シカゴを舞う京の鳳凰~あなたの財布で眠っている130年の誇り ―

◇8-1【偶然か必然か、視線の先にあるもの】

「建設記録」の記事が掲載されるか、不安と期待が綯い交ぜになる。
取材の翌日、気分転換も兼ね、桐島文子は一人、万博会場をあてもなく歩き始めた。  
例によって、彼女の方向感覚はあてにならず、いつの間にか賑やかなメインストリートから外れ、比較的人通りの少ない、小さな国のパビリオンが並ぶ一角へと迷い込んでいた。
(ここはどこかしら?またやってしまったわ…)

万博会場の広大さと、自身の方向感覚のなさに、彼女は内心苦笑しながらも、あえてそのまま足を止めずに歩き続けていた。
(どうせ迷うなら、とことん迷って、何か偶然の新しい発見をしてみるのも悪くないわ…)
彼女は、方向音痴を逆手に取り、この巨大な会場を隅々まで「探索」するつもりで、好奇心の赴くままに歩を進めていた。

いくつかの素朴だが興味深い展示を通り過ぎた後、あるヨーロッパの小国のパビリオンの出口近くに設けられた小さな売店で、桐島は思わず足を止めた。
店頭には、その国を象徴する美しい風景や紋章が精巧に刻まれた、様々な種類の記念コインや、七宝や細密画で装飾された金属製の小さな記念メダルが、まるで宝石のように並べられていた。

それらは、万博の記念として発行された特別なものであろうか。
それを熱心に選び、手に取った西洋人の紳士や貴婦人が、何度か指でそのレリーフの感触を確かめながら、その重みや輝きを吟味し、大切そうに購入していく。 桐島は、その光景を、しばらく言葉もなく静かに眺めていた。

(記念コイン…メダル…)
単なる観光の証というだけではない。
それは、その国の文化や歴史、あるいは万博という特別な出来事の記憶を、 小さな円い形に凝縮し、永遠に留めようとする試み。
―その「モノ」が持つ、 記憶の媒体としての確かさ、 そして多くの人々の手に渡り、静かに、しかし確実にその価値を広めていく力。 それが、なぜか心に、深く、そして強く引っかかった。
桐島は、しばらくその場を離れられずにいたが、ふと、ホテルで待つ仲間たちの顔が思い浮かぶ。
(そうだわ…皆へのお土産に。この小さな輝きに込められた想いを、分かち合いたい)
彼女は、数あるコインの中から、デザインの違うものを、三人の顔を思い浮かべながら、丁寧に選び、購入する。

◇8-2【焦燥の果て、思考と迷いが生んださらなる突破口】
人々の喧騒の中をさまよい続け、気づけば足が重くなっていた。 桐島は、深く息をつきながら通り沿いのベンチに腰を下ろした。
プレオープン中の万博会場。各国の展示が華々しく報じられる中、未完成の鳳凰殿は 「建設記録」記事の成否に望みを託すしかない。 不発なら日本だけが沈黙し取り残される――その重圧が、鉛のように肩にのしかかる。

そのとき――遠くから大きな声が近づいてくるのを聞いた。
「いやあ、本当に度肝を抜かれたよ! まさかシカゴの真ん中で、あんな巨大な水槽の中を、魚が泳ぎ回る姿が見られるなんてな!」

「なあ、確かにな。水族館というのは初めての体験だったが、あれは万博の目玉の一つになるぞ。記事のネタとしても最高だ!」

二人組の、どこかの新聞記者らしい男たちが、身振り手振りを交え、子供のようにはしゃぎながら熱っぽく話している。
どうやら、万博会場内に新設された水族館のプレビューにでも行ってきた帰りらしい。
桐島は、思わずその会話に耳を傾けた。
彼らの興奮は、まるで伝染するかのように、純粋な驚きと高揚に満ち溢れていた。

(…初めての体験…そして、それを享受できる『希少性』…!)
プレオープンは、限られた人々だけが入場できる特別な機会だ。そこで得た「初めての体験」と「希少性」こそが、彼らの興奮と報道意欲の源泉なのだ。だとすれば――

(そうだわ…!プレオープンだけでなくていい。開幕後の万博開催期間内にも、影響力のある、本当に文化を理解しようとしてくれる人々だけを定期的に招き、 鳳凰殿という最高の空間で、日本の美意識の神髄を、五感を全て使って『深く特別な体験』をしてもらう。そして、その衝撃を、彼ら自身の言葉で世界に発信してもらうのだ!)
(これだわ…!)

桐島の脳裏に、まるで暗闇に一条の光が差し込んだように、鮮やかな突破口が開けた。
だが、まだ何か決定的なピースが足りない気がした。 体験は、記憶となり、やがて薄れていく。
もっと確かな何かが必要だ。 その答えを見つけきれぬまま、彼女はベンチから立ち上がった。
それでも、その目には、もはや迷いの色はなかった。確固たる決意の光が宿っていた。

「鳳凰殿特別懇話会」― 桐島は、まだ輪郭のぼやけたその構想に、ひとまずそう名付けた。
質の高い文化交流の場を設ける。
日本の美を本当に理解しようとする者、そしてその価値を発信する力のある者にだけ、その神聖な空間を開く。
この方向性こそが、日本館の広報戦略を変える鍵となる――彼女は、そう信じていた。

◇8-3【大冒険の戦利品と一つの確信】

その夜、シカゴの宿の一室。 一行の「たまり場」となっている、こぢんまりとした談話室のテーブルでは、 ガス灯の柔らかな光の下、ささやかな「英語の勉強会」が開かれていた。

「…しー…しっぷ…?」
舞妓の市乃が、小さな辞書とにらめっこしながら、覚えたての単語を懸命に発音しようと、唇を尖らせる。
「違います、市乃さん。舌を上の歯の裏に当てて…『Ship』」 桐島に代わって、大野健吾が、生真面目な顔で発音の手本を示していた。 彼もまた、この機会に自らの語学力を少しでも高めようと、熱心に勉強会に参加しているのだ。
その様子を、市駒が、面白そうに、しかし厳しい目で観察している。

「日が暮れて、もうずいぶん経ちますなあ…」
市駒が、ぽつりと呟き、時計を見上げた。昼過ぎに「少し会場の様子を見てくる」と一人で出ていった桐島が、まだ戻らないのだ。

その時だった。ガチャリ、とドアが開いたかと思うと、一人の女性が、まるで遭難者のように、ほうほうの体で部屋に転がり込んできた。 桐島文子だった。
いつもは完璧に結い上げられている髪は少し乱れ、 その顔には、疲労と、しかし妙な達成感が混じり合った、不思議な表情が浮かんでいる。

「桐島さん! ご無事でしたか!」
大野が、思わず椅子から立ち上がる。
「日が暮れても戻られないので、いよいよ市警に捜索願を出すところでしたよ!」

その、半分本気、半分冗談の言葉に、桐島は、バツが悪そうに顔を赤らめた。
「ご、ごめんなさい、大野さん…。少し考え事をしながら歩いていたら、その…万博会場は、京都のように、碁盤の目では、ないのですね…」

言い訳にもならないその言葉に、市駒が思わず「ふふっ」と吹き出し、市乃もつられて笑い出す。
張り詰めていた部屋の空気が、一気に和らいだ。

「そ、そんな、私の大冒険の、ささやかな戦利品ですわ」
桐島は、照れ隠しのようにそう言うと、懐から小さな紙包みを取り出し、三人の前に、一つずつ置いた。
包みを開くと、中から現れたのは、ずっしりと重みのある、銀色の記念コインだった。
万博に参加している、 とあるヨーロッパの小国の紋章が、精緻なレリーフで刻まれている。

「これは…ありがとうございます、桐島さん。大切にいたします」
大野が、深く頭を下げて受け取る。
「まあ、綺麗な細工(さいく)どすなあ」
市駒は、その彫りの深さや仕上げの美しさを、玄人らしい視点で見つめている。

とりわけ、その小さな輝きに心を奪われたのは、市乃だった。
彼女は、受け取ったコインを、まるで宝物のように両手で包み込むと、 その輝きに、感嘆の声を漏らした。
「わあ…。きれえ…」
彼女は、コインをランプの光にかざし、その銀色の輝きに目を細める。
そして、刻まれた紋章の凹凸を、確かめるように、小さな指先で、何度も、何度も、 そっとなぞった。
その瞳は、昼間に見たどんな壮麗な建物よりも、 この小さな一つの輝きに、心を奪われているかのようだった。

桐島文子は、その市乃の姿を、微笑みながら、じっと見つめていた。
昼間の大冒険の末に、彼女の脳裏で生まれた、特別懇話会という戦略。
その最後のピースが、今、この光景によって、カチリと音を立ててはまった気がした。

(そう、これだわ…!)
彼女は、心の中で叫んだ。
(これこそが、言葉を超えて、人の心を動かす『モノ』の力。壮麗な建築も、感動的な舞も、いつかは記憶の中で薄れてしまうかもしれない。 でも、この小さな、手の中に残る確かな輝きは、今日のこの高揚を、永遠にその人の心に留めてくれる!)
(私たちの『特別懇話会』に、この熱を持ち帰ってもらうための、 確かな『証(あかし)』が必要だったんだわ…!)

市乃の純粋な喜びが、桐島のひらめきを、絶対的な戦略へと完成させた。
それは、シカゴの安宿での、ささやかで、しかし何よりも温かい、次なる一手へと繋がる、運命的な出来事だった。

◇8-4【哲学の探求、あるいは査定】
あの日、桐島文子に鮮やかな反論を受けたジュリエット・ロシュフォールは、 それで引き下がるような女ではなかった。
むしろ、彼女の心には火がついていた。あの東洋の女性は、自分がこれまで出会ったどの人間とも違う。
その柔らかな物腰の奥に隠された、鋼のような知性と揺るぎない信念。
それを、今度こそ完全に打ち砕いてみたい。その抗いがたい衝動に、彼女は駆られていた。
それからの数週間、ジュリエットはまるで鳳凰殿に棲みついた美しい亡霊のように、執拗に日本館の周囲を嗅ぎまわった。
彼女の取材対象は、もはや建物そのものではなかった。
その「魂」とやらを解剖すべく、日本の職人たちや、二人の芸妓へと、その鋭利な矛先を向けたのだ。

ある日の午後、休憩中の職人頭、久留正道に、ジュリエットは通訳を介して話しかけた。
「ムッシュ・クル。あなた方のその木組みの技術、確かに興味深いものです。 ですが、これほどの時間と手間をかけて、結局は石の建築のような恒久性は得られない。その事実を、虚しいとは思いませんこと?」

久留は、汗を拭う手ぬぐいを肩にかけると、ぶっきらぼうに、しかしはっきりと答えた。
「……嬢ちゃん。わしらは、石ころみてえに千年変わらんもんを作ってるんじゃねえ。 木と同じように、千年かけて、静かに、美しく朽ちていくもんを作ってんだ。その違いが分からんやつに、話すこたあ、何もねえ」

その、哲学問答のような答えに、ジュリエットは眉をひそめた。
合理主義の彼女には、それはただの職人の頑固な言い訳にしか聞こえなかった。

またある日には、舞の稽古を終えた市駒と市乃に、彼女はインタビューを試みた。
「マドモゼル・イチコマ。あなた方のその舞は、常に顔を伏せ、感情を抑制しているように見えます。なぜ、もっとバレエのように、天に向かって自らを解放し、個性を表現しないのですか? それは、男性社会への従属の表れではありませんこと?」

その挑発的な問いに、市駒はふっとあでやかに微笑んだ。
「ジュリエット様。うちらは、自分を殺してるんやおへん。むしろ、自分という小さな器を空っぽにして、もっと大きな、この京の都が千年もかけて育んできた『美』そのものに、この身を捧げてるんどす。自分を叫ぶのが西洋の華なら、自分を消して、もっと大きなものと一つになるのが、うちたちの華なんどすえ」
その言葉もまた、ジュリエットの理解を超えていた。
「個」の確立こそが近代の証であると信じる彼女にとって、それは東洋的な、前近代的な精神論に過ぎなかった。

相容れない二つの文明が、シカゴの乾いた風の中で真っ向から対峙していた。
ジュリエットは、自分がこの後、この「理解不能な言葉」に心を揺さぶられることになるとは、まだ知る由もなかった。