「あ……いえ、欲しいものは特にありませんので、お気持ちだけいただきます。ありがとうございます、お義父様」
肩越しにチラと善路が振り向き、千代は会釈して立ち上がった。長居してほしくなさそうだ。
「それでは夕方のお薬は、ミツヨさんにお願いしますね。ゆっくり休まれてください」
千代は頭を下げると、スッと障子戸を閉め台所へと戻った。
そして戻れば、「どうでした!?」と、大丈夫かと言わんばかりの顔したナリが駆け寄ってきた。
「やっぱり、慣れたミツヨさんにお願いしたいと言われました。ですのでミツヨさん、夕方はお願いします」
「……わかりました」
ミツヨは視線を落として、戻ってきた盆を手にした。
しかし、次の千代の言葉に、ミツヨはパッと顔を跳ね上げる。
「でも、明日の朝はまた私が持っていっても良いですか」
目を瞬かせるミツヨに気付かず、千代は考え込むようにして腕を組みながら「普段お義父様は何をして過ごしてるのかしら」と、ぶつぶつ疑問を口にする。
ミツヨはぷっと吹き出して、「ええ、もちろんです」と嬉しそうに頷いていた。
宣言通り、千代は次の日の朝も善路の部屋を訪ねていた。
入室の声をかけた瞬間、やって来たのがミツヨでないと知った善路の返事には間があった。しかし、彼は追い返すようなことは言わず「ああ」と、ちょっとぶっきらぼうに言っただけだった。
今朝、盆を持っていこうとしたら、ナリに「よく行けますね」と言われた。彼女が、どういった意味で言っているのか理解していた。『よく、拒絶されたのにまた行けますね』といったところか。
昨日の様子を見ても、善路にはやはり距離を置かれているのだろう。
それでも、千代は言われたままに距離を置こうとは思わなかった。ここでこちらからも距離を置いてしまえば、きっと和館に足を踏み入れることもなくなってしまう。それはやはり少々寂しかった。
(それに、病気の時って普通より心が繊細になるものだもの)
母の看病の時も、「出て行け」と似たようなことを言われた覚えがある。後に、本心じゃなかったと謝られたが。
それから、千代は病人の言葉は話半分程度にしか受け取らない。誰でも身体が弱くなれば、心も弱くなるものだ。
善路が薬を飲むのを、千代はまた傍らに正座して待っていた。薬包の粉薬をサラサラと口の中に入れたのを確認し、白湯が入った湯飲みを渡す。
その湯飲みを手にする際も、善路は千代と目を合わせようとしなかった。チラと湯飲みを確認しただけだ。
「ミツヨが……朝の薬は自分は届けないと。これからも君に届けさせると言ってきた」
「はい、お任せください。お義父様」
千代が空になった湯飲みを受け取りながら頷けば、やっと善路は千代を見た。しかし、その視線は好意的とは言えない、瞼を半分、重たそうに下ろしたものだ。
「……一日屋敷にいてさぞ退屈だろう。そろそろ夜遊びでもしたくなってきたんじゃないのか」
千代は首を傾げた。
「退屈……ということはありませんが……元より女学校を卒業してからは家におりましたから。それに、夜に出歩くのは危ないと思うのですが」
珍しく善路がジッと見つめてきた。何かを見定められているような気がして、背中に汗が滲む。何かしてしまったのだろうか。
しかし、彼はそれ以上は会話を続けず、ふいと視線を切ると「用事が済んだらさっさと出て行ってくれ」と布団を被って背を向けて寝てしまった。
コホッコホッと善路が小さく咳き込むたびに、布団の山も揺れている。
千代は盆を持って「失礼します」と静かに部屋を後にした。
◆
千代が部屋を出た後、善路はチラと入り口を確認した。その目つきは眉間に皺を寄せた険しいものだ。
微かな足音が遠ざかって聞こえなくなると、はぁと息を吐く。
「あれが『チヨ』か……」
自分が倒れたことで、思いのほか早く息子の雪人が会社と家の後を継ぐようになってしまった。今までも縁談の話はあったが、雪人が乗り気ではなく本人に任せようと自由にさせていたが、そうも言っていられなくなった。
誰か、雪人を傍で支えてくれる者が必要だと、結婚相手を探しはじめた。
雪人にもどのような妻が良いのかと聞いたが、彼は自分の伴侶を選ぶのだというのに、相変わらず興味がないようだった。彼が唯一つけた条件が、会社の利になるような娘であればいいというもので、少々呆れてしまった。
もしかして、結婚や女性自体に興味がないのではと思い、それならばと事務的に嫁探しを進めた。横濱の知り合いにいい人はいないかと尋ねたら、横濱では名のある会社の娘がいると紹介をうけた。しかし、士族家と聞いて半ば諦めていた。東京にいた時も幾度かあったが、家格を持つ者達は、平民の成り上がりは好ましくないようだ。商業連中の会合からはよく爪弾きにされたものだ。すべて実力で黙らせてきたが。
とまあ、そのような背景があるから期待していなかったのだが、承諾の返事がきてまさかと驚いた。雪人も手紙を見て言葉を失っていた。
しかも、清須川家の長女である『清須川千代』が嫁いでくるというのだから、さらに驚いた。
清須川家には二人の娘がいた。その中で長女を嫁がせるというのは、首を傾げる話だった。一般的には妹を外に出し、長女に婿を迎えさせるというのが通例だ。
その、長女を嫁がせるという話に、何かあるのかと思い実富に千代のことを調べさせた。
そして納得した。
清須川千代は、夜な夜な男遊びに興じるような娘だった。
きっと、清須川家も厄介払いにちょうど良いと思ったのだろう。
「なめられたもんだ」
しかし、正直、清須川家との繋がりは喉から手が出るほどほしかった。士族で大会社経営、しかも聞くところによると、華族家と縁者になることが決まっているのだとか。
肩越しにチラと善路が振り向き、千代は会釈して立ち上がった。長居してほしくなさそうだ。
「それでは夕方のお薬は、ミツヨさんにお願いしますね。ゆっくり休まれてください」
千代は頭を下げると、スッと障子戸を閉め台所へと戻った。
そして戻れば、「どうでした!?」と、大丈夫かと言わんばかりの顔したナリが駆け寄ってきた。
「やっぱり、慣れたミツヨさんにお願いしたいと言われました。ですのでミツヨさん、夕方はお願いします」
「……わかりました」
ミツヨは視線を落として、戻ってきた盆を手にした。
しかし、次の千代の言葉に、ミツヨはパッと顔を跳ね上げる。
「でも、明日の朝はまた私が持っていっても良いですか」
目を瞬かせるミツヨに気付かず、千代は考え込むようにして腕を組みながら「普段お義父様は何をして過ごしてるのかしら」と、ぶつぶつ疑問を口にする。
ミツヨはぷっと吹き出して、「ええ、もちろんです」と嬉しそうに頷いていた。
宣言通り、千代は次の日の朝も善路の部屋を訪ねていた。
入室の声をかけた瞬間、やって来たのがミツヨでないと知った善路の返事には間があった。しかし、彼は追い返すようなことは言わず「ああ」と、ちょっとぶっきらぼうに言っただけだった。
今朝、盆を持っていこうとしたら、ナリに「よく行けますね」と言われた。彼女が、どういった意味で言っているのか理解していた。『よく、拒絶されたのにまた行けますね』といったところか。
昨日の様子を見ても、善路にはやはり距離を置かれているのだろう。
それでも、千代は言われたままに距離を置こうとは思わなかった。ここでこちらからも距離を置いてしまえば、きっと和館に足を踏み入れることもなくなってしまう。それはやはり少々寂しかった。
(それに、病気の時って普通より心が繊細になるものだもの)
母の看病の時も、「出て行け」と似たようなことを言われた覚えがある。後に、本心じゃなかったと謝られたが。
それから、千代は病人の言葉は話半分程度にしか受け取らない。誰でも身体が弱くなれば、心も弱くなるものだ。
善路が薬を飲むのを、千代はまた傍らに正座して待っていた。薬包の粉薬をサラサラと口の中に入れたのを確認し、白湯が入った湯飲みを渡す。
その湯飲みを手にする際も、善路は千代と目を合わせようとしなかった。チラと湯飲みを確認しただけだ。
「ミツヨが……朝の薬は自分は届けないと。これからも君に届けさせると言ってきた」
「はい、お任せください。お義父様」
千代が空になった湯飲みを受け取りながら頷けば、やっと善路は千代を見た。しかし、その視線は好意的とは言えない、瞼を半分、重たそうに下ろしたものだ。
「……一日屋敷にいてさぞ退屈だろう。そろそろ夜遊びでもしたくなってきたんじゃないのか」
千代は首を傾げた。
「退屈……ということはありませんが……元より女学校を卒業してからは家におりましたから。それに、夜に出歩くのは危ないと思うのですが」
珍しく善路がジッと見つめてきた。何かを見定められているような気がして、背中に汗が滲む。何かしてしまったのだろうか。
しかし、彼はそれ以上は会話を続けず、ふいと視線を切ると「用事が済んだらさっさと出て行ってくれ」と布団を被って背を向けて寝てしまった。
コホッコホッと善路が小さく咳き込むたびに、布団の山も揺れている。
千代は盆を持って「失礼します」と静かに部屋を後にした。
◆
千代が部屋を出た後、善路はチラと入り口を確認した。その目つきは眉間に皺を寄せた険しいものだ。
微かな足音が遠ざかって聞こえなくなると、はぁと息を吐く。
「あれが『チヨ』か……」
自分が倒れたことで、思いのほか早く息子の雪人が会社と家の後を継ぐようになってしまった。今までも縁談の話はあったが、雪人が乗り気ではなく本人に任せようと自由にさせていたが、そうも言っていられなくなった。
誰か、雪人を傍で支えてくれる者が必要だと、結婚相手を探しはじめた。
雪人にもどのような妻が良いのかと聞いたが、彼は自分の伴侶を選ぶのだというのに、相変わらず興味がないようだった。彼が唯一つけた条件が、会社の利になるような娘であればいいというもので、少々呆れてしまった。
もしかして、結婚や女性自体に興味がないのではと思い、それならばと事務的に嫁探しを進めた。横濱の知り合いにいい人はいないかと尋ねたら、横濱では名のある会社の娘がいると紹介をうけた。しかし、士族家と聞いて半ば諦めていた。東京にいた時も幾度かあったが、家格を持つ者達は、平民の成り上がりは好ましくないようだ。商業連中の会合からはよく爪弾きにされたものだ。すべて実力で黙らせてきたが。
とまあ、そのような背景があるから期待していなかったのだが、承諾の返事がきてまさかと驚いた。雪人も手紙を見て言葉を失っていた。
しかも、清須川家の長女である『清須川千代』が嫁いでくるというのだから、さらに驚いた。
清須川家には二人の娘がいた。その中で長女を嫁がせるというのは、首を傾げる話だった。一般的には妹を外に出し、長女に婿を迎えさせるというのが通例だ。
その、長女を嫁がせるという話に、何かあるのかと思い実富に千代のことを調べさせた。
そして納得した。
清須川千代は、夜な夜な男遊びに興じるような娘だった。
きっと、清須川家も厄介払いにちょうど良いと思ったのだろう。
「なめられたもんだ」
しかし、正直、清須川家との繋がりは喉から手が出るほどほしかった。士族で大会社経営、しかも聞くところによると、華族家と縁者になることが決まっているのだとか。


