◇6ー1【迫る期日、鳳凰殿の完成遅延】
シカゴ万博プレオープンを六日後に控えた、明治26年(1893年)4月9日。
桐島文子と大野健吾は、日本チームが直面している最大の懸念をその目で確かめるため、鳳凰殿の建設現場へと足を運んだ。
現場は、一見、活気に満ちているように見えた。
しかし、職人たちの顔には、連日の過酷な作業による疲労が深い影を落とし、槌を振るうリズムには焦りが混じっていた。
現場責任者の建築家・久留正道は、作業場の中心で、腕を組み、眉間に深い皺を寄せて天を仰いでいた。
「久留先生、進捗はいかがですか?プレオープンまで、あと一週間もありませんが…」
桐島が声をかけると、久留はゆっくりと彼女に視線を向け、無言で手招きをした。
彼が指し示した先には、巨大な屋根を支えるはずの一本の梁(はり)が、横たえられていた。その中央に、ぱっくりと口を開けたような亀裂が走っている。
「これだ、桐島さん。日本の繊細な木材は、この大陸の乾燥した気候に耐えられんものもある。それに長い船旅の揺れが、これほどの傷をつけた…」
久留は、まるで怪我をした我が子を撫でるかのように、その亀裂にそっと手を触れた。
「この傷を直し、歪みを正すには、熟練の技と時間が必要だ。だが今の我々にはそのどちらも足りん…」
その時だった。
「違う、そうじゃない!そこは、そんな乱暴に扱う場所じゃねえんだ!」
少し離れた場所から、日本の若い大工の、喉を引き裂くような声が響いた。
見ると数人のアメリカ人作業員が、日本の大工の制止も聞かず、繊細な組木細工の部材を、ただの薪(まき)のように無造作に持ち上げようとしている。
「奴らに『呼吸』を合わせろと言うのが、どれだけ無駄か…」
久留が、吐き捨てるように言った。
「我々の仕事は、ただ釘を打てばいいというものではない!木が鳴き、呼吸し、互いに支え合う、その理(ことわり)を分からぬ者には、この鳳凰殿は建てられんのだ!」
そのやり場のない激情と、出口の見えない状況を、桐島たちはただ立ち尽くして見つめるしかなかった。
ふと、大野が、低い声で桐島に告げる。
「桐島さん…あちらを」
彼が指差す先には、他の国のパビリオンの建築家や、新聞記者らしき数人の男たちが、こちらを指差しながら、口元に薄笑いを浮かべ、ひそひそと何かを話しているのが見えた。
「日本館はプレオープンの4月15日に間に合わないのでは?」
そんな噂が、もう万博会場全体に煙のように広がっているのだ。
プレオープンで国際メディアの話題にならなければ、京都の、日本の想いに応えられない。
日本だけが、この華やかな世界の舞台から、取り残されてしまう――。
その重圧が、まるで冷たい鉛の塊となって、桐島の胃の腑にずしりと沈んだ。
◇6ー2【シカゴの嵐、凍える翼たち】
その嵐は、まるで溜まりに溜まったシカゴ中の苛立ちが、一気に天から叩きつけられたかのようだった。
明治26年(1893年)4月、プレオープンを目前に控えたある夜。
ミシガン湖から吹き付ける暴風は、この新興都市が誇る摩天楼の合間を、まるで飢えた獣のように咆哮しながら吹き荒れた。
窓ガラスはガタガタと不気味な音を立てて震え、叩きつけるような雨は、街の喧騒を全て洗い流し、世界から音を奪っていく。
その夜、日本館チームが宿舎としているホテルの、こぢんまりとした談話室は、外の嵐とは対照的に、呼吸音さえ聞こえないほど静まり返っていた。
いや、その静寂は外の嵐以上に冷たくそして鋭い棘を内に秘めていた。
誰もが、口を閉ざしていた。テーブルのあちこちで、数人の職人たちが、手慰みに道具の手入れをしながらも、その目は虚空を見つめている。
彼らの間には、日中の現場でアメリカ人作業員たちと交わした、言葉の通じぬ怒鳴り合いの熱が、まだ皮膚の下で燻(くすぶ)っていた。
「……気に食わねえ。何もかもだ」
ぽつりと、若い大工の一人が、鑿(のみ)を磨く手を止めて吐き捨てた。
「言葉は通じねえ、木の心も分からねえ。あいつらアメリカ人は、俺たちの仕事を、ただの力仕事だと思ってやがる。あんな連中と肩を並べて、本当に鳳凰殿が建つってのかよ」
その言葉に、誰も反論しない。皆が、同じ思いを噛み締めていたからだ。
募る疲労と焦り、そして何よりも、自分たちの誇りである「技」が、この国では全く理解されないという徒労感が、彼らの指先から力を奪っていた。
部屋の隅のソファでは、大野健吾が、分厚い会計帳簿を睨みつけていた。
だが、その目は、数字の上を滑るだけで、何一つ頭に入ってはこない。
彼の視界を覆っているのは、膨れ上がる追加経費の数字と、
日に日に深くなる職人たちの眉間の皺、そして、頬がこけていく桐島文子の横顔だった。
(俺は、何もできていない……)
中村会長から「皆を守り、この大事業を成功へと導く、重要な礎だ」とまで言われた己の無力さ。
その自責の念が、見えない鎖となって彼の全身を椅子に縫い付けていた。
その、冷え切った空気の中で、市駒だけが、背筋を伸ばし、能面のような表情で座していた。
彼女は、膝の上で固く拳を握りしめたまま、部屋の隅の一点を見つめている。
彼女の視線の先――そこは、談話室に隣接する、小さな化粧室へと続く扉だった。
もうずいぶん長い間、その扉の向こうから、人の気配がしない。
(…あの子)
市駒の胸に、焼きごてを当てられたような痛みが走る。
桐島文子もまた、窓辺に立ち、外の嵐を眺めながら、この部屋を支配する重苦しい沈黙に、ただ耐えていた。
リーダーとして、皆を鼓舞しなければ。何か、前向きな言葉をかけなければ。
そう頭では分かっていながら、喉が干からびて、声が出ない。
建設の遅延、予算の超過、そして次々と突きつけられる運営側からの厳しい要求。
ジュリエットとの論戦は、彼女の精神を研ぎ澄ませると同時に、その神経をやすりのように削り取っていた。
(私が、皆をここまで連れてきてしまった……)
このプロジェクトが、もし失敗に終われば・・・
それは、中村会長の、京都の人々の夢を裏切るだけでなく、
この異郷の地で必死に戦っている、仲間たちの人生をも狂わせてしまう。
その重圧が、嵐の夜の湿った空気と共に、彼女の肺を圧迫し、呼吸を浅くさせていた。
その、張り詰めた静寂を、最初に破ったのは、喉の奥で押し殺したような、しゃくりあげる音だった。
全員が、はっと顔を上げる。声は、市駒がずっと見つめていた、あの化粧室の扉の向こうから、漏れ聞こえてきていた。
市駒は、弾かれたように立ち上がると、数歩で扉の前まで進み、低く、腹の据わった声で言った。
「市乃、いつまでそこにいるつもりや。出てきなさい」
返事はない。ただ、声を必死に飲み込もうとする、衣擦れの音が聞こえるだけだ。
市駒が、短く息を吐き、ゆっくりと扉を開ける。
そこにいたのは、化粧台の前にうずくまり、肩を、小さく震わせている、市乃の姿だった。
彼女の顔は、涙と白粉と紅とが混じり合い、無残な有様になっていた。
「…ごめんなさい、姉さん……ごめんなさい……」
市乃は、顔も上げられないまま、掠れた声で繰り返した。
「うち、もう、分かりまへん……。お稽古しても、お座敷と違うて、誰もうちの舞の本質を見てくれる気がしまへん…。うちは、ただの物珍しいお人形さんなんどすか…? 京の舞妓としての誇りも、もう何も……」
慣れない食事、眠れない夜、そして何より、自分たちの文化とは全く異なる世界での、値踏みされるような日々と、プレッシャー。
まだ十代の少女の心は、限界を超えて軋みを上げていた。
その痛ましい姿に、職人たちはかける言葉もなく、気まずそうに目を伏せた。
大野は、唇を血が滲むほど固く噛み締め、拳を握る。
そして市駒は、ただ黙って、震える妹弟子の肩を、見つめているだけだった。
誰もが無力だった。誰もが自分のことで精一杯だった。
チームという形を保っていた糸が、今、ぷつりと切れた音がした。
桐島は、その光景を、視界が暗く滲むような思いで見つめていた。
(…プレオープンに出遅れることは確実。それもあって雰囲気がよくないわ)
リーダーとしての自信も、このプロジェクトへの希望も、全てが、外の嵐に吹き飛ばされ、砂粒のように消え去っていくようだった。
だが、その、思考の暗闇の底で。桐島の脳裏に、ふと、遠い昔の記憶が明滅した。
それは、父に連れられてアメリカへ渡る、嵐の船上でのこと。
船酔いと不安で泣きじゃくる幼い自分に、父がたった一杯の、温かいスープを差し出してくれた。
その無骨な手と、優しい眼差し。そしてその一杯が、冷え切った内臓をどれほど温め、震えを止めてくれたか。
(……私に、今できることは)
桐島は顔を上げた。 その瞳にはもはやリーダーとしての気負いも、戦略家の鋭さもなかった。
ただ、目の前で凍え、傷ついている仲間たちを、何とかして温めたいという、 素朴で、そして切実な衝動だけが残っていた。
彼女は、泣きじゃくる市乃の元へ、ゆっくりと歩み寄った。
そして、その小さな肩に、そっと手を置くと、できるだけ穏やかな声で、部屋にいる全員に、語りかけた。
「……皆さん。今夜はもう仕事のことも、万博のことも全て忘れましょう」
そのあまりにも場違いな言葉に、全員が、訝しげに彼女の顔を見る。
桐島は、精一杯の、しかし口元が引きつりそうな笑顔を、皆に向けた。
「こんな嵐の夜は、ただ温かいものを、皆で一緒にいただくのが一番ですわ。 幸い、厨房には、まだ少しだけ食材が残っておりました。…もし、よろしければ、わたくしが、今夜は腕を振るわせていただいても、よろしいでしょうか?」
それは、ささやかで、そして突拍子もない提案だった。
だが、その言葉にはこの凍てついた空気を、何とかして変えたいという、桐島文子の必死の祈りが込められていた。
誰もが戸惑い、答えられずにいる中、ただ大野だけが彼女の真の意図を察し、静かに、しかし力強く頷いた。
◇6ー3【一杯のスープと、それぞれの独白】
桐島の、ほとんど祈るような提案に、談話室の誰もが視線を彷徨わせていた。
だが、その場の澱んだ空気を破ったのは、意外にも、それまで最も険しい顔をしていた職人頭の久留正道だった。
「……好きにしろ」
その、ぶっきらぼうな一言が、承諾の合図となった。
それからの小一時間、談話室には、それまでとは違う、どこかぎこちない物音が響き始めた。
桐島と大野がホテルの厨房から借りてきた大きな鍋。野菜を刻むリズム。
そして、コトコトと、何かが煮える穏やかな音。
他の者たちも、手伝うでもなく、かといって部屋を出ていくでもなく、ただその様子を遠巻きに眺めていた。
やがて、質素だが、湯気の立つ温かい食事がテーブルに並んだ。
具沢山の野菜スープと、硬くなったパンをカリカリに焼いたものだけ。
それでも、ニンジンや玉ねぎの甘い香りが立ち上り、鼻腔をくすぐると、張り詰めていた肩の力が、ほんの少しだけ抜けた気がした。
桐島は、まだ目元を赤く腫らした市乃の手に、一番にスープの皿を渡した。
「さあ、市乃さん。まずは、温かいものを」
その優しい声に、市乃は小さく頷き、おずおずとスプーンを手に取る。
食事が始まっても、会話はなかった。 外では依然として嵐が猛威を振るい、時折、窓が叩きつけられるように鳴る。
その音を聞きながら、皆、黙々と、しかしどこか所在なげに、自分の皿の中のスープを見つめている。
(……ダメ、だったかしら)
桐島の胸の鼓動が早くなる。良かれと思ってしたことが、かえって皆の心をこじらせてしまったのかもしれない。
せっかくの温かいスープも、この氷のような沈黙の前では、すぐに冷めてしまいそうだった。
その張り詰めた糸を、ふっつりと断ち切ったのは市駒だった。
彼女は、自分のスープにはほとんど口をつけず、ただじっと隣で小さな背中を丸めてスープをすする市乃の横顔を見つめていた。
やがて、彼女は、諭すような、しかし腹に響く声で、ぽつりと言った。
「…市乃」
びくり、と市乃の肩が跳ねる。
「あんたが、今、つらいのはよう分かる。京の都とは何もかもが違う。 言葉も、気候も、人の目も。うちたちの芸事が、ここではただの物珍しい見世物でしかないように思えて、情けのうて、悔しいて……。そないな気持ち、痛いほど分かるえ」
市駒は、そこで一度、言葉を切った。そして自分の過去を、まるで古傷を開いて見せるかのように、静かに語り始めた。
「うちかてな、舞妓なりたての頃は、毎晩、布団の中で声を殺して泣いてたんや。 お師匠さんには毎日叱られ、おおきいお姉さんにはいけずされ、お座敷に出たら出たで、酔っ払ったお客さんに心ないこと言われてな。自分は、何のためにこんな辛い思いしてるんやろ、て。もう全部放り出して、田舎に帰ったろかて、百度も、千度も思うた」
その、意外な告白に、職人たちも、大野も、そして桐島も思わず箸を止めて顔を上げた。
いつも隙がなく、鉄壁に見える名妓・市駒の、初めて見せる綻(ほころ)びだった。
「せやけどな」
市駒は、市乃の瞳を、射抜くように見据えた。
「ある晩、お師匠さんが、うちの枕元に来て、こう言うてくれはったんや。 『市駒、あんたの舞には、まだ華がない。なんでか分かるか?』て。 うちが分からへん言うたら、 『それはな、あんたが、まだ本当の悔しさを知らんからや。お客さんの心ない言葉も、姉さんのいけずも、わてに叱られる理不尽も、その全部を、歯ァ食いしばって自分の肥やしにせな、本物の華は咲かへんのどすえ』て」
その言葉は市乃だけでなく、この部屋にいる全員の腹の底に重く響いた。
「…だから、市乃。泣くのは今晩だけにしとき。その涙はあんたの肥やしになる涙や。 せやけど、明日になったら、その悔しさを、全部、あんたの芸事にぶつけなはれ。 このシカゴの地で、うちらの舞がただの見世物やないてこと、あんた自身の舞で、証明したげるんや。それが、京の舞妓の、心意気というもんや」
市駒の言葉が終わっても、しばらく誰も口を開けなかった。
ただ、市乃の、静かにスープをすする音だけが、部屋に響く。 彼女はもう泣いてはいなかった。
その小さな瞳に、師の言葉を飲み込み、再び前を向こうとする、か細い火が灯っていた。
その言葉に、久留の隣に座っていた年配の宮大工が、ふんと鼻を鳴らした。
「……芸事とは少し違うが」
彼はパンをスープに浸しながら、独り言のように呟いた。
「わしも、若い頃、師匠によう言われたもんだ。『手前ぇの仕事に、てめえの人生が、正直に出るんだ』てな。 今、俺たちが作ってる鳳凰殿にも、このシカゴでの悔しさやもどかしさその全部が、きっと刻み込まれてるんだろうよ。 …だとしたら、そいつはきっと、ただ綺麗ぇなだけの建物より、よっぽど、人の心を打つものができるにちげえねえ」
それは同意ではなく、職人としての意地だった。
その言葉に、堰を切ったように、大野健吾が続いた。
「…私の実家は、西陣でございます」
彼は、詳しく語ったことのない、自らの身の上を、ぽつりぽつりと語り始めた。
「子供の頃、西陣の街は、いつも機音(はたおと)で満ちておりました。それは、私にとって、故郷そのものの音でした。しかし、時代が変わり、年々、寂しくなっていく。私はそれが怖くて、家業を継がずに中村会長の元へ逃げた、ただの次男坊です」
彼の声が、かすれる。
「この鳳凰殿の計画を聞いた時、私はただ嬉しかった。 これで京都の日本の素晴らしい手仕事が、もう一度、世界に認められるかもしれんと。 兄が守る、あの西陣の機音が、もう一度、賑やかさを取り戻すかもしれんと……。 せやけど、ここへ来て、その難しさを、自分の無力さを、毎日、突きつけられております。皆さんに申し訳ない気持ちで、いっぱいです…」
次々と明かされる、仲間たちの、これまで決して見せることのなかった本音と、弱さと、そしてその奥にある、
切実な祈り。 桐島は、ただ黙って、その一つ一つの言葉を、自分の心に刻み込むように聞いていた。
(……そうだったのね。皆、ただ、仕事としてここへ来たのではなかった。 それぞれが、それぞれの人生を、故郷を、誇りを、この鳳凰殿に賭けていたんだわ……)
彼女は、自分が掲げてきた「日本の文化を世界へ」という、どこか理知的で、大きなスローガンが、今、目の前で語られる、一人一人の、体温を伴った物語の前で、少しだけ輪郭を失っていくのを感じた。
部屋の空気は、もはや氷点下ではなかった。 外の嵐の音は、変わらず激しい。
だが、この小さな談話室の中には、互いの傷を見せ合い、分かち合った者たちだけが醸し出す、独特の熱が漂い始めていた。
その熱に触れた時、これまで気丈に、そして完璧に振る舞い続けてきた桐島文子というリーダーの、心の壁が薄くなっていくようだった。
それでも職人たちが共感して涙するようなことはなかった。
ただスープを啜る手がわずかに止まり、桐島や大野の方をチラリと見ただけだ。
「……あんたらも、楽じゃねえってことか」
誰かがポツリと言った。それ以上の慰めも、励ましもなかった。
だが、その言葉には「敵ではない」と認める、わずかな響きが含まれていた
◇6ー4【心の鎧、涙の告白】
皆が、それぞれのやり方で、互いの痛みを分かち合おうとしていた。
その、不思議な空気が醸成される中で、ただ一人、桐島文子だけが、その輪から取り残されているかのようだった。
彼女は、ただ黙って、仲間たちの告白に耳を傾けていた。 時折、相槌を打ち、優しい笑みを浮かべてさえいた。
だが、その完璧な微笑みは、今のこの場所では、あまりにも痛々しいほど、浮いて見えた。
まるで、温かいスープの中に落ちた、溶けない氷のように。
その違和感に、最初に気づいたのは、大野健吾だった。彼は、いつも桐島文子の半歩後ろを歩き、その背中を見つめてきた。
だからこそ、分かったのだ。
今の彼女の姿が、リーダーとして気丈に振る舞っているのではなく、むしろ、薄氷の上で、必死に爪先立ちをしているだけなのだということを。
「……桐島さん」
大野が、意を決して、静かに声をかけた。
「あなたは、どうなのですか? あなたの故郷は、アメリカなのでしょう。 ご家族は、今も…」
その問いに、全員の視線が、自然と桐島へと集まった。
そうだ、我々は自分たちのことばかり話していたが、この、我々をここまで連れてきてくれたリーダーのことは、何も知らないではないか、と。
「……わたくし、ですか?」
桐島は、一瞬、呼吸を忘れたように目を見開いた。そして、いつものように、完璧な笑みを貼り付けようとする。
「わたくしは、大丈夫ですわ。父はアメリカで元気に過ごしておりますし、それに、わたくしの故郷は…」
そこまで言って、彼女の言葉が、ふと、途切れた。
(……私の故郷は、どこ?)
その問いが、まるで雷鳴のように、彼女の頭の中に響き渡る。 京都か? だが、帰国した時、あの街は、私の知る故郷ではなかった。
そして私は、あの街で「異邦人」だった。 では、アメリカか?
確かに、人生の半分以上を過ごした、慣れ親しんだ土地だ。 だが、そこでも、私は結局「日本人」でしかなかった。
嘲笑され、見下され、その度に、自分はここにいるべき人間ではないのだと、思い知らされてきた。
仲間たちの、純粋で、まっすぐな視線が、今の桐島には、何よりも痛かった。
彼らには、帰る場所がある。守るべき家族がいる。誇りに思う故郷がある。 だが、自分には?
これまで気丈に、そして完璧に振る舞い続けてきた、桐島文子というリーダーの、心の鎧に、ぴきりと亀裂が入ったのを、この時、大野と市駒は、確かに見て取った。
市駒が、そっと桐島の隣に寄り、その冷たくなった手に、自らの手を重ねた。
「文子様。あんた様、無理しすぎどす。うちたちの前でまで、そんな風に笑わんでも、よろしおすえ」
その母親のような手の温もりが、冷え切った心に触れた瞬間。 桐島の心の鎧は、ついに、音を立てて砕け散った。
「……ごめんなさい」
ぽつりと、彼女の唇から、言葉がこぼれ落ちた。 それは、硝子(ガラス)細工のように脆く震えていた。
「ごめんなさい……わたくし、本当は……」
次の瞬間、彼女の大きな瞳から、それまで決して人前では見せなかったはずの雫が、堰を切ったように溢れ出した。
「…本当は、ずっと、怖かったんです…!」
それは、この場にいる誰もが予想しなかった、彼女の、喉の奥からの叫びだった。
「このプロジェクトが始まってから、ずっと……。中村会長の、京都の皆さんの期待を、一身に背負って。 その重さに、毎晩、肺が押しつぶされそうになって……。もし、失敗したらどうしよう。 もし、皆さんの人生を、わたくしが台無しにしてしまったらどうしよう、て……!」
涙と共に、これまで心の奥底に封じ込めてきた、澱(おり)のような本音が、溢れ出してくる。
「アメリカで育ったわたくしのやり方が、ここでは、いつも否定されて……。 久留先生には、日本の心が分かっていないと叱られ、ジュリエットさんには、日本人でもアメリカ人でもない、借り物の言葉だと、見透かされて……。 わたくしが、日本のためにと信じてやってきたことの、全てが、空回りしているようで……!」
彼女は、顔をくしゃくしゃにしながら、目の前にいる仲間たちの顔を、一人、一人、見つめた。その瞳は、暗い森で迷った子供のようだった。
「わたくしには、あなたたちのように、確かな故郷がないのです。京都に帰れば、アメリカのやり方を押し付ける異邦人だと言われ、アメリカに帰れば、奇妙な東洋の女だと、好奇の目で見られる。わたくしには……わたくしが、心から『ただいま』と言って帰れる場所が、どこにも、ないのかもしれない……!」
それは、彼女が京都で書いた、あの誰にも見せることのなかった手紙に綴られた、本当の、そして身を切るような孤独の吐露だった。 リーダーとしてではなく、才媛としてではなく、ただの、傷つき、迷える一人の人間としての、生身の告白。
リーダーが弱さを見せる。 それを見た職人たちの間に、動揺がさざ波のように広がる。
「なんだ、あんたでも泣くのか」
「鉄の女かと思ってたが……」
しかし彼らは職人であり、感情で動く家族ではない。
沈黙の中、久留正道が重い腰を上げた。 彼は桐島の前まで歩いてくると、泣きじゃくる彼女を見下ろし、冷徹とも言える声で言った。
「……泣き言は済んだか、お嬢さん」
桐島がハッとして顔を上げる。久留の目に、同情の色はなかった。
あるのは、現場を預かる棟梁としての、厳しい現実認識だけだった。
「あんたに帰る場所がなかろうが、孤独だろうが、俺たちの知ったことじゃねえ」
その言葉に、大野が抗議しようと腰を浮かすが、久留は手で制した。
「だがな」
久留は、窓の外、嵐の闇の向こう側を顎でしゃくった。
「あんたが俺たちをここまで連れてきたんだ。俺たちは、あの鳳凰殿を建てる。それが俺たちの仕事だ。……あんたの仕事はなんだ?」
「……え?」
「泣くことか? 違うだろ」
久留は、不器用に、しかし腹に力を込めて言った。
「あんたの仕事は、俺たちが魂削って建てたもんを、世界中の人間に見せつけることじゃねえのか。俺たちは木で戦う。あんたは言葉で戦う。……そうだろ?」
それは、慰め合いの「家族ごっこ」ではなかった。
互いの領分を全うすることを誓い合う、プロフェッショナル同士の「契約」だった。
「……はい」
桐島は、涙を手の甲で乱暴に拭い、強く頷いた。
「はい、そうです。……必ず、伝えます。あなた方の仕事を、世界に」
「ならいい」
久留は背を向け、残りのスープを一気に飲み干した。
「食ったら寝ろ。明日は早えぞ」
部屋の空気は、以前のような氷点下ではない。 だが、熱帯のような馴れ合いでもない。
あるのは、嵐の中、同じ船に乗り合わせた者たちが、互いの背中を預け合う「休戦協定」のような、静かで、ピリリとした緊張感だった。
どれほどの時間が、過ぎただろうか。 ふと、誰かが呟いた。
「……雨が、あがったみてえだ」
その言葉に、全員が、はっとしたように窓の外を見た。
あれほど猛威を振るっていた嵐は、いつの間にか過ぎ去り、 雲の切れ間から、静かな月明かりが、談話室の中に差し込んできていた。
夜が、明けようとしていた。 東の空が、ほんのりと白み始めている。
嵐が過ぎ去った後の、シカゴの夜明け。
それは、これまで見たどんな朝焼けよりも、鮮烈に、そしてまぶしく見えた。
こうして彼らの「スープの夜」は終わった。
シカゴ万博プレオープンを六日後に控えた、明治26年(1893年)4月9日。
桐島文子と大野健吾は、日本チームが直面している最大の懸念をその目で確かめるため、鳳凰殿の建設現場へと足を運んだ。
現場は、一見、活気に満ちているように見えた。
しかし、職人たちの顔には、連日の過酷な作業による疲労が深い影を落とし、槌を振るうリズムには焦りが混じっていた。
現場責任者の建築家・久留正道は、作業場の中心で、腕を組み、眉間に深い皺を寄せて天を仰いでいた。
「久留先生、進捗はいかがですか?プレオープンまで、あと一週間もありませんが…」
桐島が声をかけると、久留はゆっくりと彼女に視線を向け、無言で手招きをした。
彼が指し示した先には、巨大な屋根を支えるはずの一本の梁(はり)が、横たえられていた。その中央に、ぱっくりと口を開けたような亀裂が走っている。
「これだ、桐島さん。日本の繊細な木材は、この大陸の乾燥した気候に耐えられんものもある。それに長い船旅の揺れが、これほどの傷をつけた…」
久留は、まるで怪我をした我が子を撫でるかのように、その亀裂にそっと手を触れた。
「この傷を直し、歪みを正すには、熟練の技と時間が必要だ。だが今の我々にはそのどちらも足りん…」
その時だった。
「違う、そうじゃない!そこは、そんな乱暴に扱う場所じゃねえんだ!」
少し離れた場所から、日本の若い大工の、喉を引き裂くような声が響いた。
見ると数人のアメリカ人作業員が、日本の大工の制止も聞かず、繊細な組木細工の部材を、ただの薪(まき)のように無造作に持ち上げようとしている。
「奴らに『呼吸』を合わせろと言うのが、どれだけ無駄か…」
久留が、吐き捨てるように言った。
「我々の仕事は、ただ釘を打てばいいというものではない!木が鳴き、呼吸し、互いに支え合う、その理(ことわり)を分からぬ者には、この鳳凰殿は建てられんのだ!」
そのやり場のない激情と、出口の見えない状況を、桐島たちはただ立ち尽くして見つめるしかなかった。
ふと、大野が、低い声で桐島に告げる。
「桐島さん…あちらを」
彼が指差す先には、他の国のパビリオンの建築家や、新聞記者らしき数人の男たちが、こちらを指差しながら、口元に薄笑いを浮かべ、ひそひそと何かを話しているのが見えた。
「日本館はプレオープンの4月15日に間に合わないのでは?」
そんな噂が、もう万博会場全体に煙のように広がっているのだ。
プレオープンで国際メディアの話題にならなければ、京都の、日本の想いに応えられない。
日本だけが、この華やかな世界の舞台から、取り残されてしまう――。
その重圧が、まるで冷たい鉛の塊となって、桐島の胃の腑にずしりと沈んだ。
◇6ー2【シカゴの嵐、凍える翼たち】
その嵐は、まるで溜まりに溜まったシカゴ中の苛立ちが、一気に天から叩きつけられたかのようだった。
明治26年(1893年)4月、プレオープンを目前に控えたある夜。
ミシガン湖から吹き付ける暴風は、この新興都市が誇る摩天楼の合間を、まるで飢えた獣のように咆哮しながら吹き荒れた。
窓ガラスはガタガタと不気味な音を立てて震え、叩きつけるような雨は、街の喧騒を全て洗い流し、世界から音を奪っていく。
その夜、日本館チームが宿舎としているホテルの、こぢんまりとした談話室は、外の嵐とは対照的に、呼吸音さえ聞こえないほど静まり返っていた。
いや、その静寂は外の嵐以上に冷たくそして鋭い棘を内に秘めていた。
誰もが、口を閉ざしていた。テーブルのあちこちで、数人の職人たちが、手慰みに道具の手入れをしながらも、その目は虚空を見つめている。
彼らの間には、日中の現場でアメリカ人作業員たちと交わした、言葉の通じぬ怒鳴り合いの熱が、まだ皮膚の下で燻(くすぶ)っていた。
「……気に食わねえ。何もかもだ」
ぽつりと、若い大工の一人が、鑿(のみ)を磨く手を止めて吐き捨てた。
「言葉は通じねえ、木の心も分からねえ。あいつらアメリカ人は、俺たちの仕事を、ただの力仕事だと思ってやがる。あんな連中と肩を並べて、本当に鳳凰殿が建つってのかよ」
その言葉に、誰も反論しない。皆が、同じ思いを噛み締めていたからだ。
募る疲労と焦り、そして何よりも、自分たちの誇りである「技」が、この国では全く理解されないという徒労感が、彼らの指先から力を奪っていた。
部屋の隅のソファでは、大野健吾が、分厚い会計帳簿を睨みつけていた。
だが、その目は、数字の上を滑るだけで、何一つ頭に入ってはこない。
彼の視界を覆っているのは、膨れ上がる追加経費の数字と、
日に日に深くなる職人たちの眉間の皺、そして、頬がこけていく桐島文子の横顔だった。
(俺は、何もできていない……)
中村会長から「皆を守り、この大事業を成功へと導く、重要な礎だ」とまで言われた己の無力さ。
その自責の念が、見えない鎖となって彼の全身を椅子に縫い付けていた。
その、冷え切った空気の中で、市駒だけが、背筋を伸ばし、能面のような表情で座していた。
彼女は、膝の上で固く拳を握りしめたまま、部屋の隅の一点を見つめている。
彼女の視線の先――そこは、談話室に隣接する、小さな化粧室へと続く扉だった。
もうずいぶん長い間、その扉の向こうから、人の気配がしない。
(…あの子)
市駒の胸に、焼きごてを当てられたような痛みが走る。
桐島文子もまた、窓辺に立ち、外の嵐を眺めながら、この部屋を支配する重苦しい沈黙に、ただ耐えていた。
リーダーとして、皆を鼓舞しなければ。何か、前向きな言葉をかけなければ。
そう頭では分かっていながら、喉が干からびて、声が出ない。
建設の遅延、予算の超過、そして次々と突きつけられる運営側からの厳しい要求。
ジュリエットとの論戦は、彼女の精神を研ぎ澄ませると同時に、その神経をやすりのように削り取っていた。
(私が、皆をここまで連れてきてしまった……)
このプロジェクトが、もし失敗に終われば・・・
それは、中村会長の、京都の人々の夢を裏切るだけでなく、
この異郷の地で必死に戦っている、仲間たちの人生をも狂わせてしまう。
その重圧が、嵐の夜の湿った空気と共に、彼女の肺を圧迫し、呼吸を浅くさせていた。
その、張り詰めた静寂を、最初に破ったのは、喉の奥で押し殺したような、しゃくりあげる音だった。
全員が、はっと顔を上げる。声は、市駒がずっと見つめていた、あの化粧室の扉の向こうから、漏れ聞こえてきていた。
市駒は、弾かれたように立ち上がると、数歩で扉の前まで進み、低く、腹の据わった声で言った。
「市乃、いつまでそこにいるつもりや。出てきなさい」
返事はない。ただ、声を必死に飲み込もうとする、衣擦れの音が聞こえるだけだ。
市駒が、短く息を吐き、ゆっくりと扉を開ける。
そこにいたのは、化粧台の前にうずくまり、肩を、小さく震わせている、市乃の姿だった。
彼女の顔は、涙と白粉と紅とが混じり合い、無残な有様になっていた。
「…ごめんなさい、姉さん……ごめんなさい……」
市乃は、顔も上げられないまま、掠れた声で繰り返した。
「うち、もう、分かりまへん……。お稽古しても、お座敷と違うて、誰もうちの舞の本質を見てくれる気がしまへん…。うちは、ただの物珍しいお人形さんなんどすか…? 京の舞妓としての誇りも、もう何も……」
慣れない食事、眠れない夜、そして何より、自分たちの文化とは全く異なる世界での、値踏みされるような日々と、プレッシャー。
まだ十代の少女の心は、限界を超えて軋みを上げていた。
その痛ましい姿に、職人たちはかける言葉もなく、気まずそうに目を伏せた。
大野は、唇を血が滲むほど固く噛み締め、拳を握る。
そして市駒は、ただ黙って、震える妹弟子の肩を、見つめているだけだった。
誰もが無力だった。誰もが自分のことで精一杯だった。
チームという形を保っていた糸が、今、ぷつりと切れた音がした。
桐島は、その光景を、視界が暗く滲むような思いで見つめていた。
(…プレオープンに出遅れることは確実。それもあって雰囲気がよくないわ)
リーダーとしての自信も、このプロジェクトへの希望も、全てが、外の嵐に吹き飛ばされ、砂粒のように消え去っていくようだった。
だが、その、思考の暗闇の底で。桐島の脳裏に、ふと、遠い昔の記憶が明滅した。
それは、父に連れられてアメリカへ渡る、嵐の船上でのこと。
船酔いと不安で泣きじゃくる幼い自分に、父がたった一杯の、温かいスープを差し出してくれた。
その無骨な手と、優しい眼差し。そしてその一杯が、冷え切った内臓をどれほど温め、震えを止めてくれたか。
(……私に、今できることは)
桐島は顔を上げた。 その瞳にはもはやリーダーとしての気負いも、戦略家の鋭さもなかった。
ただ、目の前で凍え、傷ついている仲間たちを、何とかして温めたいという、 素朴で、そして切実な衝動だけが残っていた。
彼女は、泣きじゃくる市乃の元へ、ゆっくりと歩み寄った。
そして、その小さな肩に、そっと手を置くと、できるだけ穏やかな声で、部屋にいる全員に、語りかけた。
「……皆さん。今夜はもう仕事のことも、万博のことも全て忘れましょう」
そのあまりにも場違いな言葉に、全員が、訝しげに彼女の顔を見る。
桐島は、精一杯の、しかし口元が引きつりそうな笑顔を、皆に向けた。
「こんな嵐の夜は、ただ温かいものを、皆で一緒にいただくのが一番ですわ。 幸い、厨房には、まだ少しだけ食材が残っておりました。…もし、よろしければ、わたくしが、今夜は腕を振るわせていただいても、よろしいでしょうか?」
それは、ささやかで、そして突拍子もない提案だった。
だが、その言葉にはこの凍てついた空気を、何とかして変えたいという、桐島文子の必死の祈りが込められていた。
誰もが戸惑い、答えられずにいる中、ただ大野だけが彼女の真の意図を察し、静かに、しかし力強く頷いた。
◇6ー3【一杯のスープと、それぞれの独白】
桐島の、ほとんど祈るような提案に、談話室の誰もが視線を彷徨わせていた。
だが、その場の澱んだ空気を破ったのは、意外にも、それまで最も険しい顔をしていた職人頭の久留正道だった。
「……好きにしろ」
その、ぶっきらぼうな一言が、承諾の合図となった。
それからの小一時間、談話室には、それまでとは違う、どこかぎこちない物音が響き始めた。
桐島と大野がホテルの厨房から借りてきた大きな鍋。野菜を刻むリズム。
そして、コトコトと、何かが煮える穏やかな音。
他の者たちも、手伝うでもなく、かといって部屋を出ていくでもなく、ただその様子を遠巻きに眺めていた。
やがて、質素だが、湯気の立つ温かい食事がテーブルに並んだ。
具沢山の野菜スープと、硬くなったパンをカリカリに焼いたものだけ。
それでも、ニンジンや玉ねぎの甘い香りが立ち上り、鼻腔をくすぐると、張り詰めていた肩の力が、ほんの少しだけ抜けた気がした。
桐島は、まだ目元を赤く腫らした市乃の手に、一番にスープの皿を渡した。
「さあ、市乃さん。まずは、温かいものを」
その優しい声に、市乃は小さく頷き、おずおずとスプーンを手に取る。
食事が始まっても、会話はなかった。 外では依然として嵐が猛威を振るい、時折、窓が叩きつけられるように鳴る。
その音を聞きながら、皆、黙々と、しかしどこか所在なげに、自分の皿の中のスープを見つめている。
(……ダメ、だったかしら)
桐島の胸の鼓動が早くなる。良かれと思ってしたことが、かえって皆の心をこじらせてしまったのかもしれない。
せっかくの温かいスープも、この氷のような沈黙の前では、すぐに冷めてしまいそうだった。
その張り詰めた糸を、ふっつりと断ち切ったのは市駒だった。
彼女は、自分のスープにはほとんど口をつけず、ただじっと隣で小さな背中を丸めてスープをすする市乃の横顔を見つめていた。
やがて、彼女は、諭すような、しかし腹に響く声で、ぽつりと言った。
「…市乃」
びくり、と市乃の肩が跳ねる。
「あんたが、今、つらいのはよう分かる。京の都とは何もかもが違う。 言葉も、気候も、人の目も。うちたちの芸事が、ここではただの物珍しい見世物でしかないように思えて、情けのうて、悔しいて……。そないな気持ち、痛いほど分かるえ」
市駒は、そこで一度、言葉を切った。そして自分の過去を、まるで古傷を開いて見せるかのように、静かに語り始めた。
「うちかてな、舞妓なりたての頃は、毎晩、布団の中で声を殺して泣いてたんや。 お師匠さんには毎日叱られ、おおきいお姉さんにはいけずされ、お座敷に出たら出たで、酔っ払ったお客さんに心ないこと言われてな。自分は、何のためにこんな辛い思いしてるんやろ、て。もう全部放り出して、田舎に帰ったろかて、百度も、千度も思うた」
その、意外な告白に、職人たちも、大野も、そして桐島も思わず箸を止めて顔を上げた。
いつも隙がなく、鉄壁に見える名妓・市駒の、初めて見せる綻(ほころ)びだった。
「せやけどな」
市駒は、市乃の瞳を、射抜くように見据えた。
「ある晩、お師匠さんが、うちの枕元に来て、こう言うてくれはったんや。 『市駒、あんたの舞には、まだ華がない。なんでか分かるか?』て。 うちが分からへん言うたら、 『それはな、あんたが、まだ本当の悔しさを知らんからや。お客さんの心ない言葉も、姉さんのいけずも、わてに叱られる理不尽も、その全部を、歯ァ食いしばって自分の肥やしにせな、本物の華は咲かへんのどすえ』て」
その言葉は市乃だけでなく、この部屋にいる全員の腹の底に重く響いた。
「…だから、市乃。泣くのは今晩だけにしとき。その涙はあんたの肥やしになる涙や。 せやけど、明日になったら、その悔しさを、全部、あんたの芸事にぶつけなはれ。 このシカゴの地で、うちらの舞がただの見世物やないてこと、あんた自身の舞で、証明したげるんや。それが、京の舞妓の、心意気というもんや」
市駒の言葉が終わっても、しばらく誰も口を開けなかった。
ただ、市乃の、静かにスープをすする音だけが、部屋に響く。 彼女はもう泣いてはいなかった。
その小さな瞳に、師の言葉を飲み込み、再び前を向こうとする、か細い火が灯っていた。
その言葉に、久留の隣に座っていた年配の宮大工が、ふんと鼻を鳴らした。
「……芸事とは少し違うが」
彼はパンをスープに浸しながら、独り言のように呟いた。
「わしも、若い頃、師匠によう言われたもんだ。『手前ぇの仕事に、てめえの人生が、正直に出るんだ』てな。 今、俺たちが作ってる鳳凰殿にも、このシカゴでの悔しさやもどかしさその全部が、きっと刻み込まれてるんだろうよ。 …だとしたら、そいつはきっと、ただ綺麗ぇなだけの建物より、よっぽど、人の心を打つものができるにちげえねえ」
それは同意ではなく、職人としての意地だった。
その言葉に、堰を切ったように、大野健吾が続いた。
「…私の実家は、西陣でございます」
彼は、詳しく語ったことのない、自らの身の上を、ぽつりぽつりと語り始めた。
「子供の頃、西陣の街は、いつも機音(はたおと)で満ちておりました。それは、私にとって、故郷そのものの音でした。しかし、時代が変わり、年々、寂しくなっていく。私はそれが怖くて、家業を継がずに中村会長の元へ逃げた、ただの次男坊です」
彼の声が、かすれる。
「この鳳凰殿の計画を聞いた時、私はただ嬉しかった。 これで京都の日本の素晴らしい手仕事が、もう一度、世界に認められるかもしれんと。 兄が守る、あの西陣の機音が、もう一度、賑やかさを取り戻すかもしれんと……。 せやけど、ここへ来て、その難しさを、自分の無力さを、毎日、突きつけられております。皆さんに申し訳ない気持ちで、いっぱいです…」
次々と明かされる、仲間たちの、これまで決して見せることのなかった本音と、弱さと、そしてその奥にある、
切実な祈り。 桐島は、ただ黙って、その一つ一つの言葉を、自分の心に刻み込むように聞いていた。
(……そうだったのね。皆、ただ、仕事としてここへ来たのではなかった。 それぞれが、それぞれの人生を、故郷を、誇りを、この鳳凰殿に賭けていたんだわ……)
彼女は、自分が掲げてきた「日本の文化を世界へ」という、どこか理知的で、大きなスローガンが、今、目の前で語られる、一人一人の、体温を伴った物語の前で、少しだけ輪郭を失っていくのを感じた。
部屋の空気は、もはや氷点下ではなかった。 外の嵐の音は、変わらず激しい。
だが、この小さな談話室の中には、互いの傷を見せ合い、分かち合った者たちだけが醸し出す、独特の熱が漂い始めていた。
その熱に触れた時、これまで気丈に、そして完璧に振る舞い続けてきた桐島文子というリーダーの、心の壁が薄くなっていくようだった。
それでも職人たちが共感して涙するようなことはなかった。
ただスープを啜る手がわずかに止まり、桐島や大野の方をチラリと見ただけだ。
「……あんたらも、楽じゃねえってことか」
誰かがポツリと言った。それ以上の慰めも、励ましもなかった。
だが、その言葉には「敵ではない」と認める、わずかな響きが含まれていた
◇6ー4【心の鎧、涙の告白】
皆が、それぞれのやり方で、互いの痛みを分かち合おうとしていた。
その、不思議な空気が醸成される中で、ただ一人、桐島文子だけが、その輪から取り残されているかのようだった。
彼女は、ただ黙って、仲間たちの告白に耳を傾けていた。 時折、相槌を打ち、優しい笑みを浮かべてさえいた。
だが、その完璧な微笑みは、今のこの場所では、あまりにも痛々しいほど、浮いて見えた。
まるで、温かいスープの中に落ちた、溶けない氷のように。
その違和感に、最初に気づいたのは、大野健吾だった。彼は、いつも桐島文子の半歩後ろを歩き、その背中を見つめてきた。
だからこそ、分かったのだ。
今の彼女の姿が、リーダーとして気丈に振る舞っているのではなく、むしろ、薄氷の上で、必死に爪先立ちをしているだけなのだということを。
「……桐島さん」
大野が、意を決して、静かに声をかけた。
「あなたは、どうなのですか? あなたの故郷は、アメリカなのでしょう。 ご家族は、今も…」
その問いに、全員の視線が、自然と桐島へと集まった。
そうだ、我々は自分たちのことばかり話していたが、この、我々をここまで連れてきてくれたリーダーのことは、何も知らないではないか、と。
「……わたくし、ですか?」
桐島は、一瞬、呼吸を忘れたように目を見開いた。そして、いつものように、完璧な笑みを貼り付けようとする。
「わたくしは、大丈夫ですわ。父はアメリカで元気に過ごしておりますし、それに、わたくしの故郷は…」
そこまで言って、彼女の言葉が、ふと、途切れた。
(……私の故郷は、どこ?)
その問いが、まるで雷鳴のように、彼女の頭の中に響き渡る。 京都か? だが、帰国した時、あの街は、私の知る故郷ではなかった。
そして私は、あの街で「異邦人」だった。 では、アメリカか?
確かに、人生の半分以上を過ごした、慣れ親しんだ土地だ。 だが、そこでも、私は結局「日本人」でしかなかった。
嘲笑され、見下され、その度に、自分はここにいるべき人間ではないのだと、思い知らされてきた。
仲間たちの、純粋で、まっすぐな視線が、今の桐島には、何よりも痛かった。
彼らには、帰る場所がある。守るべき家族がいる。誇りに思う故郷がある。 だが、自分には?
これまで気丈に、そして完璧に振る舞い続けてきた、桐島文子というリーダーの、心の鎧に、ぴきりと亀裂が入ったのを、この時、大野と市駒は、確かに見て取った。
市駒が、そっと桐島の隣に寄り、その冷たくなった手に、自らの手を重ねた。
「文子様。あんた様、無理しすぎどす。うちたちの前でまで、そんな風に笑わんでも、よろしおすえ」
その母親のような手の温もりが、冷え切った心に触れた瞬間。 桐島の心の鎧は、ついに、音を立てて砕け散った。
「……ごめんなさい」
ぽつりと、彼女の唇から、言葉がこぼれ落ちた。 それは、硝子(ガラス)細工のように脆く震えていた。
「ごめんなさい……わたくし、本当は……」
次の瞬間、彼女の大きな瞳から、それまで決して人前では見せなかったはずの雫が、堰を切ったように溢れ出した。
「…本当は、ずっと、怖かったんです…!」
それは、この場にいる誰もが予想しなかった、彼女の、喉の奥からの叫びだった。
「このプロジェクトが始まってから、ずっと……。中村会長の、京都の皆さんの期待を、一身に背負って。 その重さに、毎晩、肺が押しつぶされそうになって……。もし、失敗したらどうしよう。 もし、皆さんの人生を、わたくしが台無しにしてしまったらどうしよう、て……!」
涙と共に、これまで心の奥底に封じ込めてきた、澱(おり)のような本音が、溢れ出してくる。
「アメリカで育ったわたくしのやり方が、ここでは、いつも否定されて……。 久留先生には、日本の心が分かっていないと叱られ、ジュリエットさんには、日本人でもアメリカ人でもない、借り物の言葉だと、見透かされて……。 わたくしが、日本のためにと信じてやってきたことの、全てが、空回りしているようで……!」
彼女は、顔をくしゃくしゃにしながら、目の前にいる仲間たちの顔を、一人、一人、見つめた。その瞳は、暗い森で迷った子供のようだった。
「わたくしには、あなたたちのように、確かな故郷がないのです。京都に帰れば、アメリカのやり方を押し付ける異邦人だと言われ、アメリカに帰れば、奇妙な東洋の女だと、好奇の目で見られる。わたくしには……わたくしが、心から『ただいま』と言って帰れる場所が、どこにも、ないのかもしれない……!」
それは、彼女が京都で書いた、あの誰にも見せることのなかった手紙に綴られた、本当の、そして身を切るような孤独の吐露だった。 リーダーとしてではなく、才媛としてではなく、ただの、傷つき、迷える一人の人間としての、生身の告白。
リーダーが弱さを見せる。 それを見た職人たちの間に、動揺がさざ波のように広がる。
「なんだ、あんたでも泣くのか」
「鉄の女かと思ってたが……」
しかし彼らは職人であり、感情で動く家族ではない。
沈黙の中、久留正道が重い腰を上げた。 彼は桐島の前まで歩いてくると、泣きじゃくる彼女を見下ろし、冷徹とも言える声で言った。
「……泣き言は済んだか、お嬢さん」
桐島がハッとして顔を上げる。久留の目に、同情の色はなかった。
あるのは、現場を預かる棟梁としての、厳しい現実認識だけだった。
「あんたに帰る場所がなかろうが、孤独だろうが、俺たちの知ったことじゃねえ」
その言葉に、大野が抗議しようと腰を浮かすが、久留は手で制した。
「だがな」
久留は、窓の外、嵐の闇の向こう側を顎でしゃくった。
「あんたが俺たちをここまで連れてきたんだ。俺たちは、あの鳳凰殿を建てる。それが俺たちの仕事だ。……あんたの仕事はなんだ?」
「……え?」
「泣くことか? 違うだろ」
久留は、不器用に、しかし腹に力を込めて言った。
「あんたの仕事は、俺たちが魂削って建てたもんを、世界中の人間に見せつけることじゃねえのか。俺たちは木で戦う。あんたは言葉で戦う。……そうだろ?」
それは、慰め合いの「家族ごっこ」ではなかった。
互いの領分を全うすることを誓い合う、プロフェッショナル同士の「契約」だった。
「……はい」
桐島は、涙を手の甲で乱暴に拭い、強く頷いた。
「はい、そうです。……必ず、伝えます。あなた方の仕事を、世界に」
「ならいい」
久留は背を向け、残りのスープを一気に飲み干した。
「食ったら寝ろ。明日は早えぞ」
部屋の空気は、以前のような氷点下ではない。 だが、熱帯のような馴れ合いでもない。
あるのは、嵐の中、同じ船に乗り合わせた者たちが、互いの背中を預け合う「休戦協定」のような、静かで、ピリリとした緊張感だった。
どれほどの時間が、過ぎただろうか。 ふと、誰かが呟いた。
「……雨が、あがったみてえだ」
その言葉に、全員が、はっとしたように窓の外を見た。
あれほど猛威を振るっていた嵐は、いつの間にか過ぎ去り、 雲の切れ間から、静かな月明かりが、談話室の中に差し込んできていた。
夜が、明けようとしていた。 東の空が、ほんのりと白み始めている。
嵐が過ぎ去った後の、シカゴの夜明け。
それは、これまで見たどんな朝焼けよりも、鮮烈に、そしてまぶしく見えた。
こうして彼らの「スープの夜」は終わった。


