一乗家のかわいい花嫁

 千代は目を瞬かせた後、雪人の姿を認めると顔を青くして、床にひれ伏そうとした。しかし、その行動は雪人の手で止められる。
「気にしないでくれ」と、雪人が千代の肩を止めていた。
「千代さん、本が好きか?」
 千代は雪人の質問に首を傾げつつも、はいと答える。
 そうか、と嬉しそうにはにかむ雪人に、千代はドキッと胸を高鳴らせた。
「この部屋は本好きの父が作った書斎で、今は俺が使わせてもらっている。父と俺とで集めた本だが、興味がある本があれば千代さんも使ってくれて構わない」
「い、良いのですか?」
 千代の表情が明るくなる。
「ああ、好きなだけ読むといい」
 清須川では、女が本など読むなと言われ、学校を卒業してからは本には触れられなかったというのに。
「ありがとうございます……! 嬉しいです」
 また本が読める嬉しさに、千代は満面の笑みで感謝を述べれば、雪人はふいとそっぽを向き、ゴホゴホとまたいつぞやのように咳き込んでいた。
 そこで、千代は部屋の入り口にミツヨがいたことに気付いた。
 ミツヨは咳き込む雪人を目を丸くして見つめていた。やはり、病気かと驚いているのだろう。
「あの、雪人様、どこか具合が悪くてらっしゃるのでしょうか」
「い、いや……うん。具合は大丈夫だ」
 ミツヨがぼそりと「具合は……ですか」と呟いていた。
「ん゛んっ……ミツヨさん。片付けは千代さんに手伝ってもらうから、もう戻ってもらって構わない。夕食の準備があるだろう」
 ミツヨを顔だけで振り返った雪人の目は、瞼が重たくなっていた。
 ミツヨは「んふふ」と気持ちの悪い笑みを残して部屋を出て行く。
 足音が遠ざかるのを確認した雪人は、咳払いしながら立ち上がると、千代に手を差し出した。
「さあ、二階へ行こう。着替えを手伝ってくれ」
「はい、雪人様」
 千代がそっと確かめるように手を乗せると、一瞬だが雪人の頬に朱がさす。
「その……できれば様付けじゃなく、普通に呼んでほしいんだが。俺も千代と呼びたいし」
 え、と千代の顔が俯く。距離を縮めるのを早まったかと思ったが、次の瞬間、向けられた彼女の顔を見れば杞憂だった。頬がほのかに赤く染まり、戸惑いはあるものの、はにかんでいる。そして、控えめな声で紡いだ。
「ゆ、雪人……さん」
 雪人の胸の内側がぎゅっと甘く締め付けられる。
「ああ、千代。それじゃあ行こうか」
 雪人は千代の手を握ったまま、二階へと向かった。千代も雪人の手から離れるようなそぶりは見せず、ただ雪人の手に大人しく包まれていた。

        3
 
 女学校での授業が終わった途端、茜の元にわっと同級生の少女達が押し寄せた。机を取り囲み、キャッキャと好奇に満ちた目を向けている。
「ねえ、清須川さん。あなた、二井家の方と婚約したんですって?」
「しかも、恋愛なんですって? ねえ、どっちから告白したの」
 華族や士族、老舗の子女が通う学校だが、やはり十五、六歳の少女達にとって婚約という言葉は魅了的な響きがあった。特にそれが家が勝手に決めた政略的なものではなく、昨今の流行である恋愛による婚約となれば一層だった。
 茜は頬を赤くして、恥じらうように微笑んだ。
「そうなんです。実は以前、勇一郎さまが家を訪ねてこられたことがあって、その時に私のことを良いなって思ってくださったようで」
 少女達の黄色い悲鳴が大きくなる。
「それって一目惚れっていうんじゃなくて!」
「素敵」と少女達に羨望のまなざしを向けられ、茜は「そんな」と言いつつもまんざらでもなさそうに視線を伏せる。
「じゃあ、清須川さんは二井家に嫁ぐの?」
「いいえ、勇一郎さまが清須川に入って、うちの会社を継いでくださるの」
「あら、清須川さんってお姉さんがいなかった? お姉さんが家に残るんじゃないの?」
「姉はこの間結婚して、家を出たから」
 存外どこの家の誰が結婚しただの、高位華族家の結婚くらいしか噂にならないものだ。ただしそれなりにやはり興味はある。少女達の目が「どこの家?」と茜に尋ねていた。
「一乗っていうお家なんですけど」
「一乗? 聞かないけど……清須川さんと同じ士族のお家?」
「その……最近事業のために横濱に来られたお家で……」
 皆が「あ~」と意味ありげな声を漏らした。士族とも華族とも言わないということは成り上がりだろうと、暗黙の了解で目配せし合っていた。
 その様子を見て、茜は内心でほくそ笑んだ。
「よかったわね、清須川さん。あなた美人だから二井様に見初められたのよ。じゃなきゃ、普通は妹が嫁ぐものだし」
「そんな、姉も綺麗ですよ。ただ、勇一郎さまが選んだのが私だっただけで……」
「まあっ優しい!」
「じゃあ、清須川さんは将来の清須川製糸の社長夫人で、子爵家とは親族になるのね。全部手に入れてすごいわ」
 うらやましいの大合唱が巻き起こる。
「今度、私たちにも是非婚約者の方を紹介してね」と少女達は羨望と値踏み半々といった表情で別れを告げると、そそくさと教室を出て行った。
 ひとりになった教室で、茜は顔に貼り付けていた温厚な笑みを剥がすと、堪えきれないとばかりに両手で顔を覆って吹き出した。
「はぁぁぁぁっ……きっもちぃ~っ!」
 羨望の奥に隠れた嫉妬のまなざしが心地よかった。普段士族だと下に見ていた華族の令嬢すら、笑顔の下で歯噛みしていた。
「生まれながらのご令嬢達が、このあたしに……っ、このあたしに嫉妬してるんだもの。最っ高! はぁ……美しい上に家も士族。しかも清須川製糸なんていう大きな会社もあってお金には困らないし未来の社長夫人。さらに勇一郎との結婚で華族の親族になるなんて、本っ当、私って周りがほしがるもん全部持ってんじゃない? あはっ!」
 茜は、椅子の背もたれから仰け反るようにしてケラケラと笑った。
 二井家の爵位は子爵だが、それがなんだ。華族といっても名ばかりで実態は困窮しているような家は多い。同級生の中にも、無理して学校に通っていると思われる華族令嬢はいる。