シカゴを舞う京の鳳凰~あなたの財布で眠っている130年の誇り ―

◇7ー1【鳳凰殿、未完成の選択、焦燥とひらめきの狭間】

「どうすれば…この状況を、打開できるの?」
中村栄助会長からシカゴでの広報に関する一切を託されたとはいえ、この物理的な建設の遅延という現実は、いかんともしがたい。
ホテルの薄暗い一室で、連日山のような報告書や現地の新聞記事と格闘していた桐島は、もはや打つ手なしという閉塞感に、息が詰まる思いだった。

ガス灯と、そこかしこで目新しい光を放つ電灯が織りなす光の洪水は、まるで彼女の焦燥を嘲笑うかのように、きらびやかで、そして無関心に見えた。

その中で、ふと彼女の脳裏に、ある光景が鮮烈に、そして唐突に蘇った。
それは、数年前、取材で訪れた京都の小さな工房での記憶だった。 日本の伝統工芸の真髄に触れたいと、紹介を頼りに訪ねたその場所で、桐島は一人の年老いた指物師(さしものし)の手仕事を、瞬きも忘れて見入っていた。

仄暗い工房で、老職人が祈るように鑿を振るい、鉋をかける。硬質な木肌から繊細な組子細工が生まれる。
その無駄のない所作と静寂の中の音だけが響く光景。

完成されたものの美しさだけでなく、気の遠くなるような時間と、技を重ねることで生まれる精神の高まり、 それこそが日本文化の魂なのではないか――桐島文子はそのとき、肌が粟立つほど強くそう感じたのだ。

その工房の光景は、桐島の胸の奥深くに眠っていた何かを激しく揺さぶった。
そして今、シカゴの窓の外に広がる、目まぐるしく変化する光の波を見つめながら、 あの時の感覚と問いが、まるで稲妻のように彼女の脳髄を貫いた。  
まるで雷に打たれたように、彼女の中で全ての思考が結びついた。桐島は息を呑み、窓辺から勢いよく立ち上がった。 暗闇の中で走り続けていた問題の糸が、一瞬にして鮮やかな模様を織りなし、明確な答えを示したかのようだった。

◇7ー2【未完の美と発想の転換】

翌朝、まだ薄暗い建設現場の事務所で、桐島は久留正道と大野健吾を前に、 その驚くべき提案を切り出した。 そ
の声には、夜を徹して考え抜いたであろう確信がこもっていた。

「久留先生、大野さん。鳳凰殿がプレオープンに間に合わないのであれば、いっそ、この未完成の鳳凰殿、 そして日本の職人たちが懸命に作業に打ち込む姿、その建設過程そのものを、ありのままの記録としてマスコミに公開しませんか? プレオープンでは、完成品を誇示するのではなく『日本の魂が、シカゴの地でまさに形になろうとしている物語』を見せるのです!」

その言葉に、大野は驚きに目を見開き、 久留は吊り上がっていた眉をさらに険しくさせた。

「馬鹿なことを言うな、桐島さん!」

久留の声には、怒気と共に、彼女の常識外れな発想への侮蔑が込められていた。

「職人の誇りとして、完成したものしか人様にはお見せできん! まだ骨組みも露わな、我々の苦闘する姿を、 物見高い異人の好奇の目に晒すなど、日本の職人の名折れ!断じて許さん!」

「しかし、久留先生!」
桐島は一歩も引かなかった。その声は、静かだが、揺るぎない。

「このままでは、プレオープンで私たちは何も世界に示すことができず、ただの準備不足と嘲笑されるだけです。 他国の壮麗なパビリオンが華々しくその完成を報道される中、日本だけが沈黙していては、それこそ大きな出遅れとなります。 完成品を見せられないという現実を逆手に取り、完成に至る真摯な過程そのものを、日本の技術の粋として発信するべきではないでしょうか?」

「西洋人に、そんなものが理解できるとでも!? 我々の血の滲むような努力を、職人の誇りを、異人の見世物にするというのか! あんたになら、分かってもらえると思うてたが…!心底、がっかりしたぞ!」
久留の額に青筋が浮き立つ。

「理解させるのです!」
桐島の声に、熱がこもる。
「私の言葉で、そして彼らの目で。これは確かに賭けかもしれません。 しかしプレオープンで何もしなければ、私たちはただ出遅れるだけです!」

大野は、二人の間に激しく飛び交う火花を、息を詰めて見守っていた。彼の心の中は、まさに二つの戦場と化していた。
桐島さんの言うことは、広報戦略として、そしてこの行き詰まった状況を打開する一手として、この上なく合理的で、そして正しい。このまま沈黙すれば、日本は世界の舞台で戦う前に敗北する。

だが、西陣の血を引く者として、久留先生の怒りもまた、痛いほどに分かるのだ。
何十年とかけて磨き上げた技、 完成したものの内にのみ宿ると信じる魂、そしてそれを衆目に晒すことへの深い屈辱。
それは、この国の職人が、千年にわたって受け継いできた矜持(きょうじ)そのものだった。
革新か、伝統か。どちらが正しいのではない。どちらもが、日本の誇りを守るための、譲れない正義なのだ。

彼女の鋭い視線は、久留の職人としての誇りと激しくぶつかり合った。日本建築は、完成をもって初めて美を成す。
それを途中経過で、しかもその苦闘ぶりまで公開するなど、久留の美学には到底受け入れられない提案だった。

「新聞記事になることが、そんなに重要なのか? 我々はただ、良いものを作る。 それだけだ」

職人たちの間から、不満げな声が漏れた。しかし、桐島は一歩も退かない。
「鳳凰殿はただの美しい建築物ではございません。それは、千年の都・京都の祈りであり、再生への願いであり『物語』そのものなのです。 その物語を、私たちは伝えなければなりません!」

彼女の言葉には、確固たる信念と、それを実現せんとする凄まじいまでの気迫が込められていた。

どちらの正義も、大野には否定できなかった。プレオープンに間に合わないという重い現実、そして桐島の、常識を覆す大胆な提案。その言葉の重みを前に、久留の表情は苦悩に歪んだままだった。
そして、ついに久留が重く、絞り出すような声で口を開いた。

「……わしらの仕事の邪魔だけは、絶対にするな。そして、もしこれが日本の恥を世界に晒すような結果になったら…その時は…」

渋々ながらも、彼は桐島の提案を、明確な言葉ではないにしろ、黙認した。
だがその顔には明確な怒りと不快感、そして屈辱感が浮かんでいる。

職人たちの間にも「異人向けの見世物にされるのか」 「我々の技が正しく伝わるのか」と反発と不安の声が広がり、桐島への不信感が膨らみつつあった。

それでも彼女は、一歩も退くことなく、胸を張っていた。
これは、日本が世界の舞台で自らの価値を証明するための、避けては通れない挑戦だった。
彼女はこの逆境の中でこそ、日本の真の強さが試されるのだと信じていた。

しかし久留の怒りは決して収まることはなかった。
彼は最後まで不満げな表情を崩さず、作業に戻ると、無言で、 しかし普段にも増して厳しい指示を職人たちに飛ばし続けた。
職人たちもまた、どこか刺々しい、そして諦めにも似た空気の中、黙々と手を動かしている。

プレオープンが刻一刻と迫る中、 この桐島の「賭け」とも言える決断が、果たして吉と出るのか、それとも凶と出るのか。 それはまだ、誰にも予測できなかった。
しかし日本が沈黙し、何も示せぬままプレオープンを迎えることだけは、絶対に避けなければならなかったのだ。

◇7ー3【異国の視線、賭ける想い】

プレオープン開始から3日目の4月17日。
桐島は懇意にしていたシカゴ・トリビューン紙のベテラン記者、ジョン・マクレガーと、 新進気鋭の報道写真家、アリス・ハミルトンらなど、人数を絞って鳳凰殿の建設現場へと案内した。

桐島は、木組みの精巧さ、職人たちの真摯さ、久留の設計に込めた日本の美意識と魂を、情熱的な英語で解説した。
単なる作業風景ではなく、そこに息づく「物語」――なぜ日本が鳳凰殿をシカゴに建てるのか、それが象徴するもの、職人たちの誇りを語った。

「これは単なる建築現場ではありません。 遠い東洋の国から海を越えてきた文化の魂が、今まさにこのシカゴの地で、 多くの困難を乗り越え、新しい命を得ようとしている、その奇跡の瞬間なのです」と。

マクレガー記者は、最初こそ半信半疑で、どこかアジアの小国の苦し紛れのPRかと冷たい視線を向けていたが、 桐島の熱意のこもった説明と、目の前で繰り広げられる日本の職人たちの、まるで神業のような手仕事に、次第にその表情を変えていった。  
写真家アリス・ハミルトンは、鑿を振るう老職人の険しい横顔や、 夕日に照らされる未完の鳳凰殿のシルエットをレンズに収めた。ファインダー越しに、単なる労働ではない、神秘的なまでの献身を感じ取っていた。

「…個人的には、非常に興味深い試みだ。ミズ・キリシマ」 取材を終えたマクレガーが、ようやく重い口を開いた。
「しかしまだ出来上がってもいない建物を、記事にする価値があるのかどうか… それは、残念ながら編集部が判断することだ。期待はしない方がいいかもしれん」
その言葉に、桐島は内心息を詰めたが、表情には出さず、深々と頭を下げた。
「本日はお越しいただき、誠にありがとうございました。私たちのこの挑戦が、少しでもシカゴの皆様にお伝えできれば幸いです」

去りゆく彼らの背中を、桐島は祈るような想いで見送った。放たれた言葉が、巨大な万博の喧騒を突き抜け、誰かの心に届くのか。
今はただ、この未完の柱にすべてを託し、奇跡を信じるしかなかった。