シカゴを舞う京の鳳凰~あなたの財布で眠っている130年の誇り ―

◇5-1【新大陸の奔流、京都の挑戦】

出発から一か月後の3月下旬。
ついに彼らはアメリカ合衆国、イリノイ州シカゴの地に降り立った。
駅を一歩出た瞬間、四人は思わず立ちすくんだ。

首が痛くなるほど見上げなければ天辺が見えない、石と鉄の摩天楼。
頭上を縦横無尽に駆け抜ける高架鉄道が、鼓膜を揺らす轟音を撒き散らして駆け抜けていく。
世界中から集まったであろう、あらゆる人種の坩堝(るつぼ)のような喧騒。
石炭の匂いと、様々な国の料理の香りが混じり合い、
英語だけでなく、ドイツ語、イタリア語、ポーランド語といった多種多様な言葉が、 嵐のように飛び交っている。

一行が、その圧倒的なまでの熱気に言葉を失い、通りを渡ろうとした、まさにその時だった。
「危ない!」
桐島の鋭い声と同時に、けたたましいエンジン音と黒煙を吐き出す鉄の塊― ―
『馬なし馬車』が、彼らのすぐ脇を猛スピードで走り抜けた。驚いた馬が嘶き、あたりは一瞬、混乱に包まれる。
そして、跳ね上げられた春のぬかるみが、無情にも、市乃の真新しい着物の裾に、黒い染みとなって飛び散った。

「あ…」
市乃は、恐怖とショックで、ただ汚れた裾を見つめて立ち尽くす。

大野が「い、一体、今の鉄の塊は…」と、呆然と呟く。
その問いに、桐島文子が、険しい表情で、短く答えた。

「…オートモビル。あるいは、『ホースレス・キャリッジ(馬なし馬車)』と 呼ばれているものですわ。私も、実際に街中を走っているのを見たのは、初めてです」

その言葉は、三人に何の説明にもならなかった。
ただ、自分たちが今いる世界が、自分たちの常識が全く通用しない、 恐ろしく新しい場所なのだという事実を、改めて突きつけるだけだった。

その騒ぎで、彼らは一気に衆目を集めてしまった。
美しい日本の着物をまとった東洋の女性二人は、この喧騒の街ではあまりにも異質だった。
人々は足を止め、隠そうともしない好奇の視線で、彼らをじろじろと眺め始める。
まるで、万博会場から抜け出してきた、異国の人形か何かのように。
その無遠慮な視線のシャワーを浴び、市乃は、恐怖と羞恥で、思わず市駒の袖の後ろに身を隠そうとした。
その小さな肩を、市駒が、ぐっと力強く掴んだ。
そして、顔を上げさせると、静かに、しかし鋼のような強さを込めた声で言った。

「市乃、顔をお上げ」
市乃が、おずおずと顔を上げる。
市駒はその若い舞妓の瞳を、そして自分たちを取り囲む全ての視線を、射抜くように見据えながら、続けた。

「見られたらええ。見世物で、結構どす」
その言葉に、桐島と大野も息をのむ。

「…せやけど」
市駒の口元に、ふっと、あでやかな、しかしどこか凄みのある笑みが浮かんだ。
「ただの見世物で終わらせしまへん。この視線の数だけ、京の魂を、日本の美を、一人残らず、その目に焼き付けさせたげるのどす。それが、うちたちの、ここでの戦い方や」

その宣言は、もはや単なる芸妓の矜持(きょうじ)ではなかった。
見られることを宿命とする者が、その宿命を逆手にとって武器とする、したたかで、誇り高い戦士の覚悟だった。
市乃の瞳から、怯えの色が消え、師と同じ、決意の光が灯る。

大野もまた、その近代的な都市の様に息をのみ、日本の現状とのあまりの落差に、改めてこの国で文化を発信することの困難さを感じていた。
「これが…世界か」
彼の呟きには、畏怖と、そして今や隣の女性たちが示した覚悟への、新たな武者震いが同居していた。

アメリカに慣れ親しんだ桐島文子でさえ、シカゴの巨大なエネルギーは予想を超えていた。
(ここで…本当に京都の繊細な美が通じるのか…)
一瞬よぎった不安を、彼女は強い意志で振り払う。そして、市駒と市乃の横顔を見た。
(いいえ、一人ではない。全員で日本文化を世界に伝える)
彼女たちの覚悟は、桐島の覚悟とも重なり、より大きく、そして強固なものへと変わっていた。
そのために、私たちはここへ来たのだ、と。

◇5-2【異国の華やぎ、日本の沈黙】

一行がまず目指したのは、ミシガン湖畔に広がるジャクソン公園、
その中の緑豊かなウデッド・アイランドに基礎工事を終え、ようやく柱や梁が組まれ始めたばかりの日本のパビリオン「鳳凰殿」の建設予定地であった。まだその全貌は、うかがい知れないものの、図面で見たあの優美な曲線を描くであろう屋根の骨組みの一部が、骨太な木材として青空に突き出ているのが遠目にも確認できた。

 しかし、近づくにつれ、桐島文子の胸には不安がよぎった。
周囲には、イタリア・ルネサンス様式を模した白亜の壮麗な管理棟や、古代ローマを思わせる巨大なドーム、そして各国の威信をかけた華美な装飾のパビリオンが、その国力を誇示するかのように所狭しと聳え立っているのだ。
一行の視線の先、フランス館の壁面には、ギリシャ神話をモチーフにした巨大で肉感的な彫像群が、その力を誇示するかのように天を突いている。その迫力と華やかさに、大野も市駒も、そして市乃も、ただ息をのむばかりだった。

「すごい…これが、西洋の美…」
大野が、呆然と呟く。
その中で、建設途中の日本の鳳凰殿は、あまりにも小さく静かで無防備に見えた。
圧倒的な西洋建築の力の前に、埋もれてしまいかねない――誰もが、そう感じていた。

その重い空気を破ったのは、桐島文子だった。
彼女は、皆の視線の先にあるフランス館の彫像を一瞥し、そして静かにすぐそばの自分たちの鳳凰殿へと視線を移した。

「ええ、素晴らしいですわ。力と豊かさの美。まさに神々のための建築…」
彼女は一度、その西洋の美を肯定した。そして続けた。

「でも、皆様。こちらをご覧ください」
桐島はまだ飾り付けもされていない、一本の檜(ひのき)の柱を指差した。
それはただ真っ直ぐに、静かに空へと伸びているだけだった。

「西洋の美が、神々の物語を石に刻みつけ、力を外へ外へと誇示する『足し算の美学』なのだとすれば…」
彼女の声は、静かだが、強い説得力を持っていた。

「…日本の美は、無駄なものを極限まで削ぎ落とし、ただ一本の柱が持つ木目の流れ、 その香り、そして寸分の狂いもなく組み合わさるであろう仕口(しくち)の精緻さに、 宇宙を宿す『引き算の美学』なのです」

その言葉に、三人は、はっとしたように目の前の柱を見つめ直した。
それはもはや、ただの木の柱ではなかった。西洋の神々の彫像とは全く違う、静かで、しかし凛とした、揺るぎない精神性の象徴に見えた。 桐島は、三人の表情の変化を見て、穏やかに微笑んだ。
「どちらが優れているか、ではありません。世界の広さを知るとは、こういうこと。 私たちの信じる美が、彼らの信じる美と、全く違う形で、同じ高みにまで達し得るのだと、証明すること。…そのために、私たちはここへ来たのです」

ぽつりと呟かれたその言葉には、もはや先ほどまでの諦観はない。
これから立ち向かうべき課題の大きさと、それを乗り越えるための明確な指針を掴んだ、静かで、しかし燃えるような闘志が込められていた。 大野は、ただ彼女の横顔を、畏敬の念を込めて見つめるしかなかった。

◇5-3【鳳凰の彩、異郷の光】

鳳凰殿の建設現場では、設計・建設責任者である建築家、久留正道が、日本の職人たちと共に、埃と汗にまみれて作業の指揮を執っていた。 数ヶ月ぶりの再会であった。
強いシカゴの日差しが、組み上げられつつある真新しい檜(ひのき)の白木に照りつけている。

その光景を、桐島文子は感慨深げに眺めていた。
その隣で、大野健吾もまた、異国の地で少しずつ形を成していく日本の至宝に、言葉にならない高揚を覚えていた。
桐島はふと、ある考えを口にした。あくまで鳳凰殿をより魅力的に、そしてアメリカ人の目を引くようにするための、広報戦略家としての純粋な提案のつもりだった。

「久留先生、素晴らしいお仕事ぶりですわ。ただ、ひとつ気になったのですが…」
桐島は、日差しに目を細めながら、組み上げられつつある柱や軒先を指差した。
「この鳳凰殿の柱や梁(はり)の装飾部分なのですが、例えばこの現地の強い光の中、そして周囲の壮麗な西洋建築との対比を考えますと…」
桐島は、作業場の隅に置かれた、厳重に保管されている桐の箱を指差した。
「あちらにございます、堂内の装飾に使う予定の金箔。あの予備の金箔をほんの僅か、この軒先などの意匠部分に施し、 光の演出を活かす工夫を加えてはいかがでしょう? 日本の職人技の細やかさを強調し、その印象をより強く残す効果があるかと…」

その言葉を聞いた瞬間、久留の眉が、ぴくりと動いた。彼はゆっくりと桐島の方へ向き直ると、その寡黙な口を重々しく開いた。
「…桐島さん。あの金箔は、ご本尊を安置する、鳳凰堂の最も神聖な内陣を彩るためのものだ。 そして万が一、堂内のご本尊を飾る金箔に傷一つでも入った時のための、神聖な『予備』だ! それを、異人の目を引くという下世話な目的で、外観に使うなど、本末転倒も甚だしい! 木材が時を経て深みを増す、その自然の美を、人工の輝きで汚すなどもってのほか! 断じて許されん!」

その言葉は、一切の反論を許さない職人としての絶対的な矜持(きょうじ)に満ちていた。
隣で聞いていた大野は、息をのんだ。桐島の提案は、広報戦略として理にかなっている。
このシカゴの華やかな光の中では、確かに人々の目を引くきっかけとなるだろう。 だが、久留先生の怒りもまた、痛いほどに分かる。

桐島は食い下がった。
「ですが、久留先生。世間に分かっていただかなければ、意味がありません。ここは博覧会です。まずは人を呼ばなければ……」
「人を呼ぶために、魂を売れと言うんか」
久留は、手元の金箔を指さした。
「これは『魂の予備』や。……お前さんのような、口先だけで世を渡る人間には分からんやろうがな」
久留はそう言い捨てて、背を向けた。

「口先だけ……ですか」
桐島は、震える声で問い返した。久留は背中を向けたまま、吐き捨てるように答えた。
「そうやろ。ええように言葉で飾り立てて、客を騙すんが仕事やないか」
「……騙すなどと」
「そんな浮ついた仕事と一緒にせんといてくれ。わしらは、木と対話しとるんや。人間(ひと)のご機嫌取りとは違う」

ガラリ、と音を立てて、久留は道具箱を抱え、奥の作業部屋へと消えていった。
重い扉が閉められる音が、冷たい現場に残響する。

取り残された桐島は、小さく溜息をついた。その白い息が、シカゴの風に溶けていく。
(誰にも、分かってもらえない……)
広報官――その仕事は、最も守りたいはずの相手、世界に誇るべき職人たちにさえ、詐欺師のように思われている。
「言葉」で価値を伝える仕事は、「腕」でモノを作る彼らにとって、実体のない虚業にしか見えないのだ。
その孤独は、東京で古賀宗助に浴びせられた罵倒よりも、深く、鋭く、桐島の胸を抉った。
味方であるはずの身内からの拒絶。

けれど、彼女は顔を上げた。
「……それでも、やるしかない」
彼女は、閉ざされた扉をじっと見つめ、呟いた。
「あなたたちのその『魂』が、誰にも知られずに、ただの古い木箱として消えてしまうのを防ぐために。……泥をかぶるのは、私の役目です」

その日の夜、桐島文子は一人、ホテルの自室の窓辺に立っていた。
眼下には、シカゴの街の無数の灯が、まるで宝石を撒き散らしたかのように広がっている。
(あの頑固さ! けれど、あれが日本の職人というものなのかもしれない…)
久留の怒りに満ちた顔が脳裏に浮かび、桐島は唇を噛んだ。
(西洋の合理性で考えれば、私の提案は間違ってはいないはず。より多くの人に関心を持たせること、 それが今の日本館には何よりも必要なことなのだから。 でも…彼の言う『魂』や『自然の美』も、私が京都で心惹かれた、日本の文化の本質そのもの。私が世界に伝えたいと願っているのは、まさしくそれなのに…)

西洋的な合理性と、日本の職人気質。
そして「広報」という新しい概念への無理解。 その巨大な壁の板挟みになり、彼女は深い苦悩に沈んでいた。
(どうすればいい? どうすれば、この二つを繋げられるというの…?)

それは、このシカゴで彼女が初めて直面した、 そしておそらくは、これから何度も向き合わなければならない、 根深く、そしてあまりにも重い問いであった。

◇5-4【情報を制する者、世界を動かす】

次の日から、桐島文子のシカゴでの戦いが、本格的に始まった。
まずは徹底的な情報収集と現状分析だ。
大野の的確なサポートを受けながら、彼女は連日、広大な万博会場の隅々まで精力的に 歩き回り、各国の展示内容、その広報戦略を見極めようとした。

その日、彼女たちは、ひときわ壮麗なフランス館の前に立っていた。
洗練された美術品の数々が、文化大国としての絶対的な誇りを物語っている。
その完成された美の前に、桐島と大野はしばし言葉を失った。

「…素晴らしいだろう、マドモアゼル」

不意に、背後から滑らかな英語で声をかけられた。
振り返ると、仕立ての良いスーツに身を包んだ、 優雅な物腰のフランス人男性が、自信に満ちた笑みを浮かべて立っていた。
フランス館の責任者の一人、ジャン=リュックと名乗った男だ。

「我々フランスが、世界の美の頂点にあることを示すための舞台だ。 ところで、あなた方の日本館は、可愛らしい木造の…確か『チャペル(礼拝堂)』のようなものを建てておいでだとか?間に合いそうかね?」

その言葉には、隠すことのない優越感と、日本の試みを「小さく、風変わりなもの」と 見なす侮蔑の色が滲んでいた。
大野の表情が、悔しさにこわばる。しかし、桐島は表情一つ変えず、完璧な笑みを返した。

「ええ、ありがとうございます。ぜひ、完成した暁には、私たちの『祈りの形』を、 ご覧にいらしてくださいまし」
にこやかに応じながらも、彼女の瞳の奥で、静かな闘志の炎が、 より一層強く燃え上がったのを、大野は見逃さなかった。

フランス館を後にし、重い沈黙の中で歩みを進めていると、 今度は、建設中のオスマン帝国館の前で、一人の紳士が、憂いを帯びた表情で自国のパビリオンを見上げているのに出くわした。
トルコ帽をかぶったその紳士は、一行に気づくと、穏やかに会釈をした。
オスマン帝国からの派遣員、アフメット・ベイだった。
彼は、日本の鳳凰殿と同じように、西洋建築とは全く異なる、精緻なイスラム様式の タイルや木工細工が施された自国の館を指し、静かな英語で語りかけてきた。

「…難しいものですな。我々の魂の形を、こうして彼らの土地で示そうとしても、 彼らが望むのは、往々にして『エキゾチックな骨董品』としての見世物だけ。 その奥にある精神性まで、理解しようとしてくれる者は、果たしてどれほどいることか…」
その言葉には、同じ非西洋圏の国として、文化の真価を伝えようと奮闘する者だけが 分かり合える、深い共感と苦悩が込められていた。

「ええ、本当におっしゃる通りですわ」
桐島は、初めて心から分かり合える同志に出会えたような気持ちで、深く頷いた。
短い会話だったが、その交流は彼女の心に一人ではないという確かな勇気を与えてくれた。 

ドイツ館の巨大なクルップ砲が放つあからさまな威圧感。フランス館の絶対的な自信。
そして、オスマン帝国館の抱える、日本と共通の悩み…。 そのどれもが、自国の「物語」を雄弁に語りかけてくる。

「情報は力だわ。そして、力は正しく使ってこそ意味がある」

彼女はかつてアメリカの大学で敬愛する恩師にそう教わったことを改めて胸に刻んでいた。
そして夜、ホテルの自室で、山のような資料やメモと格闘する。
彼女のペンは、もはや迷いなく、シカゴの地で出会ったライバルの鼻を明かし、 そして友と共にこの戦いを勝ち抜くための、大胆な広報戦略を、確信を持って描き出していく。
その繰り返しの中に、やがて生まれるであろう画期的なアイデアの胎動があった。

◇5-5【道を違えど、進むべき道】

そんな多忙な日々の中、ある日の午後、桐島文子は万博会場の地図を片手に、 重要なメディアの編集長とのアポイントメントに向かっていた。 大野は別の用務で手が離せず、彼女は一人で複雑な会場を抜けようとしていた。
しかし、壮麗な建物が迷路のように入り組むジャクソン公園で、彼女はいつの間にか全く見当違いの方向へと進んでしまっていたのだ。 生来の方向音痴は、この異国の巨大な迷宮の中では致命的だった。
約束の時間は刻一刻と迫り、焦りが募る。 額にはじっとりと汗が滲み、心臓が早鐘のように打った。

「いけない、こんなことで時間を無駄にするわけには…編集長との約束に遅れてしまう…」
彼女は立ち止まり、深呼吸をして周囲を見渡すが、目に入るのは見慣れぬ、 しかしどれも同じように見える壮大な白亜の建物ばかりだった。

「桐島さん、そちらはホワイトシティの東の外れ、ドイツ館の裏手ですよ」
不意に背後からかけられた、どこか呆れたような、しかし落ち着いた声に、 桐島は、はっとして振り返った。
そこには、いつの間にか探しに来ていた大野健吾が、やれやれといった表情で立っていた。

「中村会長から、あなたが時折、地図に対して非常に独創的な解釈を加えられ 、予期せぬ場所から新たな視点を発見されることがあると伺っておりましたので、 念のため後を追わせていただきました」

彼の言葉には、微かな、しかし隠しきれない笑みが含まれている。
「…ごめんなさい、大野さん。またご迷惑をおかけしてしまって。 言い訳になりますが、ここの建物はどれも同じように見えて…」

素直に頭を下げる桐島に、大野は静かに言った。
「いえ。あなたが道に迷うのは、常に誰も行かない新しい道を探している証拠でしょう。 あるいは、新しい『物語』の始まりかもしれません。さ、参りましょう。 編集長との約束にはまだ時間はございます」

その朴訥だが温かい言葉に、桐島は張り詰めていたものが解けるのを感じ、 心から感謝した。
大野の「新しい物語の始まりかもしれない」という言葉が、不思議と彼女の胸に残り、広報戦略を練る上で一条の光明となった気がした。

◇5-6【最初の敵は、巴里(パリ)の香り】

「……美とは、時に残酷なものね」

その声は、磨き上げられた銀食器が触れ合う音のように、冷たく、そしてどこまでも澄み切っていた。
フランスが誇る大手新聞社『フィガロ』の特派員、ジュリエット・ロシュフォールは、広げた扇子で優雅に口元を隠しながら、隣を歩く紳士にそう語りかけた。
万博フランス館の責任者であるジャン=リュックは、その言葉に満足げに口の端を上げた。
「残酷なほどに美しい、我が国の展示のことですか? マドモアゼル」
「ええ。完成された美は、隣にある貧相なものを、より惨めに際立たせてしまうものだから」

ジュリエットの碧(あお)い瞳が、冷ややかな憐憫(れんびん)の色を帯びて向けられた先。
そこには、建設中の日本館「鳳凰殿」があった。
豪華絢爛なフランス館のすぐ隣で、白木の柱と瓦屋根だけで構成されたその建物は、彼女の目には、ちっぽけで、色あせて見えたのだ。

「まるで……そうね。宮殿の横に建てられた、薪小屋(まきごや)のようね」

彼女がそう呟いた瞬間だった。
「……訂正していただけますか、マドモアゼル」
凛とした、しかし怒りを静かに孕んだ声が、彼女の背後から響いた。
ジュリエットが振り返ると、そこには、簡素だが品のある着物を纏い、
真っ直ぐに彼女を見据える日本人女性――桐島文子が立っていた。

「あら?」
ジュリエットは、扇子を閉じた。
「あなたは?」
「日本のパビリオンの責任者の一人、キリシマです。今、私たちの鳳凰殿を『薪小屋』と仰いましたね?」
桐島は一歩も引かず、流暢なフランス語で問い詰めた。
ジュリエットは、一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに興味深そうな、しかし獲物を値踏みするような笑みを浮かべた。

「ええ、申し上げましたわ。だって、事実でしょう?」
彼女は、組まれつつある鳳凰殿の柱を、白い手袋をはめた指先でそっと撫でると、まるで埃でも払うかのような仕草を見せ、挑戦的な視線を桐島に向けた。
「色もない。輝きもない。石の重厚さも、ステンドグラスのような光もない。ただ木を組んだだけの、未開の木箱。これを薪小屋と呼ばずして、何と呼ぶの?」

「……それは」
「それに、あなた」
ジュリエットは、桐島の言葉を遮り、冷ややかに言い放った。
「あなたは通訳でしょう? 言葉を訳していればいいのよ。美の何たるかも知らぬ小間使いが、文化の対話に口を挟まないでちょうだい」

それは、明確な拒絶だった。
「未開の国」の「通訳ごとき」が、芸術の都パリのジャーナリストに意見するなど、烏滸(おこ)がましいという、絶対的な優越感。

桐島は、その侮蔑の視線を真っ向から受け止めた。
かつての彼女なら、ここで言葉を飲み込み、引き下がっていたかもしれない。
けれど、今は違う。 彼女の背中には、古賀と戦い、職人に拒絶され、それでも守り抜こうと誓った「日本の魂」があった。

「……いいえ、私の仕事は通訳だけではありません」
桐島は静かに、しかし会場の喧騒を切り裂くような明確な声で言った。
「私の仕事に、まだ日本語の名前はありません」
「……何ですって?」
ジュリエットの眉が、怪訝そうに動く。

「ですから、私が作ります。――私は、日本初の『広報官』」
「京都と日本を世界に正しく伝えることが私の任務です」

桐島は、相手の碧眼を射抜くように見つめ返した。
「そして職人の魂を、世界に価値あるものとして植え付ける戦略家です。プロの広報官として宣言します。……あなたに、その言葉を必ず撤回させてみせる」

ジュリエットの目が、わずかに見開かれた。
ただの通訳だと思っていた東洋の小柄な女性から放たれた、予想外の覇気。 それは彼女が初めて見る種類のものだった。

「……広報官(パブリック・リレーションズ・オフィサー)?」

ジュリエットは、その言葉を聞くと、可笑しそうに喉を鳴らした。
まるで、子供が大人ぶって難しい言葉を使ったのを愛でるかのように。

「驚いたわ。この国(アメリカ)で最近、生まれた職業ね。ニューヨークのビジネスマンから聞くならわかるけど、 まさかあなたのような東洋の女性の口からその単語を聞くとは思わなかったわ」

彼女は組んだ足を優雅に解き、挑発的な視線を送る。

「いいでしょう。郷に入っては郷に従え、と言うしね。 そのアメリカ仕込みの『広報』とやらで、この薄汚い薪小屋をどうやって世界に売り込むというの? 見せていただきましょう。あなたの言う『戦略』とやらを」

彼女は踵を返すと、背越しに手を振った。
「期待しているわ、ミズ・キリシマ。私を退屈させないでね」

去りゆくジュリエットの背中を見送りながら、桐島は拳を固く握りしめた。
宣戦布告はなされた。
最初の、そして最強の敵は、パリの香り高い毒舌家。
だが、桐島の心には、恐怖よりも、静かで熱い闘志が炎となって燃え上がっていた。
「見ていなさい……。私たちの鳳凰は、決して薪小屋なんかじゃない!」