「ねえ奏多、見てよこれ! 今回のレンくん、ビジュアル爆発してない!?」
放課後のファミレス。窓際の席で、彼女のあかりがスマホを突き出してくる。画面の中で微笑んでいるのは、今をときめく若手アイドル、如月レン。
光を吸い込むほどに深く、艶やかな漆黒の髪。彫刻のように無駄のない輪郭に、スッと通った高い鼻。少し長めの前髪の隙間から覗く、涼やかでいてどこか色気を孕んだ瞳は、見る者を射抜くような鋭さで虜にさせる。
芸能科と普通科が併設されているこの「私立星蘭学園」においても、彼は別格の存在だ。同じか学校だと言っても校舎も違うし、一度もレン似合ったことはない。
「彼氏の前でそういうこと言う? まぁ、かっこいいけど」
「でしょ!? あー、もう、同じ学校にいるってだけで奇跡。神様に感謝!」
俺は、苦笑いしながらポテトを口に運んだ。
幼なじみのあかりとは付き合って3年。彼女は熱狂的なレンのファンで、俺はそんな彼女の話を合わせるうちに、自分でも気づかないうちに「如月レン」という底なし沼にハマっていた。その投稿だって、実はさっきトイレに立った時にチェック済みだ。
(......今回のレン、マジでビジュ良すぎだろ。このアンニュイな表情、これまでの爽やか路線とはまた違ってて......最高かよ)
心の中では、あかりに負けないくらいの熱量で叫んでいる。けれど、言葉にするのは「かっこいいけど」という、あくまで彼女に合わせた程度の肯定。
俺は男が男性アイドルを推しているということがどこか引っかかって、誰にも言えずにいる。
「奏多、明日レンくんの限定アクスタの発売日なんだけど......」
「わかってるよ。始発で並ぶんだろ? 付き合うよ」
「ほんと、大好き!」
あかりの満面の笑みに、俺は少しだけ胸を張る。
恋愛と推しは別物だ。彼女がどれだけレンに熱を上げても、隣にいるのは俺。それに、俺だってレンから元気をもらっている。この関係は、これで完璧だと思っていた。
その日の放課後は、酷く蒸し暑かった。
窓の外からは部活動の掛け声や吹奏楽部の音が遠くに聞こえ、廊下には西日が長く伸びている。
俺は校門で待ち合わせるはずだったあかりを探していた。
「あかりのやつ、どこ行ったんだよ......」
あかりはよく、部活の友人と部室棟付近で話し込んでいる。LINEを入れても既読がつかないことに少しの不安を感じながら、俺は普段は人気のない部室棟の裏手へと足を向けた。
建物が作る長い影の中に入ったとき、聞き覚えのある高い声が聞こえた。
「――私、ずっとレンくんのことが好きで......」
あかりの声だ。
心臓が嫌な跳ね方をした。ドクドクと耳の奥で脈打つ音が聞こえる。
俺は導かれるように、建物の陰を覗き込んだ。
そこには、二人の人影があった。
壁際で、必死な形相で男に縋り付いている女の子。あかりだった。
そして、レン女がその首に腕を回し、唇を重ねている相手は――。
「え......」
声にならなかった。
目の前にいるのはあの芸能科の星、如月レン。
「ん......レン、くん......」
あかりがうっとりと目を閉じ、レンの胸に顔を埋める。
レンはと言えば、拒絶するでもなく、かといって抱きしめるでもなく、まるで街灯にでも寄りかかっているかのような無機質な態度で、ただそこに立っていた。
カツン、と乾いた音が響いた。
俺が履いていたローファーが、地面の小石を蹴ってしまったのだ。
二人の動きが止まった。
あかりが、弾かれたように俺を見た。
「か、奏多......!?」
「あかり......何、してるんだよ......」
頭が真っ白だった。3年付き合ってきたレン女が、推しと浮気しているだなんて。
あかりは顔を真っ青にして、俺とレンを交互に見た。
「違うの、これは......その......っ!」
言い訳すら形にならなかったのか、レン女はそのまま顔を覆い、逃げるように走り去っていった。
残されたのは、俺と、画面の向こう側の住人だったはずの男。
「......なに見てんの」
レンは、面倒くさそうに首の筋をポキリと鳴らした。そして、去っていったあかりには一瞥もくれず、俺を真っ直ぐに見据えた。
その瞳に、テレビで見せる宝石のような優しさは微塵もない。
そこにいたのは、氷のように冷たく、世界中のすべてを退屈しきっているような、濁った瞳をした男だった。
「なんだよ。あいつ、お前の連れ?」
レンの口から出たのは、低く、ドスの利いた声。
全国のファンを虜にしているあの甘いウィスパーボイスとは似ても似つかない、不遜で、ひどく突き放した響き。
「え......レン......?」
思わず、いつもの呼び名が漏れた。
すると、レンは面白そうに口角を吊り上げた。三日月のように細められた目には、明確な嘲笑が浮かんでいる。
「なんだ、俺のこと知ってるのか」
「そ、それはどうでもいいだろ! どうして、あかりと......あんなことしてたんだよ!」
俺の叫びを、レンは鼻で笑い飛ばした。
ゆっくりと一歩、レンが俺に歩み寄る。芸能科の制服から漂うのは、高級な柔軟剤の匂いと、それに相反するようなひどく冷めた体温。
「どうだっていいだろ? 向こうから勝手に寄ってきたんだからさ」
「は......?」
「俺、来るもの拒まずなんだよね。アイドルなんて夢見させてナンボだろ」
その言葉は、俺が今まで心の支えにしていた「如月レン」という存在を、根底から破壊するのに十分な猛毒だった。
画面の中のレンは、あんなに汗を流して、「みんなの笑顔が俺の力です」なんて、綺麗な瞳で笑っていたのに。
「......最低だな。そんな......クズみたいな奴だったのかよ」
拳を握りしめ、震える声で言う俺を、レンはもう興味を失ったように一瞥した。
「はぁ、もういいわ。時間の無駄。じゃあな、名もなき一般人君」
レンは興味もなさそうに、夕闇の廊下を悠然と歩き出していく。
◆◆◆
次の日。
最悪だ。何がいちばん最悪かって、あかりに裏切られたショックよりも、如月レンがあんなクズ野郎だったってことだ!
夕暮れの静まり返った校庭で、俺は一人、スマホの画面を睨みつけていた。液晶の中では、一時間前に投稿されたばかりのレンが、これ以上ないほど爽やかな笑顔で「今日も一日お疲れ様! 」なんて呟いている。
「どの口が言ってんだよ......っ」
怒りと虚しさが混ざり合って、視界がじんわりと熱くなる。
あかりが浮気をした。それも、俺たちが共通で推していた相手と。本来ならあかりを責め、悲しみに暮れるべき場面なのに、今の俺の脳内は「如月レン」への失望で埋め尽くされている。
「......ファン、やめるかな」
ぽつりと独り言が漏れる。
指先が震えながら、彼のプロフィール画面の『フォロー中』というボタンに向かった。
ここをタップして、解除を押せばいいだけだ。そうすれば、明日から俺のタイムラインにあの偽物の笑顔が流れてくることはない。俺の日常から、あいつを消去できる。
けれど。
ボタンの上で、俺の指は幽霊のように彷徨ったまま動かなかった。
(......でも、あの時のダンスは。あの、喉を枯らして歌ってたライブの時の声は。あれも全部、嘘だったのか?)
三年間、あかりと一緒に......いや、あかりに隠れて一人の時だって、俺はレンのことを応援してたのに。
あんな冷酷な目、あんな汚い言葉。昨日のあいつは、画面の中の「王子様」とは似ても似つかない怪物だった。全部嘘。全部、金のために作られた虚像。
わかっているのに、どうしても画面を閉じられない。
(......あの時の言葉まで、嘘だったって言うのかよ)
脳裏に、半年前の夜の記憶が蘇る。
両親の離婚が決まって、家の中の空気が凍りついていた時期。誰にも言えず、部屋で一人、息を潜めていた俺を救ったのは、レンの不定期なゲリラLIVE配信だった。
コメント欄に流した、俺の切実な悩み。
『親が離婚する。家にも学校にも居場所がない』
数万人が見る配信で、拾われるはずなんてなかった。
けれど、レンはふと画面を見つめて、少しだけ真面目な顔をして言ったんだ。
『......無責任のことは言えないけど、居場所はさ、無理に作らなくていいよ。俺がここで歌ってる間は、ここが君の居場所だから』
その真っ直ぐな瞳に、俺はどれだけ救われただろう。あの日から、俺は如月レンという偶像に、自分の人生の一部を預けてきた。
作られた言葉だったとしても、あの夜、俺の心を繋ぎ止めた熱量だけは、嘘じゃなかったはずなんだ。
「......くそっ、なんなんだよアイツ......!」
結局、俺はフォロー解除ボタンを押せないまま、スマホをポケットに突っ込んだ。
あんな奴、大嫌いだ。最悪だ。
でも、もしあいつの言う通り「アイドルは嘘をついてナンボ」だとしたら。
――あいつが隠している「本当の顔」は、一体どこにあるんだろう。
怒りの中に、消えない微かな好奇心が混ざり込む。
「奏多、悪い。待ったか?」
そう言って走ってきたのは、同じクラスの陽稀だ。
「お前、おせーよ」
「悪い悪い、原先に捕まっちゃってたさ」
「それはどんまい」
陽稀は頭をかきながら苦笑いする。こいつのこういう愛嬌のあるところが、男女問わず好かれる理由なんだろう。
「じゃあ、行こうぜ」
そう言って歩き始める。昨日のあかりとレンの件を話したらいきなり「慰めパーティーしてやる!」と言い出され、今に至る。
一人でいるとどうしてもスマホを見て「フォロー解除」の画面と睨めっこしてしまうから、正直ありがたかった。
「あー、陽稀じゃん! 今、帰り?」
「うちらと一緒に帰ろうよー」
校門を出るなり、陽稀の周りに女の子が群がる。......俺のことは背景か何かだと思ってるのかよ。
「悪い、今日こいつと帰るからまた今度な」
陽稀がサラッと言うと、女の子たちは露骨に残念そうな顔をして帰っていく。
「さすがモテてんな」
「まぁな?」
どや顔で言ってくんの腹立つな。陽稀は俺らのクラスの中でも一番のイケメンで、性格も明るいからとにかく女子からモテる。
「......ほんと、彼氏持ちの女の子に手出すとか、そいつクズだな」
しばらく歩いて、人通りが少なくなったところで陽稀が真面目なトーンで話を戻した。
「彼女はなんて言ってんの」
「昨日から連絡なし、今日も見てないし......これ、自然消滅か?」
「お前はどうなんだよ。浮気されて、まだ好きなんか」
「俺は......」
問いかけられて、言葉に詰まる。正直、あかりの気持ちも分からなくはないんだ。俺だって男だけどレンのことを推していたから、もし憧れの推しが目の前に現れたら......。
「......謝ってくれんのなら、俺はそれでいいかな」
「お前、心広いなー。俺なら絶対許せねーわ」
そんな話をしながら、陽稀の案内で着いたのは、住宅街でも一際目立つ大きな家だった。
モダンなデザインで、庭の手入れも行き届いている。
「でっけぇ家だな。こお前もしかして金持ちなのか?」
「あはは、そんな大層なもんじゃないって。ほら、入れって」
陽稀に促され、「お邪魔しまーす」と挨拶して玄関をくぐる。家の中もモデルハウスみたいに綺麗で、少し緊張する。
「母さんたち仕事でいないから。あー、兄貴はいるかも」
「へぇ、お前、兄貴いたんだ。初めて聞いた」
「兄貴、アイドルやってんだよ」
陽稀が事も無げに言った。
「え、すごいじゃん」
「俺らと同じ高校の芸能科行ってるんだけど、最近忙しそうであんま家にいないんだよな」
「有名なのか? なんて言う名前?」
「言ってもわかんないと思うぞ。最近、売れ出した感じだし」
そう話しながら、陽稀がリビングのドアを開ける。
「如月レンって、名前で――」
「え?」
陽稀がその名前を口にした瞬間、俺の心臓がドクリと跳ねた。見開いた視界の先、リビングのソファに一人の男が座っていた。
缶コーヒーを片手に、膝の上に広げた台本らしきものを眺めている男の背中。
陽稀が声をかけると、その男は面倒くさそうに首を回した。
「なんだよ陽稀、友達連れてきたのか。うるさくすんなよ、俺はこれから......」
男がゆっくりとこちらを振り返る。
夕暮れ時のリビング、逆光の中でその整った顔が露わになった。
「......は?」
「え......」
絶句した。
そこにいたのは、昨日俺の日常をめちゃくちゃにして、今さっきまでスマホの中で「フォロー解除」しようか迷い続けていた相手――如月レン、その人だった。
「な......なんで、ここに......っ!」
指を差して震える俺を見て、レンは一瞬だけ目を見開いた。けれど、すぐにその瞳から光が消え、昨日と同じ、人を小馬鹿にしたような三日月形の目に変わる。
「......あ? お前、昨日の一般人くんじゃん」
レンは缶コーヒーをテーブルに置くと、不敵な笑みを浮かべて背もたれに深く体重を預けた。
「なに? 兄貴こいつと知り合い?」
陽稀が不思議そうに俺たちの顔を交互に見る。
「知り合いなんてもんじゃねえよ。昨日、こいつの女――」
「わぁぁぁ! 違う、昨日、ちょっと道でぶつかって!」
レンが「昨日の密会」をバラそうとした瞬間、俺は全力で叫んでその言葉を遮った。
あかりが浮気した相手が、親友の兄貴。しかも、その兄貴が自分の推し。
そんな地獄のような相関図、陽稀に説明できるわけがない。
世界、狭すぎだろ!
「兄貴、ライブとかではキャラ全然違うんだぜ。キラキラしちゃってさ」
陽稀がケラケラと笑いながら言う。
知ってる。痛いくらい知ってる。昨日の今日で、その裏側を見せつけられたばかりだからな!
普通なら、自分の推しが親友の兄貴だなんて、ファンにとってはこれ以上ない神シチュエーションのはずだ。
遊びに行けば推しがいる、プライベートな姿が見られる......そんなの、本来なら鼻血を出して拝むレベルの幸運だ。
なのに、今の俺にとっては、ただの公開処刑でしかない。
こいつらの顔の良さら遺伝なのかよ。
「......はは、そうなのか」
引きつった笑顔で答える俺の肩に、レンがこれ見よがしに手を回してきた。
「弟が世話になってんな。......これからも、よろしくな?」
レンは、陽稀からは見えない角度で、俺だけに冷酷な嘲笑を向けた。
(......待て、なんで、ドキドキしてんだよ俺......!)
肩に置かれた手のひらの熱。耳元にかかった吐息の感触。
そして何より、画面越しに何千回、何万回と眺めてきたあの「如月レン」が、俺に触れている。
こいつにだけは、ファンだってバレちゃダメだ......!
陽稀はそんな俺たちの攻防に気づくはずもなく、「兄貴、あんま奏多をビビらすなよ!」と無邪気に笑っている。
でも、この時の俺はまだ知らない。
彼が抱える「嘘」の本当の理由も。
そして、俺がこれから、この最悪なクズ男に、あかり以上にのめり込んでしまうことになるなんてことも――。
放課後のファミレス。窓際の席で、彼女のあかりがスマホを突き出してくる。画面の中で微笑んでいるのは、今をときめく若手アイドル、如月レン。
光を吸い込むほどに深く、艶やかな漆黒の髪。彫刻のように無駄のない輪郭に、スッと通った高い鼻。少し長めの前髪の隙間から覗く、涼やかでいてどこか色気を孕んだ瞳は、見る者を射抜くような鋭さで虜にさせる。
芸能科と普通科が併設されているこの「私立星蘭学園」においても、彼は別格の存在だ。同じか学校だと言っても校舎も違うし、一度もレン似合ったことはない。
「彼氏の前でそういうこと言う? まぁ、かっこいいけど」
「でしょ!? あー、もう、同じ学校にいるってだけで奇跡。神様に感謝!」
俺は、苦笑いしながらポテトを口に運んだ。
幼なじみのあかりとは付き合って3年。彼女は熱狂的なレンのファンで、俺はそんな彼女の話を合わせるうちに、自分でも気づかないうちに「如月レン」という底なし沼にハマっていた。その投稿だって、実はさっきトイレに立った時にチェック済みだ。
(......今回のレン、マジでビジュ良すぎだろ。このアンニュイな表情、これまでの爽やか路線とはまた違ってて......最高かよ)
心の中では、あかりに負けないくらいの熱量で叫んでいる。けれど、言葉にするのは「かっこいいけど」という、あくまで彼女に合わせた程度の肯定。
俺は男が男性アイドルを推しているということがどこか引っかかって、誰にも言えずにいる。
「奏多、明日レンくんの限定アクスタの発売日なんだけど......」
「わかってるよ。始発で並ぶんだろ? 付き合うよ」
「ほんと、大好き!」
あかりの満面の笑みに、俺は少しだけ胸を張る。
恋愛と推しは別物だ。彼女がどれだけレンに熱を上げても、隣にいるのは俺。それに、俺だってレンから元気をもらっている。この関係は、これで完璧だと思っていた。
その日の放課後は、酷く蒸し暑かった。
窓の外からは部活動の掛け声や吹奏楽部の音が遠くに聞こえ、廊下には西日が長く伸びている。
俺は校門で待ち合わせるはずだったあかりを探していた。
「あかりのやつ、どこ行ったんだよ......」
あかりはよく、部活の友人と部室棟付近で話し込んでいる。LINEを入れても既読がつかないことに少しの不安を感じながら、俺は普段は人気のない部室棟の裏手へと足を向けた。
建物が作る長い影の中に入ったとき、聞き覚えのある高い声が聞こえた。
「――私、ずっとレンくんのことが好きで......」
あかりの声だ。
心臓が嫌な跳ね方をした。ドクドクと耳の奥で脈打つ音が聞こえる。
俺は導かれるように、建物の陰を覗き込んだ。
そこには、二人の人影があった。
壁際で、必死な形相で男に縋り付いている女の子。あかりだった。
そして、レン女がその首に腕を回し、唇を重ねている相手は――。
「え......」
声にならなかった。
目の前にいるのはあの芸能科の星、如月レン。
「ん......レン、くん......」
あかりがうっとりと目を閉じ、レンの胸に顔を埋める。
レンはと言えば、拒絶するでもなく、かといって抱きしめるでもなく、まるで街灯にでも寄りかかっているかのような無機質な態度で、ただそこに立っていた。
カツン、と乾いた音が響いた。
俺が履いていたローファーが、地面の小石を蹴ってしまったのだ。
二人の動きが止まった。
あかりが、弾かれたように俺を見た。
「か、奏多......!?」
「あかり......何、してるんだよ......」
頭が真っ白だった。3年付き合ってきたレン女が、推しと浮気しているだなんて。
あかりは顔を真っ青にして、俺とレンを交互に見た。
「違うの、これは......その......っ!」
言い訳すら形にならなかったのか、レン女はそのまま顔を覆い、逃げるように走り去っていった。
残されたのは、俺と、画面の向こう側の住人だったはずの男。
「......なに見てんの」
レンは、面倒くさそうに首の筋をポキリと鳴らした。そして、去っていったあかりには一瞥もくれず、俺を真っ直ぐに見据えた。
その瞳に、テレビで見せる宝石のような優しさは微塵もない。
そこにいたのは、氷のように冷たく、世界中のすべてを退屈しきっているような、濁った瞳をした男だった。
「なんだよ。あいつ、お前の連れ?」
レンの口から出たのは、低く、ドスの利いた声。
全国のファンを虜にしているあの甘いウィスパーボイスとは似ても似つかない、不遜で、ひどく突き放した響き。
「え......レン......?」
思わず、いつもの呼び名が漏れた。
すると、レンは面白そうに口角を吊り上げた。三日月のように細められた目には、明確な嘲笑が浮かんでいる。
「なんだ、俺のこと知ってるのか」
「そ、それはどうでもいいだろ! どうして、あかりと......あんなことしてたんだよ!」
俺の叫びを、レンは鼻で笑い飛ばした。
ゆっくりと一歩、レンが俺に歩み寄る。芸能科の制服から漂うのは、高級な柔軟剤の匂いと、それに相反するようなひどく冷めた体温。
「どうだっていいだろ? 向こうから勝手に寄ってきたんだからさ」
「は......?」
「俺、来るもの拒まずなんだよね。アイドルなんて夢見させてナンボだろ」
その言葉は、俺が今まで心の支えにしていた「如月レン」という存在を、根底から破壊するのに十分な猛毒だった。
画面の中のレンは、あんなに汗を流して、「みんなの笑顔が俺の力です」なんて、綺麗な瞳で笑っていたのに。
「......最低だな。そんな......クズみたいな奴だったのかよ」
拳を握りしめ、震える声で言う俺を、レンはもう興味を失ったように一瞥した。
「はぁ、もういいわ。時間の無駄。じゃあな、名もなき一般人君」
レンは興味もなさそうに、夕闇の廊下を悠然と歩き出していく。
◆◆◆
次の日。
最悪だ。何がいちばん最悪かって、あかりに裏切られたショックよりも、如月レンがあんなクズ野郎だったってことだ!
夕暮れの静まり返った校庭で、俺は一人、スマホの画面を睨みつけていた。液晶の中では、一時間前に投稿されたばかりのレンが、これ以上ないほど爽やかな笑顔で「今日も一日お疲れ様! 」なんて呟いている。
「どの口が言ってんだよ......っ」
怒りと虚しさが混ざり合って、視界がじんわりと熱くなる。
あかりが浮気をした。それも、俺たちが共通で推していた相手と。本来ならあかりを責め、悲しみに暮れるべき場面なのに、今の俺の脳内は「如月レン」への失望で埋め尽くされている。
「......ファン、やめるかな」
ぽつりと独り言が漏れる。
指先が震えながら、彼のプロフィール画面の『フォロー中』というボタンに向かった。
ここをタップして、解除を押せばいいだけだ。そうすれば、明日から俺のタイムラインにあの偽物の笑顔が流れてくることはない。俺の日常から、あいつを消去できる。
けれど。
ボタンの上で、俺の指は幽霊のように彷徨ったまま動かなかった。
(......でも、あの時のダンスは。あの、喉を枯らして歌ってたライブの時の声は。あれも全部、嘘だったのか?)
三年間、あかりと一緒に......いや、あかりに隠れて一人の時だって、俺はレンのことを応援してたのに。
あんな冷酷な目、あんな汚い言葉。昨日のあいつは、画面の中の「王子様」とは似ても似つかない怪物だった。全部嘘。全部、金のために作られた虚像。
わかっているのに、どうしても画面を閉じられない。
(......あの時の言葉まで、嘘だったって言うのかよ)
脳裏に、半年前の夜の記憶が蘇る。
両親の離婚が決まって、家の中の空気が凍りついていた時期。誰にも言えず、部屋で一人、息を潜めていた俺を救ったのは、レンの不定期なゲリラLIVE配信だった。
コメント欄に流した、俺の切実な悩み。
『親が離婚する。家にも学校にも居場所がない』
数万人が見る配信で、拾われるはずなんてなかった。
けれど、レンはふと画面を見つめて、少しだけ真面目な顔をして言ったんだ。
『......無責任のことは言えないけど、居場所はさ、無理に作らなくていいよ。俺がここで歌ってる間は、ここが君の居場所だから』
その真っ直ぐな瞳に、俺はどれだけ救われただろう。あの日から、俺は如月レンという偶像に、自分の人生の一部を預けてきた。
作られた言葉だったとしても、あの夜、俺の心を繋ぎ止めた熱量だけは、嘘じゃなかったはずなんだ。
「......くそっ、なんなんだよアイツ......!」
結局、俺はフォロー解除ボタンを押せないまま、スマホをポケットに突っ込んだ。
あんな奴、大嫌いだ。最悪だ。
でも、もしあいつの言う通り「アイドルは嘘をついてナンボ」だとしたら。
――あいつが隠している「本当の顔」は、一体どこにあるんだろう。
怒りの中に、消えない微かな好奇心が混ざり込む。
「奏多、悪い。待ったか?」
そう言って走ってきたのは、同じクラスの陽稀だ。
「お前、おせーよ」
「悪い悪い、原先に捕まっちゃってたさ」
「それはどんまい」
陽稀は頭をかきながら苦笑いする。こいつのこういう愛嬌のあるところが、男女問わず好かれる理由なんだろう。
「じゃあ、行こうぜ」
そう言って歩き始める。昨日のあかりとレンの件を話したらいきなり「慰めパーティーしてやる!」と言い出され、今に至る。
一人でいるとどうしてもスマホを見て「フォロー解除」の画面と睨めっこしてしまうから、正直ありがたかった。
「あー、陽稀じゃん! 今、帰り?」
「うちらと一緒に帰ろうよー」
校門を出るなり、陽稀の周りに女の子が群がる。......俺のことは背景か何かだと思ってるのかよ。
「悪い、今日こいつと帰るからまた今度な」
陽稀がサラッと言うと、女の子たちは露骨に残念そうな顔をして帰っていく。
「さすがモテてんな」
「まぁな?」
どや顔で言ってくんの腹立つな。陽稀は俺らのクラスの中でも一番のイケメンで、性格も明るいからとにかく女子からモテる。
「......ほんと、彼氏持ちの女の子に手出すとか、そいつクズだな」
しばらく歩いて、人通りが少なくなったところで陽稀が真面目なトーンで話を戻した。
「彼女はなんて言ってんの」
「昨日から連絡なし、今日も見てないし......これ、自然消滅か?」
「お前はどうなんだよ。浮気されて、まだ好きなんか」
「俺は......」
問いかけられて、言葉に詰まる。正直、あかりの気持ちも分からなくはないんだ。俺だって男だけどレンのことを推していたから、もし憧れの推しが目の前に現れたら......。
「......謝ってくれんのなら、俺はそれでいいかな」
「お前、心広いなー。俺なら絶対許せねーわ」
そんな話をしながら、陽稀の案内で着いたのは、住宅街でも一際目立つ大きな家だった。
モダンなデザインで、庭の手入れも行き届いている。
「でっけぇ家だな。こお前もしかして金持ちなのか?」
「あはは、そんな大層なもんじゃないって。ほら、入れって」
陽稀に促され、「お邪魔しまーす」と挨拶して玄関をくぐる。家の中もモデルハウスみたいに綺麗で、少し緊張する。
「母さんたち仕事でいないから。あー、兄貴はいるかも」
「へぇ、お前、兄貴いたんだ。初めて聞いた」
「兄貴、アイドルやってんだよ」
陽稀が事も無げに言った。
「え、すごいじゃん」
「俺らと同じ高校の芸能科行ってるんだけど、最近忙しそうであんま家にいないんだよな」
「有名なのか? なんて言う名前?」
「言ってもわかんないと思うぞ。最近、売れ出した感じだし」
そう話しながら、陽稀がリビングのドアを開ける。
「如月レンって、名前で――」
「え?」
陽稀がその名前を口にした瞬間、俺の心臓がドクリと跳ねた。見開いた視界の先、リビングのソファに一人の男が座っていた。
缶コーヒーを片手に、膝の上に広げた台本らしきものを眺めている男の背中。
陽稀が声をかけると、その男は面倒くさそうに首を回した。
「なんだよ陽稀、友達連れてきたのか。うるさくすんなよ、俺はこれから......」
男がゆっくりとこちらを振り返る。
夕暮れ時のリビング、逆光の中でその整った顔が露わになった。
「......は?」
「え......」
絶句した。
そこにいたのは、昨日俺の日常をめちゃくちゃにして、今さっきまでスマホの中で「フォロー解除」しようか迷い続けていた相手――如月レン、その人だった。
「な......なんで、ここに......っ!」
指を差して震える俺を見て、レンは一瞬だけ目を見開いた。けれど、すぐにその瞳から光が消え、昨日と同じ、人を小馬鹿にしたような三日月形の目に変わる。
「......あ? お前、昨日の一般人くんじゃん」
レンは缶コーヒーをテーブルに置くと、不敵な笑みを浮かべて背もたれに深く体重を預けた。
「なに? 兄貴こいつと知り合い?」
陽稀が不思議そうに俺たちの顔を交互に見る。
「知り合いなんてもんじゃねえよ。昨日、こいつの女――」
「わぁぁぁ! 違う、昨日、ちょっと道でぶつかって!」
レンが「昨日の密会」をバラそうとした瞬間、俺は全力で叫んでその言葉を遮った。
あかりが浮気した相手が、親友の兄貴。しかも、その兄貴が自分の推し。
そんな地獄のような相関図、陽稀に説明できるわけがない。
世界、狭すぎだろ!
「兄貴、ライブとかではキャラ全然違うんだぜ。キラキラしちゃってさ」
陽稀がケラケラと笑いながら言う。
知ってる。痛いくらい知ってる。昨日の今日で、その裏側を見せつけられたばかりだからな!
普通なら、自分の推しが親友の兄貴だなんて、ファンにとってはこれ以上ない神シチュエーションのはずだ。
遊びに行けば推しがいる、プライベートな姿が見られる......そんなの、本来なら鼻血を出して拝むレベルの幸運だ。
なのに、今の俺にとっては、ただの公開処刑でしかない。
こいつらの顔の良さら遺伝なのかよ。
「......はは、そうなのか」
引きつった笑顔で答える俺の肩に、レンがこれ見よがしに手を回してきた。
「弟が世話になってんな。......これからも、よろしくな?」
レンは、陽稀からは見えない角度で、俺だけに冷酷な嘲笑を向けた。
(......待て、なんで、ドキドキしてんだよ俺......!)
肩に置かれた手のひらの熱。耳元にかかった吐息の感触。
そして何より、画面越しに何千回、何万回と眺めてきたあの「如月レン」が、俺に触れている。
こいつにだけは、ファンだってバレちゃダメだ......!
陽稀はそんな俺たちの攻防に気づくはずもなく、「兄貴、あんま奏多をビビらすなよ!」と無邪気に笑っている。
でも、この時の俺はまだ知らない。
彼が抱える「嘘」の本当の理由も。
そして、俺がこれから、この最悪なクズ男に、あかり以上にのめり込んでしまうことになるなんてことも――。



