それに比べて、勇一郎はたくさん贈り物をくれるし身なりも良いし、言うことなしだ。
「指くわえて待ってるだけじゃ何も手に入れられないのよ、お嬢ちゃん達」
同級生達が出て行った教室の戸を眺めながら、茜は口角をつり上げ馬鹿にしたように嘲笑した。
皆、自分の生い立ちなど知りもしまい。
地位もお金もいい男も羨望も嫉妬も全部ほしい。
それだけが、自分が『上』の存在だと自覚させてくれるから。
「さて、お姉さまのほうは今頃どんな生活を送ってるのかしら」
死にかけのジジイに嫁がせてやったと思ったら、まさかの手違いで本当の相手が美男子ときたもんだ。しかし、所詮顔だけの成り上がり。金は多少あるようだが、清須川も二井も金には困っていない。
「一乗雪人ね。このあたしに対してあの素っ気ない態度……きっとお姉さまなんて、お飾りの妻って感じで冷遇されてるでしょうね」
美しくもない姉を愛する男なんていない。
勇一郎だとて、簡単に奪えたのだから。彼が、姉のことは元から愛していなかったと言っているのを聞いて笑いが止まらなかった。
「まあ、ジジイが病気なのは本当みたいだし、結局、後妻でなくても世話係としての嫁がほしかったってことでしょ」
結納や祝言の時、雪人が姉をやけに気遣っていたのは、本心がバレて逃げられやしないようにするためだろう。結婚してしまった今はきっとこき使われていることだろう。
金を持った男という生き物は、外の者には善人面をするが、内に入った者に対しては残酷なほど無慈悲だ。自分は嫌というほど、幼い頃からその二面性を間近で見せつけられてきた。
「ああ、そうだ。東京から来たんなら、あの噂を知らない可能性もあるわね」
『清須川家の千代という娘は、男達を誘惑し夜遊びに興じている』――という、噂を。
茜はいやらしくニタリと口端をつり上げた。
「仕方ないわねえ。妹として、義兄さまにはお姉さまのことを隅々まで伝える必要があるものね」
夫婦の間に隠し事は不要だろう。
きっと雪人の目には、自分が悪女に騙されているのを見過ごせない、正義感に満ちた心優しき義妹とでも映るだろう。うん、悪くない。どうせなら、そのまま惚れてくれても構わない。
「あっ、お義兄さまに会いに行くなら服も新調しないと。お父さまか勇一郎さまにおねだりしましょう」
茜は鼻歌を歌いながら教室を出る。人けのない廊下をスキップしながら進む。
「士族に華族ねえ……あはっ、チョッロ!」
金も家も男もすべて自分のものだ。絶対に姉には渡さない。
◆
「お帰りなさいませ、茜様」
清須川の屋敷に帰ると、年若の女中が出迎えた。
年の頃は、家からやっと追い出せた姉と同じくらい。
手に畳んだ洗濯物を持っているところを見ると、父の部屋に片付けに行くところだったのだろう。
「失礼します」と言って仕事に戻ろうとする彼女――紗江子を、「あっ」というひと言で茜は呼び止めた。ビクッと紗江子の肩が跳ねる。
背を向けた紗江子の前へとゆっくりと回り込み、茜は覗き込むように下から顔を近づける。背格好が同じくらいのため覗き込むように顔を近づけると、茜は首を不自然に真横に傾けることになる。にたりと不気味なほど茜の口角がつり上がった。
紗江子の顔が真っ青になる。
「今夜もよろしくね」
「……っあの、このような危ない真似はもう私は……っ。この間のように朝帰りなどされたら、今度こそ私が茜様の身代わりになっているとバレてしまいます」
紗江子は僅かに視線を逸らし、茜を見ないようにしていた。
「ダメよ。まだまだあんたには働いてもらうから。もし、途中で逃げ出そうもんなら、横濱じゃどこの家にも雇ってもらえないようにしてあげる」
綺麗に畳まれていた洗濯物が今は、ぐしゃりと紗江子の腕に抱き潰されている。
「し、しかし……目的通り千代様を家から追い出すことができたのですから、もう……っ」
「満足だろうって?」
小刻みに震えながら紗江子はコクコクと頷く。
「ばぁか。ジジイかと思ってたら美青年なんて、家を奪えたからってそんなの許されないの。だから、うんと夫には嫌われてもらいたいわけ。蔑まれて汚らわしい女だと見下されてほしいの」
紗江子は信じられないものを見るような目で、ようやく茜を視界に入れた。
「じゃあ、今夜もよろしくね、紗・江・子」
にっこりと、茜は周囲の者達を騙してきた綺麗な笑顔を向けた。
紗江子は、奥歯を噛みながらも頷くしかなかった。
4
千代は、雪人から書庫を自由に利用しても良いという許可をもらい喜んだのだが、前回のような失敗――うっかり寝こけて出迎えを忘れる――を繰り返さないために、自重していた。
書斎の本が魅力的なものばかりで、ともすると寝ないにしても夢中になってしまいそうなのだ。
「これじゃ、『吾輩は猫である』の主人みたいだわ。まあ、本に涎は垂らさないけど……多分」
夏目漱石が書いた『吾輩は猫である』の猫の主人は教師であり、彼は学校から帰ると書斎へと入ったまま中々出てこない。家族には勤勉家と思われているが、実際のところ、本を読みながら昼寝をしたりのんべんだらりしているというものだ。
千代は今すぐ書庫に行きたい衝動を抑え、普段女中達がいることの多い台所へと向かった。
「え、奥様ができることですか?」
このまま自由を与えられていたら、間違いなく書庫に入り浸ってしまうという自覚があった。だから、自由を強制的に減らせるような仕事をしたかったのだが、やはりミツヨ達は困った顔をしていた。
「落ち着かないといいますか、私だけ何もせずというのが心苦しくて……」
これは本当だった。
茜が妹になってからは、自分のことだけでなく母の看病までしてきたのだ。母が亡くなってからも、母が担っていた清須川製糸の事務仕事をそのまま千代が引き継いでいた。
「指くわえて待ってるだけじゃ何も手に入れられないのよ、お嬢ちゃん達」
同級生達が出て行った教室の戸を眺めながら、茜は口角をつり上げ馬鹿にしたように嘲笑した。
皆、自分の生い立ちなど知りもしまい。
地位もお金もいい男も羨望も嫉妬も全部ほしい。
それだけが、自分が『上』の存在だと自覚させてくれるから。
「さて、お姉さまのほうは今頃どんな生活を送ってるのかしら」
死にかけのジジイに嫁がせてやったと思ったら、まさかの手違いで本当の相手が美男子ときたもんだ。しかし、所詮顔だけの成り上がり。金は多少あるようだが、清須川も二井も金には困っていない。
「一乗雪人ね。このあたしに対してあの素っ気ない態度……きっとお姉さまなんて、お飾りの妻って感じで冷遇されてるでしょうね」
美しくもない姉を愛する男なんていない。
勇一郎だとて、簡単に奪えたのだから。彼が、姉のことは元から愛していなかったと言っているのを聞いて笑いが止まらなかった。
「まあ、ジジイが病気なのは本当みたいだし、結局、後妻でなくても世話係としての嫁がほしかったってことでしょ」
結納や祝言の時、雪人が姉をやけに気遣っていたのは、本心がバレて逃げられやしないようにするためだろう。結婚してしまった今はきっとこき使われていることだろう。
金を持った男という生き物は、外の者には善人面をするが、内に入った者に対しては残酷なほど無慈悲だ。自分は嫌というほど、幼い頃からその二面性を間近で見せつけられてきた。
「ああ、そうだ。東京から来たんなら、あの噂を知らない可能性もあるわね」
『清須川家の千代という娘は、男達を誘惑し夜遊びに興じている』――という、噂を。
茜はいやらしくニタリと口端をつり上げた。
「仕方ないわねえ。妹として、義兄さまにはお姉さまのことを隅々まで伝える必要があるものね」
夫婦の間に隠し事は不要だろう。
きっと雪人の目には、自分が悪女に騙されているのを見過ごせない、正義感に満ちた心優しき義妹とでも映るだろう。うん、悪くない。どうせなら、そのまま惚れてくれても構わない。
「あっ、お義兄さまに会いに行くなら服も新調しないと。お父さまか勇一郎さまにおねだりしましょう」
茜は鼻歌を歌いながら教室を出る。人けのない廊下をスキップしながら進む。
「士族に華族ねえ……あはっ、チョッロ!」
金も家も男もすべて自分のものだ。絶対に姉には渡さない。
◆
「お帰りなさいませ、茜様」
清須川の屋敷に帰ると、年若の女中が出迎えた。
年の頃は、家からやっと追い出せた姉と同じくらい。
手に畳んだ洗濯物を持っているところを見ると、父の部屋に片付けに行くところだったのだろう。
「失礼します」と言って仕事に戻ろうとする彼女――紗江子を、「あっ」というひと言で茜は呼び止めた。ビクッと紗江子の肩が跳ねる。
背を向けた紗江子の前へとゆっくりと回り込み、茜は覗き込むように下から顔を近づける。背格好が同じくらいのため覗き込むように顔を近づけると、茜は首を不自然に真横に傾けることになる。にたりと不気味なほど茜の口角がつり上がった。
紗江子の顔が真っ青になる。
「今夜もよろしくね」
「……っあの、このような危ない真似はもう私は……っ。この間のように朝帰りなどされたら、今度こそ私が茜様の身代わりになっているとバレてしまいます」
紗江子は僅かに視線を逸らし、茜を見ないようにしていた。
「ダメよ。まだまだあんたには働いてもらうから。もし、途中で逃げ出そうもんなら、横濱じゃどこの家にも雇ってもらえないようにしてあげる」
綺麗に畳まれていた洗濯物が今は、ぐしゃりと紗江子の腕に抱き潰されている。
「し、しかし……目的通り千代様を家から追い出すことができたのですから、もう……っ」
「満足だろうって?」
小刻みに震えながら紗江子はコクコクと頷く。
「ばぁか。ジジイかと思ってたら美青年なんて、家を奪えたからってそんなの許されないの。だから、うんと夫には嫌われてもらいたいわけ。蔑まれて汚らわしい女だと見下されてほしいの」
紗江子は信じられないものを見るような目で、ようやく茜を視界に入れた。
「じゃあ、今夜もよろしくね、紗・江・子」
にっこりと、茜は周囲の者達を騙してきた綺麗な笑顔を向けた。
紗江子は、奥歯を噛みながらも頷くしかなかった。
4
千代は、雪人から書庫を自由に利用しても良いという許可をもらい喜んだのだが、前回のような失敗――うっかり寝こけて出迎えを忘れる――を繰り返さないために、自重していた。
書斎の本が魅力的なものばかりで、ともすると寝ないにしても夢中になってしまいそうなのだ。
「これじゃ、『吾輩は猫である』の主人みたいだわ。まあ、本に涎は垂らさないけど……多分」
夏目漱石が書いた『吾輩は猫である』の猫の主人は教師であり、彼は学校から帰ると書斎へと入ったまま中々出てこない。家族には勤勉家と思われているが、実際のところ、本を読みながら昼寝をしたりのんべんだらりしているというものだ。
千代は今すぐ書庫に行きたい衝動を抑え、普段女中達がいることの多い台所へと向かった。
「え、奥様ができることですか?」
このまま自由を与えられていたら、間違いなく書庫に入り浸ってしまうという自覚があった。だから、自由を強制的に減らせるような仕事をしたかったのだが、やはりミツヨ達は困った顔をしていた。
「落ち着かないといいますか、私だけ何もせずというのが心苦しくて……」
これは本当だった。
茜が妹になってからは、自分のことだけでなく母の看病までしてきたのだ。母が亡くなってからも、母が担っていた清須川製糸の事務仕事をそのまま千代が引き継いでいた。


