伊織が宮中を歩いていると、なんだか騒がしい。騒がしさの中から、聞いたことのある声が聞こえた。
「何してんのよ!琳‼︎」
「すっ、すみません…!」
紅葉と琳だ。なにやら琳が、紅葉にぶつかった拍子に水をかけてしまったらしい。
「紅葉様、それくらいで…琳様は昨日あまり寝られず少々ご気分が悪く…」
琳の侍女が自分の主人を庇うべく、紅葉をなだめる。逆にそれが紅葉の神経を逆撫でた。
「だから、身分の低い人間は嫌なのよ!鈍臭いったら!いつも誰かに庇ってもらってばっかりね‼︎」
「…っ!」
周りの宮中に仕える侍女たちが狼狽えている。琳は俯いた。
「そこまで言わなくても良いんじゃないですか?」
伊織が間に入り、口を挟む。紅葉はキッと伊織を睨んだ。
「何よ新人!琳がぼぉっとしてるのが悪いんでしょ‼︎」
「だとしても言い過ぎです。」
紅葉が強く言うも、怯まない伊織。少し背の高い紅葉に負けないように、しゃんと背を伸ばす。
「あんた、生意気よ。」
声低く紅葉が言った。
「身分身分と縋っているのは紅葉様なのでは?」
伊織がそう言うと、紅葉がカッと顔を赤くした。
「なんなのよ!あんた!」
紅葉が手を振り上げた。侍女たちが小さく悲鳴を上げる。自分が避けると、琳や琳の侍女に当たる、そう思い伊織は咄嗟に目を瞑った。だが、想像していた衝撃が来ない。伊織は、薄く目を開く。
「やめないか。」
「君景様…」
伊織がつぶやいた。振りおろそうとしていた紅葉の腕を君景が後ろから掴んでいる。
「君景様っ‼︎」
紅葉は驚いた顔で振り返った。
「戦から帰ってきてみれば、なんなんだ、この騒ぎは。紅葉様、俺の大切な人に手をあげるようなことはやめてくれ。」
心底迷惑そうな顔で、君景が言った。
「あっ、あたしは君景様の妃候補として…他の妃候補の教育を…!」
「俺は頼んでいない。」
紅葉の言葉に冷たく返す君景。ハッとした顔をして黙る紅葉。侍女たちがコソコソと濡れた床を片付ける。侍女の1人が、紅葉の濡れた服にそっと布をあてた。パシッとその布を紅葉が払う。伊織たちへの怒りと君景への恐ろしさで、手が震えている。
「っ…!失礼します!」
ギリ…と悔しそうに歯を食いしばり、紅葉は去っていった。
「琳様、あなたも戻ってください。」
君景が冷たく言うと、侍女が支えるようにして琳を連れて行こうとする。
「自分で…」
琳がそういうと、侍女は荷物を持ち、先に琳の自室へ向かった。
「伊織様…ありがとうございました…」
琳が頭を下げ、その場を去る。侍女たちも各々の場所に戻ったのか、君景と伊織だけになった。君景が伊織を見る。
「伊織、大丈夫だったか?」
「君影様…」
「間に合ってよかった…君に何かあったらと思ったら…‼︎」
震える声。伊織は強く抱きしめられた。
「大丈夫です。君景様の呪いを解くまで、私は絶対に君景様から離れませんよ。」
「伊織…」
見つめ合う2人。それを琳は物陰からこっそり見ていたのだった。
「伊織様…」
翌日、伊織の部屋に琳が訪ねてきた。
「琳様?どうかしましたか?」
「あの…先日はありがとうございました。お礼をしたくて…」
琳が差し出したのは、西洋の菓子だった。
「こんな良いもの…よければ、お茶を用意しますので、一緒に食べませんか?」
「いいのですか?」
琳がうれしそうな顔をした。
「えぇ、ぜひ。」
伊織は自分の部屋に琳を招き入れた。
「私、西洋のお菓子なんて初めて食べました…美味しい。」
ほぅ…と感動しながら、伊織が言った。
「気に入っていただけて、良かったです。これは、友人が好きだったので…」
「友人?」
「えぇ…紫乃という…」
「…紫乃…」
その名前を聞いた瞬間、伊織が動揺する。バクバクと騒がしい心音を菓子と一緒に飲み込んだ。ごくりと喉が鳴る。琳が不思議そうに伊織を見た。
「伊織様?」
「あ、あぁ…その方は、宮中にいらっしゃるのですか?」
その質問に、琳が悲しそうな顔をする。小さく首を振った。
「いえ、亡くなっておりまして…」
「それは…」
気まずい空気が流れる。琳もその空気に気付き、話題を探すようにキョロキョロと部屋を見渡した。
「あ、あれは?伊織様の和歌でしょうか?」
文机を指さす。そこには1枚の紙が置いてあった。
「いえ…えっと…とある人からいただいた和歌が…内容が分からないところがあって…普段は手に取るように分かるのですが…」
伊織が、和歌の書いてある紙をそっと持ち、畳もうとする。
「見せていただいても?」
「あ…えぇ…」
伊織の手元を覗く琳。
『取り合う手
愛らし頬は
柰の如し
逢わせまほし
縁を織りなす』
琳はその和歌をジッと見てから納得するように頷いた。
「これは簡単でございます。」
琳がそう言う。
「え?」
「柰は花梨のことでございます。西洋には花言葉というものがあり、花梨の花言葉は『唯一の恋』。また花梨はお金を借りん、という裕福を指す縁起物のひとつです。取り合う手、愛らしいという言葉を使っていることも考えると、つまりこの和歌は、裕福な方との恋に夢中な様を詠んだのではないでしょうか?」
ぺらぺらと説明する琳に、目をぱちくりさせる伊織。伊織の驚いた様子に、琳が不思議そうにする。
「…すごい!柰が花梨のこととは知りませんでした!それに西洋のことも詳しいなんて…花言葉、なるほど!琳様は聡明だと聞いていたけど、本当に物知りで聡明なのね!」
「いえ、そんな…わたしは和歌を汲み取ることが出来ても伊織様のように詠む、ということが得意ではないので…」
はしゃぐように褒める伊織、赤くなって謙遜する琳。
「それに考えも商人よりで…貴族の方のような優美な感性に欠ける、とよく言われます。」
困ったような…悲しげに笑う琳。
「琳様の聡明さは宮中に絶対必要です‼︎私、まだ宮中に来て、日も浅く、勉強することがいっぱいあって…。よければ、色々教えていただけませんか⁉︎」
「わっ、わたしが…⁉︎」
琳の目が丸くなる。伊織が琳の手をとった。
「えぇ!私たち、仲良くなれると思うんです‼︎」
伊織が、ぎゅっと琳の手を握った。琳は目を逸らした。手が震えている。
「あっ、失礼しました!痛かったですか?」
伊織が琳の顔を覗き込んだ。
「あ…いえ…」
きゅっと控えめに琳が、伊織の手を握り返す。
「わたしでよければ…」
頬を染めはにかむ琳に、うれしそうな顔をする伊織。手を取り合い微笑みあう2人は少女のようだ。
「私のことは伊織、と呼んでください。」
「伊織…わたしのことは琳と呼んでいただけたら…話し方も堅苦しいものではなくて大丈夫ですよ。わたしはこの話し方が癖なだけですから。」
「…!ありがとう!本当は宮中でずっと敬語で緊張しちゃってたの!」
「まぁ!ふふふ…」
琳は、伊織の砕けた様子をみて、ころころと笑った。
琳が帰った後、自室にも関わらず、伊織は緊張していた。
「…」
黙ったままの君景。これまで見た中でも1番と言っていいほど、機嫌が悪い。伊織がお茶の用意をする些細なカチャカチャという音さえ、部屋に響く。沈黙に耐えきれず、伊織が口を開く。
「君景様、」
「伊織はあのように笑うのだな。」
伊織の言葉を遮るように、君景は言った。
「は…?」
「廊下まで君たちの楽しそうな声が聞こえていた。」
ぶすっとした顔でそう言う君景に、呆気に取られる伊織。先ほどまで伊織は、友人になった琳と話していたのだ。琳は博識ゆえに話が面白く、伊織は夢中になって話を聞き、ケラケラ笑っていた。そこに君景が訪ねてきたため、琳が急いで帰ったのだ。そのときに廊下で聞いた笑い声に、君景は怒っているらしい。
「品のない笑い方でしたでしょうか…すみません…。」
「そんなこと言っていない。」
見当違いの返事をする伊織に、苛立ちをあらわにする君景。
「俺は伊織に全てをさらけ出しているというのに…伊織があんなに楽しげに笑っているの、見たことなかったぞ…」
「それって…」
君景は自分が見たことのない伊織の姿を知って、やきもちを焼いているのだ。
「そんな…それでそんなふてくされているのですか…?えぇ…?…ふふふっ!」
「笑い事じゃないっ!」
「笑い事ですよ!だって!君景様ともあろうお方が、私の知らないところがあったからって拗ねてるのが意外すぎて!」
「笑いすぎだろう!」
どんどん笑い声が大きくなる伊織。意地になった君景は、反論するために、伊織に近づこうとして、勢いをつけすぎた。
「あっ!」
「きゃっ⁉︎」
君景が伊織に覆い被さるように倒れこんだ。伊織は身体の大きい君景を受け止めきれず、仰向けに床に倒れる。ギリギリのところで君景は手をついていた。
「「…」」
至近距離で見つめ合う2人。君景がそのまま伊織を抱きしめた。
「こ…転ぶなんて君景様らしくないですね…。」
伊織がそう言うと、君景は抱きしめる腕に力を入れた。
「そうだ、全部全部らしくない。鬼のようだと言われる俺が…こんなにも情けなく君に心を動かされてるんだ…。」
抱きしめた腕に力を入れたまま、伊織ごと起き上がる君景。そのまま伊織を膝に座らせた。
「君景様⁉︎恥ずかしいです‼︎」
伊織が君景の膝からおりようとするも、お腹に腕をまわされておりられない。
「ははっ!仕返しだ!たまには伊織が心乱すところを見るのもいいな!」
楽しそうに君景が笑う。
「もう!」
伊織が少し怒ったような顔をすると、君景は笑いながら伊織の髪を撫でた。
「君景、と呼んでくれないか?堅苦しい話し方もしなくていい。」
「それは不敬です。」
「誰でもない俺が言っているのにか?」
「…2人のときだけなら。…君景。」
「その照れ顔を見れるのは俺だけだということか。」
君景が満足げにニヤリと笑った。この状況にか、その笑顔にか、伊織は顔が熱くなり、真っ赤に頬を染めるのだった。
―――この2人の出会いは、因果なのか運命なのか。不幸がなければ、伊織と君景の世界は交わらなかった。2人の行く末はどのような景色が広がっているのか。幸せな時間にも関わらず、時は非情にも進んでいくのだった。
「何してんのよ!琳‼︎」
「すっ、すみません…!」
紅葉と琳だ。なにやら琳が、紅葉にぶつかった拍子に水をかけてしまったらしい。
「紅葉様、それくらいで…琳様は昨日あまり寝られず少々ご気分が悪く…」
琳の侍女が自分の主人を庇うべく、紅葉をなだめる。逆にそれが紅葉の神経を逆撫でた。
「だから、身分の低い人間は嫌なのよ!鈍臭いったら!いつも誰かに庇ってもらってばっかりね‼︎」
「…っ!」
周りの宮中に仕える侍女たちが狼狽えている。琳は俯いた。
「そこまで言わなくても良いんじゃないですか?」
伊織が間に入り、口を挟む。紅葉はキッと伊織を睨んだ。
「何よ新人!琳がぼぉっとしてるのが悪いんでしょ‼︎」
「だとしても言い過ぎです。」
紅葉が強く言うも、怯まない伊織。少し背の高い紅葉に負けないように、しゃんと背を伸ばす。
「あんた、生意気よ。」
声低く紅葉が言った。
「身分身分と縋っているのは紅葉様なのでは?」
伊織がそう言うと、紅葉がカッと顔を赤くした。
「なんなのよ!あんた!」
紅葉が手を振り上げた。侍女たちが小さく悲鳴を上げる。自分が避けると、琳や琳の侍女に当たる、そう思い伊織は咄嗟に目を瞑った。だが、想像していた衝撃が来ない。伊織は、薄く目を開く。
「やめないか。」
「君景様…」
伊織がつぶやいた。振りおろそうとしていた紅葉の腕を君景が後ろから掴んでいる。
「君景様っ‼︎」
紅葉は驚いた顔で振り返った。
「戦から帰ってきてみれば、なんなんだ、この騒ぎは。紅葉様、俺の大切な人に手をあげるようなことはやめてくれ。」
心底迷惑そうな顔で、君景が言った。
「あっ、あたしは君景様の妃候補として…他の妃候補の教育を…!」
「俺は頼んでいない。」
紅葉の言葉に冷たく返す君景。ハッとした顔をして黙る紅葉。侍女たちがコソコソと濡れた床を片付ける。侍女の1人が、紅葉の濡れた服にそっと布をあてた。パシッとその布を紅葉が払う。伊織たちへの怒りと君景への恐ろしさで、手が震えている。
「っ…!失礼します!」
ギリ…と悔しそうに歯を食いしばり、紅葉は去っていった。
「琳様、あなたも戻ってください。」
君景が冷たく言うと、侍女が支えるようにして琳を連れて行こうとする。
「自分で…」
琳がそういうと、侍女は荷物を持ち、先に琳の自室へ向かった。
「伊織様…ありがとうございました…」
琳が頭を下げ、その場を去る。侍女たちも各々の場所に戻ったのか、君景と伊織だけになった。君景が伊織を見る。
「伊織、大丈夫だったか?」
「君影様…」
「間に合ってよかった…君に何かあったらと思ったら…‼︎」
震える声。伊織は強く抱きしめられた。
「大丈夫です。君景様の呪いを解くまで、私は絶対に君景様から離れませんよ。」
「伊織…」
見つめ合う2人。それを琳は物陰からこっそり見ていたのだった。
「伊織様…」
翌日、伊織の部屋に琳が訪ねてきた。
「琳様?どうかしましたか?」
「あの…先日はありがとうございました。お礼をしたくて…」
琳が差し出したのは、西洋の菓子だった。
「こんな良いもの…よければ、お茶を用意しますので、一緒に食べませんか?」
「いいのですか?」
琳がうれしそうな顔をした。
「えぇ、ぜひ。」
伊織は自分の部屋に琳を招き入れた。
「私、西洋のお菓子なんて初めて食べました…美味しい。」
ほぅ…と感動しながら、伊織が言った。
「気に入っていただけて、良かったです。これは、友人が好きだったので…」
「友人?」
「えぇ…紫乃という…」
「…紫乃…」
その名前を聞いた瞬間、伊織が動揺する。バクバクと騒がしい心音を菓子と一緒に飲み込んだ。ごくりと喉が鳴る。琳が不思議そうに伊織を見た。
「伊織様?」
「あ、あぁ…その方は、宮中にいらっしゃるのですか?」
その質問に、琳が悲しそうな顔をする。小さく首を振った。
「いえ、亡くなっておりまして…」
「それは…」
気まずい空気が流れる。琳もその空気に気付き、話題を探すようにキョロキョロと部屋を見渡した。
「あ、あれは?伊織様の和歌でしょうか?」
文机を指さす。そこには1枚の紙が置いてあった。
「いえ…えっと…とある人からいただいた和歌が…内容が分からないところがあって…普段は手に取るように分かるのですが…」
伊織が、和歌の書いてある紙をそっと持ち、畳もうとする。
「見せていただいても?」
「あ…えぇ…」
伊織の手元を覗く琳。
『取り合う手
愛らし頬は
柰の如し
逢わせまほし
縁を織りなす』
琳はその和歌をジッと見てから納得するように頷いた。
「これは簡単でございます。」
琳がそう言う。
「え?」
「柰は花梨のことでございます。西洋には花言葉というものがあり、花梨の花言葉は『唯一の恋』。また花梨はお金を借りん、という裕福を指す縁起物のひとつです。取り合う手、愛らしいという言葉を使っていることも考えると、つまりこの和歌は、裕福な方との恋に夢中な様を詠んだのではないでしょうか?」
ぺらぺらと説明する琳に、目をぱちくりさせる伊織。伊織の驚いた様子に、琳が不思議そうにする。
「…すごい!柰が花梨のこととは知りませんでした!それに西洋のことも詳しいなんて…花言葉、なるほど!琳様は聡明だと聞いていたけど、本当に物知りで聡明なのね!」
「いえ、そんな…わたしは和歌を汲み取ることが出来ても伊織様のように詠む、ということが得意ではないので…」
はしゃぐように褒める伊織、赤くなって謙遜する琳。
「それに考えも商人よりで…貴族の方のような優美な感性に欠ける、とよく言われます。」
困ったような…悲しげに笑う琳。
「琳様の聡明さは宮中に絶対必要です‼︎私、まだ宮中に来て、日も浅く、勉強することがいっぱいあって…。よければ、色々教えていただけませんか⁉︎」
「わっ、わたしが…⁉︎」
琳の目が丸くなる。伊織が琳の手をとった。
「えぇ!私たち、仲良くなれると思うんです‼︎」
伊織が、ぎゅっと琳の手を握った。琳は目を逸らした。手が震えている。
「あっ、失礼しました!痛かったですか?」
伊織が琳の顔を覗き込んだ。
「あ…いえ…」
きゅっと控えめに琳が、伊織の手を握り返す。
「わたしでよければ…」
頬を染めはにかむ琳に、うれしそうな顔をする伊織。手を取り合い微笑みあう2人は少女のようだ。
「私のことは伊織、と呼んでください。」
「伊織…わたしのことは琳と呼んでいただけたら…話し方も堅苦しいものではなくて大丈夫ですよ。わたしはこの話し方が癖なだけですから。」
「…!ありがとう!本当は宮中でずっと敬語で緊張しちゃってたの!」
「まぁ!ふふふ…」
琳は、伊織の砕けた様子をみて、ころころと笑った。
琳が帰った後、自室にも関わらず、伊織は緊張していた。
「…」
黙ったままの君景。これまで見た中でも1番と言っていいほど、機嫌が悪い。伊織がお茶の用意をする些細なカチャカチャという音さえ、部屋に響く。沈黙に耐えきれず、伊織が口を開く。
「君景様、」
「伊織はあのように笑うのだな。」
伊織の言葉を遮るように、君景は言った。
「は…?」
「廊下まで君たちの楽しそうな声が聞こえていた。」
ぶすっとした顔でそう言う君景に、呆気に取られる伊織。先ほどまで伊織は、友人になった琳と話していたのだ。琳は博識ゆえに話が面白く、伊織は夢中になって話を聞き、ケラケラ笑っていた。そこに君景が訪ねてきたため、琳が急いで帰ったのだ。そのときに廊下で聞いた笑い声に、君景は怒っているらしい。
「品のない笑い方でしたでしょうか…すみません…。」
「そんなこと言っていない。」
見当違いの返事をする伊織に、苛立ちをあらわにする君景。
「俺は伊織に全てをさらけ出しているというのに…伊織があんなに楽しげに笑っているの、見たことなかったぞ…」
「それって…」
君景は自分が見たことのない伊織の姿を知って、やきもちを焼いているのだ。
「そんな…それでそんなふてくされているのですか…?えぇ…?…ふふふっ!」
「笑い事じゃないっ!」
「笑い事ですよ!だって!君景様ともあろうお方が、私の知らないところがあったからって拗ねてるのが意外すぎて!」
「笑いすぎだろう!」
どんどん笑い声が大きくなる伊織。意地になった君景は、反論するために、伊織に近づこうとして、勢いをつけすぎた。
「あっ!」
「きゃっ⁉︎」
君景が伊織に覆い被さるように倒れこんだ。伊織は身体の大きい君景を受け止めきれず、仰向けに床に倒れる。ギリギリのところで君景は手をついていた。
「「…」」
至近距離で見つめ合う2人。君景がそのまま伊織を抱きしめた。
「こ…転ぶなんて君景様らしくないですね…。」
伊織がそう言うと、君景は抱きしめる腕に力を入れた。
「そうだ、全部全部らしくない。鬼のようだと言われる俺が…こんなにも情けなく君に心を動かされてるんだ…。」
抱きしめた腕に力を入れたまま、伊織ごと起き上がる君景。そのまま伊織を膝に座らせた。
「君景様⁉︎恥ずかしいです‼︎」
伊織が君景の膝からおりようとするも、お腹に腕をまわされておりられない。
「ははっ!仕返しだ!たまには伊織が心乱すところを見るのもいいな!」
楽しそうに君景が笑う。
「もう!」
伊織が少し怒ったような顔をすると、君景は笑いながら伊織の髪を撫でた。
「君景、と呼んでくれないか?堅苦しい話し方もしなくていい。」
「それは不敬です。」
「誰でもない俺が言っているのにか?」
「…2人のときだけなら。…君景。」
「その照れ顔を見れるのは俺だけだということか。」
君景が満足げにニヤリと笑った。この状況にか、その笑顔にか、伊織は顔が熱くなり、真っ赤に頬を染めるのだった。
―――この2人の出会いは、因果なのか運命なのか。不幸がなければ、伊織と君景の世界は交わらなかった。2人の行く末はどのような景色が広がっているのか。幸せな時間にも関わらず、時は非情にも進んでいくのだった。



