『―――伊織…俺の…。』
娘が深夜に目を覚ます。今しがた夢に出た男のことを考え、心を震わせる。その娘…伊織はポツリと言った。
「夢の通い路…」
伊織の歌うような言葉は、夜空で輝く満月だけが聴き去って行った。
『皇子である君景様に涙を流させよ。これを成し遂げた者は、宮中へ迎え入れる。』
3ヶ月ほど前に発表されたお達しだ。噂によると、その君景様とやらは、呪いをかけられており、その呪いは涙として流し切らねば解けないという。毒がじわりじわりと身体を這いまわるように徐々に、体が麻痺し苦しみ悶える呪いらしい。帝は、「皇子の呪いを解いた者はどんな身分であろうが皇子の妃として迎えよう。」と言っているとのことだ。皇子が呪われる前から宮中にいた妃候補たちも、名乗りをあげているらしく、ある者はありがたい法話を、ある者は美しい舞を、ある者は熱烈な愛で、皇子の心を動かし、涙を流させようとしたらしい。しかし、どれも上手くいかず、「我こそは」という者は日に日に減っていった。
ピリついた空気の宮中。そこに伊織は現れた。宮中の臣下はジロジロと伊織を見た。何かが秀でているようには見えないと視線が言っている。実際に伊織は平民だ。
「お前は皇子を涙させることが出来ると?」
「えぇ。」
「では、ここで見せてみよ。」
「この場で見せるものではございません。」
「なんだと?」
訝しげに臣下が言った。
「君景様の元へ連れて行ってください。」
臣下は呆れたようにため息をついた。フン、と鼻を鳴らす。
「多くの者がお前と同じように、涙を流させてみせると言ったがな?」
そう言いながら、歩き始める。伊織は、それに着いていった。
広間に通された。久しぶりに現れた名乗りをあげる人物を見に、臣下たちが集まっている。伊織を睨むように見ている女性たちは宮中に住む妃候補だろう。伊織は上座に座る人物を見た。座っていても分かる屈強な身体、冷酷そうな顔。この男が夢にまで見た君景だった。伊織は頭を下げ、口を開く。
「去年の出来事、お悔やみ申し上げます。」
伊織の一言に、周りの人間がざわめく。
「貴様!君景様は、やっと君孝様を忘れ、心癒そうとしているのになんてことを言うんだ!」
臣下の怒号が響く。『君孝様』それは去年に亡くなった第一皇子、君景の兄の名だった。噂では帝の妃…后妃である清乃様は、第一皇子である君孝をひどく可愛がっていたそうだ。それを憎く思っていた君景が君孝を殺し、殺された君孝が君景を呪ったのではないか、と言う者もいた。
「それだけを言うためにここに来たのか?」
眉一つ動かさずに君景が、伊織に言った。
「いえ、ここにいる方々に言いたいことがございます。」
「ほぉ?」
伊織は怒鳴っていた臣下、周りでざわめく人をぐるりと見渡した。そして、凛とした声で言う。
「大切な人が亡くなって、忘れることで癒されるなどありません。」
伊織が目を閉じ、すぅ、と息を吸った。周りの人間は、空気が変わるのを感じる。シンとした空に伊織の声が響いた。
『知りませば
かざせしものを
風見草
黄泉路辿らず
帰り来ましや』
(もし、知っていたならば、風見草をかざしていただろう。そしたら、あなたは死なずに帰ってきてくれただろうか。)
―――『風見草』。柳の異名だ。ある国では頭上にかざすと再会が約束されるという言い伝えがあるらしい。君景は、伊織の和歌を聴き、目を閉じた。柔らかく風に揺れる柳の様子が目に浮かび、優しかった兄を思い出す。噂は噂だ。君孝と君景は、話すことは多くなくとも互いを大切に想い合う兄弟だった。
「早く忘れて、心が癒えるように。兄がいなくなった今、あなたが第一皇子となるのだから。」と周りに言われ、深く悲しむことは許されず、帝である父は忙しく、母は兄の死に、狂ってしまい部屋に籠り気味になり、兄を失ったことを一緒に悲しむことが出来る相手がいなかった。『第一皇子の君孝と第二皇子の君景は不仲だった』と考える者の中には、君景はこれ幸いとさえ思ってる、と噂する者もいた。どんなに素晴らしい法話や舞も、心を閉ざしてしまった君景には届かない。悲しい時に悲しめないと、人は感情を失ってしまうのだ。だが、伊織は、ただ兄を失った弟としての君景の心に寄り添い、歌を詠んだ。
「兄上っ…」
君景が嗚咽を漏らした。目から涙が一粒。その雫は、人から流れたとは思えない薄暗い色をしていた。呪いの証拠だ。初めて見る呪いの涙に、周りが化け物を目にしたようにざわめく。それを感じ取った君景が、焦って袖で涙を拭い、涙を止めようとした。その瞬間、ふわりと君景の頬を薄絹で拭った者がいた。伊織だ。
「やめろ。汚れるぞ。それに呪いのせいで、この涙には毒もあると言われている。」
ぶっきらぼうに言い、顔を背けようとする君景に、伊織が微笑んだ。
「薄絹で拭っているので大丈夫ですよ。それに…私の歌で涙を流す人に、私が手を伸ばさない理由はありません。」
伊織の笑顔は、ただ清らかだった。目を奪われる君景。涙は止まり、君景の逞しい手が、涙を拭う伊織の手首を掴む。
「…明日から、この宮中で過ごすことを認める。娘、名はなんと言う?」
皇子らしい威厳のある声で君景が言う。
「伊織、と申します。」
「伊織、今日から宮中に迎え入れよう。おい、部屋を用意しておけ。皆、ここから出ていけ。伊織と話すことがある。」
まるで涙を流したのが、嘘かのように、君景は会った時のような冷酷な顔で、臣下たちに命令した。慌てて出ていく臣下たち。広間が静かになる。君景が俯き、伊織の肩に頭を置いた。
「俺の呪いを解いてくれ。」
静かな部屋でも耳を凝らさないと聞こえないような、縋るような小さく震える声。強く粗暴で鬼のよう、季節でさえ彼を避け凍えると噂される冷酷な皇子。その正体は、兄を失い、自身も呪いをかけられ救いを求める、ただただ弱りきった青年だった。伊織は返事の代わりに腕を伸ばし、君景の頭をそっと優しく撫でた。
―――それは、白妙の衣が眩しい九重、つまり初夏の宮中での出来事だった。
娘が深夜に目を覚ます。今しがた夢に出た男のことを考え、心を震わせる。その娘…伊織はポツリと言った。
「夢の通い路…」
伊織の歌うような言葉は、夜空で輝く満月だけが聴き去って行った。
『皇子である君景様に涙を流させよ。これを成し遂げた者は、宮中へ迎え入れる。』
3ヶ月ほど前に発表されたお達しだ。噂によると、その君景様とやらは、呪いをかけられており、その呪いは涙として流し切らねば解けないという。毒がじわりじわりと身体を這いまわるように徐々に、体が麻痺し苦しみ悶える呪いらしい。帝は、「皇子の呪いを解いた者はどんな身分であろうが皇子の妃として迎えよう。」と言っているとのことだ。皇子が呪われる前から宮中にいた妃候補たちも、名乗りをあげているらしく、ある者はありがたい法話を、ある者は美しい舞を、ある者は熱烈な愛で、皇子の心を動かし、涙を流させようとしたらしい。しかし、どれも上手くいかず、「我こそは」という者は日に日に減っていった。
ピリついた空気の宮中。そこに伊織は現れた。宮中の臣下はジロジロと伊織を見た。何かが秀でているようには見えないと視線が言っている。実際に伊織は平民だ。
「お前は皇子を涙させることが出来ると?」
「えぇ。」
「では、ここで見せてみよ。」
「この場で見せるものではございません。」
「なんだと?」
訝しげに臣下が言った。
「君景様の元へ連れて行ってください。」
臣下は呆れたようにため息をついた。フン、と鼻を鳴らす。
「多くの者がお前と同じように、涙を流させてみせると言ったがな?」
そう言いながら、歩き始める。伊織は、それに着いていった。
広間に通された。久しぶりに現れた名乗りをあげる人物を見に、臣下たちが集まっている。伊織を睨むように見ている女性たちは宮中に住む妃候補だろう。伊織は上座に座る人物を見た。座っていても分かる屈強な身体、冷酷そうな顔。この男が夢にまで見た君景だった。伊織は頭を下げ、口を開く。
「去年の出来事、お悔やみ申し上げます。」
伊織の一言に、周りの人間がざわめく。
「貴様!君景様は、やっと君孝様を忘れ、心癒そうとしているのになんてことを言うんだ!」
臣下の怒号が響く。『君孝様』それは去年に亡くなった第一皇子、君景の兄の名だった。噂では帝の妃…后妃である清乃様は、第一皇子である君孝をひどく可愛がっていたそうだ。それを憎く思っていた君景が君孝を殺し、殺された君孝が君景を呪ったのではないか、と言う者もいた。
「それだけを言うためにここに来たのか?」
眉一つ動かさずに君景が、伊織に言った。
「いえ、ここにいる方々に言いたいことがございます。」
「ほぉ?」
伊織は怒鳴っていた臣下、周りでざわめく人をぐるりと見渡した。そして、凛とした声で言う。
「大切な人が亡くなって、忘れることで癒されるなどありません。」
伊織が目を閉じ、すぅ、と息を吸った。周りの人間は、空気が変わるのを感じる。シンとした空に伊織の声が響いた。
『知りませば
かざせしものを
風見草
黄泉路辿らず
帰り来ましや』
(もし、知っていたならば、風見草をかざしていただろう。そしたら、あなたは死なずに帰ってきてくれただろうか。)
―――『風見草』。柳の異名だ。ある国では頭上にかざすと再会が約束されるという言い伝えがあるらしい。君景は、伊織の和歌を聴き、目を閉じた。柔らかく風に揺れる柳の様子が目に浮かび、優しかった兄を思い出す。噂は噂だ。君孝と君景は、話すことは多くなくとも互いを大切に想い合う兄弟だった。
「早く忘れて、心が癒えるように。兄がいなくなった今、あなたが第一皇子となるのだから。」と周りに言われ、深く悲しむことは許されず、帝である父は忙しく、母は兄の死に、狂ってしまい部屋に籠り気味になり、兄を失ったことを一緒に悲しむことが出来る相手がいなかった。『第一皇子の君孝と第二皇子の君景は不仲だった』と考える者の中には、君景はこれ幸いとさえ思ってる、と噂する者もいた。どんなに素晴らしい法話や舞も、心を閉ざしてしまった君景には届かない。悲しい時に悲しめないと、人は感情を失ってしまうのだ。だが、伊織は、ただ兄を失った弟としての君景の心に寄り添い、歌を詠んだ。
「兄上っ…」
君景が嗚咽を漏らした。目から涙が一粒。その雫は、人から流れたとは思えない薄暗い色をしていた。呪いの証拠だ。初めて見る呪いの涙に、周りが化け物を目にしたようにざわめく。それを感じ取った君景が、焦って袖で涙を拭い、涙を止めようとした。その瞬間、ふわりと君景の頬を薄絹で拭った者がいた。伊織だ。
「やめろ。汚れるぞ。それに呪いのせいで、この涙には毒もあると言われている。」
ぶっきらぼうに言い、顔を背けようとする君景に、伊織が微笑んだ。
「薄絹で拭っているので大丈夫ですよ。それに…私の歌で涙を流す人に、私が手を伸ばさない理由はありません。」
伊織の笑顔は、ただ清らかだった。目を奪われる君景。涙は止まり、君景の逞しい手が、涙を拭う伊織の手首を掴む。
「…明日から、この宮中で過ごすことを認める。娘、名はなんと言う?」
皇子らしい威厳のある声で君景が言う。
「伊織、と申します。」
「伊織、今日から宮中に迎え入れよう。おい、部屋を用意しておけ。皆、ここから出ていけ。伊織と話すことがある。」
まるで涙を流したのが、嘘かのように、君景は会った時のような冷酷な顔で、臣下たちに命令した。慌てて出ていく臣下たち。広間が静かになる。君景が俯き、伊織の肩に頭を置いた。
「俺の呪いを解いてくれ。」
静かな部屋でも耳を凝らさないと聞こえないような、縋るような小さく震える声。強く粗暴で鬼のよう、季節でさえ彼を避け凍えると噂される冷酷な皇子。その正体は、兄を失い、自身も呪いをかけられ救いを求める、ただただ弱りきった青年だった。伊織は返事の代わりに腕を伸ばし、君景の頭をそっと優しく撫でた。
―――それは、白妙の衣が眩しい九重、つまり初夏の宮中での出来事だった。



