心ですもん」
しれっとして言うナリに、千代は気恥ずかしくなり顔を俯ける。
「あたし、実は雪人様が結婚するって聞いた時、本当は嫌だったんです」
思わず千代は足を止めてしまった。あわせて、ナリの足も止まる。
「今まで……っても、一乗家が横濱に来てから雇われたんで、東京にいた頃は知らないですが……何度か雪人様が女性を屋敷に連れてきたことがあったんです」
「そう……なんですか……」


