シカゴを舞う京の鳳凰~あなたの財布で眠っている130年の誇り ―

◇4ー1【未来への汽車、未知への門出】

明治26年(1893年)2月下旬。
まだ冷たい空気が、東山から吹きおろす京都駅のプラットホーム。
黒い鉄の巨体から蒸気を吐き出す機関車の周りには、特別な旅立ちを見送る人々が、湯気が立つほどの熱気となって渦を巻いていた。

やがて出発を告げるけたたましい汽笛が鳴り響き、乗車を促す声が飛ぶ。
その喧騒の中、中村栄助が、これから旅立つ四人を、少し離れた柱の陰へと引き寄せた。
彼の表情は、いつもの豪放さとは違う、父親が子供を送り出すような、静かで、それでいて眼差しに熱の籠もったものだった。

彼は、まず市駒と市乃の前に屈み、その強張った顔を覗き込んだ。
「市駒さん、市乃さん。お二人の舞は、ただの舞ではおへん。この京の都が千年かけて磨き上げた、もてなしの心の結晶どす」

次に、大野の肩をがっしりと掴んだ。骨がきしむほどの強さだった。
「大野君。君の仕事は、ただの補佐役ではない。皆を守り、この大事業を成功へと導く重要な礎だ」

そして最後に、桐島文子の目を真っ直ぐに見つめた。
「文子さん。君の言葉は、ただの通訳ではない。日本の魂を、世界に伝えるための、我々の声そのものだ」

中村は、四人全員の顔をゆっくりと見渡し、その声に腹の底からの重みを乗せて、彼らの使命を託した。

「皆、よう聞いとくれ。これから君たちは、海の向こうで、多くの困難に出会うやろう。 我々の文化を理解してもらえず、時には、心ない言葉を投げつけられることもあるやもしれん。せやけど、決して忘れたらあかん。我々の目的は、ただ一つ。ただ一つだけなんや」

「日本文化を、世界に知ってもらうこと」

「勝つとか、負けるとか、儲けるとか、そんなことは二の次でええ。 ただ、まっすぐに、我々が信じるこの国の文化の素晴らしさを、その魂を、一人でも多くの人に知ってもらうこと。それだけが君たちの、そして我々京都に残る者たち全員の、たった一つの願いであり、行動指針なんや。頼んだぞ」

その言葉は、命令ではなく、祈りにも似ていた。 四人は、誰からともなく、深く頷き合った。
市乃の瞳からは迷いが消え、揺るぎない光が宿る。 市駒は、その市乃の肩を抱き、唇を一文字に引き結んだ。
大野は、爪が掌に食い込むほど固く拳を握り、自らの重責を改めて胸に刻む。
そして桐島は、中村から託されたその言葉を、心臓の奥底に錨(いかり)のように沈めた。

四つの魂が、確かに一つになった瞬間だった。

彼らは、故郷の人々に深く一礼すると、次々と汽車に乗り込む。
中村から託された、たった一つの、しかし何よりも重い使命を胸に。
近代日本の象徴である鉄の巨体は、千年の都の夢を乗せ、未知なる世界が待つ、東の横浜港へと、車輪を軋ませて走り始めた。

◇4ー2【異国への門出、横浜の空】

京都からの汽車が、終着地である横浜に滑り込む。
戸口から降り立った四人を包んだのは、古都の静謐さとは全く質の異なる、むせ返るようなエネルギーの奔流だった。

潮の香りと、船から吐き出される石炭の匂い。
馬車が石畳を叩く音、飛び交う様々な国の言葉、そして遠くで響く、腹の底を揺さぶるような汽笛の重低音。
埠頭に並ぶ煉瓦造りの商館や倉庫には、見慣れぬ異国の商標が描かれ、マストを林立させた巨大な蒸気船が、イギリスの、アメリカの、フランスの旗を誇らしげに掲げている。 道行く人々も、山高帽をかぶった西洋の商人、辮髪(べんぱつ)の清国人、そして颯爽と歩く洋装の日本の役人たちと、まさに人種の坩堝(るつぼ)だった。

「まあ…」
舞妓の市乃は、あまりの光景に口元を手で覆い、ただ目を丸くするばかり。
彼女が知る世界の、なんと小さかったことか。 しかし、その瞳に宿るのは、もはや恐怖ではない。
未知の世界への、抑えきれない好奇心が星のように瞬いていた。
「姉さん、海は…海は、こないに大きいんどすなあ!」
市駒は、そんな市乃の姿に、ふっと目元を和ませた。
この子のこの表情が見れただけでも、京を出た甲斐があった。
彼女の胸中で、この若い才能が、新しい世界でさらに大きく花開くことへの確信が、静かに芽吹いていた。

大野健吾は、黒煙を上げる外国船の威容を見上げ、日本との国力の差を痛感しながらも、不思議と心臓が高鳴るのを感じていた。
数週間前に、鳳凰殿の部材を積んだ貨物船が、この同じ港から旅立ったのだ。
(我々の魂は、もう海の向こうへ向かっている…)
この巨大な世界の舞台で、自分たちの力がどこまで通じるのか。
彼の胸中では、この国・日本の未来を占う、壮大な挑戦への武者震いが背筋を駆け上がっていた。

そして、桐島文子。 アメリカで育った彼女にとって、この喧騒は、むしろ懐かしい凱旋の序曲にも似ていた。
「皆さん、ご覧ください。あれが、私たちの翼です」
彼女が指差す先には、ひときわ大きく、白く美しい船体の太平洋航路客船「シティ・オブ・ペキン号」が、堂々と停泊していた。

その威容を見上げ、四人の胸に、中村会長から託された言葉が蘇る。
――日本文化を、世界に知ってもらうこと。
そのたった一つの、しかし何よりも大きな目的が、四人の心を鋼のロープのように一つに束ねていく。

「さあ、行きましょう。私たちの物語を、世界に語るために」

桐島のその言葉に、三人は力強く頷いた。
彼らは、もはや一瞬の気後れも見せず、これから始まるシカゴでの経験がもたらすであろう、数多の出会いと、まだ見ぬ光景に胸を膨らませながら、世界へと続く船のタラップを、確かな足取りで昇っていった。
日本の土を後にした彼らの心は、不安ではなく、まだ見ぬ地平線への渇望で満たされていた。

◇4ー3【桐島文子の告白~言葉という名の武器~】

長い船旅が始まって、一週間が過ぎた頃。
一行はようやく、絶え間ない揺れと、どこまでも続く水平線だけの景色にも慣れてきた。
その夜は、嵐が過ぎ去った後のように海も空も穏やかで、満天の星が、まるで宝石を撒き散らしたかのように、黒いベルベットの空に輝いていた。

四人は、夕食を終えた後、誰からともなく甲板に集まっていた。 肌を撫でる夜風が、心地よい。
ふと、舞妓の市乃が、隣に立つ桐島文子の横顔を見上げ、ずっと不思議に思っていたことを、素朴な口調で尋ねた。
「文子様は、どうしてそんなに異国の言葉が、お上手なんどすか? ずっとアメリカにおられたんどすか?」

その問いに、桐島は遠い目をして、小さく微笑んだ。
「…そうね。人生の半分以上を、この海の向こう側で過ごしてきましたから」
彼女は、手すりに肘をつき、星の光を映す暗い海を見つめながら、ぽつり、ぽつりと語り始めた。

「私が6つの時でした。貿易商をしていた父に連れられて、初めてこの海を渡ったのは」
桐島の脳裏に、遠い日の記憶が、ありありと蘇る。 それは、同じように星が美しい、太平洋の船上でのことだった。

――幼い文子の手に、父がそっと一つの小箱を乗せた。黒い漆(うるし)に、金の蒔絵(まきえ)で秋の草花が繊細に描かれた、美しい小箱だった。
「文子、これは美しいか?」
「はい、お父様。きらきらして、とても」
「そうだろう。だがな」
父の声が、少しだけ寂しそうに曇ったのを、文子は不思議に思った。
「異国の人々も、これを美しいとは言う。だが、彼らにとって、これはただの『珍しい東洋の骨董品』だ。この小さな箱に、塗り師が、蒔絵師が、どれほどの時間と、技と、そして魂を込めたのか。その背景にある、日本人の心までは、決して見ようとはしないのだ…」
父は、ため息と共に、まだ見ぬアメリカ大陸の空を見つめた。
「いつかお前は、この美しさの奥にある、日本人の心を伝えられる人間に、おなりなさい」

「父は、日本の素晴らしい品々を世界に売る一方で、その真価が伝わらないもどかしさに、いつも唇を噛んでいました」
桐島は、現在の時間へと意識を戻した。

「私が広報官になろうと決めた、直接のきっかけは、アメリカの大学に通っていた時のこと。図書館で、ある新聞記事を読んだのです」
彼女の声が、わずかに硬質になった。
「それは、日本の文化を『野蛮で、滑稽で、未開な土人の奇習』と、見下し、嘲笑するような内容でした。悔しくて、情けなくて…その夜は、枕を濡らして一睡もできませんでした」

市駒が、小さく喉を鳴らす。
それは、自分たちの芸事が、いつか向けられるかもしれない冷たい視線そのものだった。

「でも、ただ怒っているだけでは、何も変わりません。父の言葉を思い出したのです。『伝えられる人間におなりなさい』と。…私は、その夜、生まれて初めて、反論の記事を書きました。感情的に罵るのではなく、彼らが嘲笑した風習の一つ一つに、どのような歴史的な背景があり、どのような精神性が込められているのかを、事実と論理で、淡々と。そして、それを大学の新聞に投稿したのです」

桐島は、そこで初めて、隣で聞き入る三人の顔を見つめた。
「その時、気づいたのです。黙っていては何も伝わらない。誤解は、待っていても解けはしない。ならば、こちらからその誤解を上書きすればいい。そのための、私の武器は『ペン』であり、『言葉』なのだ、と」

語り終えた桐島の周りには、波音だけがあった。彼女が背負ってきたものの重さが、肌を通して伝わってくる。
そして、彼女自身の口から、ふと、心の奥底にあった想いが、独り言のように漏れた。

「そして…私が中村会長に出会ったときに言われた言葉。京都駅で、私たちを送り出してくださった時にもおっしゃられましたが。そのとき、私は改めて大切なことに気づかされたのです」
彼女の脳裏に、京都駅での、あの中村の言葉が蘇る。

『日本文化を、世界に知ってもらうこと』

「あの言葉を聞いた瞬間、全てが繋がりました。遠い昔にこの海の上で聞いた、父の願い。 そして今、私たちに全てを託してくださった、中村会長の夢。場所も、時代も、立場も違うけれど、二人が抱いていた想いは、驚くほど似ていた。いえ…全く、同じだったのです」

彼女の瞳が、星の光を受けて潤む。
「だから、この旅は、もう私と父だけとの約束ではないのです。それは、中村会長との約束、そして京都の皆さんの、さらには、まだ見ぬ日本の未来の夢。その全てを乗せているのだと、そう思っています」

市駒が、深い共感を込めて、ぽつりと呟いた。
「…分かります。よう、分かりますえ。魂を込めて磨いたもんを、ただの『形』としてしか見てもらえへん。その悔しさは、骨身に沁みております。文子様は、言葉で、うち達は、芸で。やり方は違えど、届けたいもんは、きっと同じなんどすなあ」

大野は、彼女の揺るぎない強さの源に触れ、改めて深い尊敬の念を抱いていた。
そして市乃は、ただ憧れていた美しい人が、実は誇り高い戦士であったことを知り、その大きな瞳を憧憬の光で、さらに潤ませていた。

父から託された、たった一つの願い。 それが、中村の夢と重なり、今、四人全員の、共通の使命となった。
この太平洋の真ん中で、彼らは初めて、本当の意味で一つのチームになったのである。

◇4ー4【大野健吾の吐露 ~西陣にもう一度機音(はたおと)を】

桐島文子が自らの過去を打ち明けてから、さらに数日が過ぎた。
四人の間には、以前とは比べ物にならないほどの、深く、そして静かな信頼感が生まれていた。

その日の午後は、これまでで最も海が穏やかだった。
甲板に置かれた長椅子に腰かけ、桐島と大野はシカゴ到着後の具体的な行動計画について、最終的な打ち合わせをしていた。
市駒と市乃は、少し離れた場所で、船上の散歩を楽しんでいる。

桐島は、万博会場で販売する記念品のリストに目を通していた。
その中に「西陣織小物」という文字を見つけ、ふと顔を上げた。
「大野さん。そういえば、あなたのご実家も、確か西陣織を…。今も、お変わりなく?」

その何気ない問いに、大野は一瞬、遠い目をして、穏やかな海を見つめた。
「…いえ」
彼は、かぶりを振った。その横顔に、いつも冷静な彼には珍しく、寂しげな影が落ちる。
「私が子供の頃の西陣は、街全体が、まるで一つの大きな生き物でした」

「どこを歩いていても『カッタン、カッタン』と規則正しい機音(はたおと)が聞こえてくる。それはまるで、街そのものの呼吸のようでした。路地に入れば、染料のツンとした匂いや、糊の甘い香りが混じり合い…。工房の格子戸の隙間からは、埃をきらめかせながら光の筋が差し込み、壁一面には、これから織られるのを待つ、目も覚めるような色とりどりの絹糸が掛けられていたものです。あの音も、匂いも、光も…全てが、西陣が、そして京都が、確かに生きている証でした」

彼の語り口は静かだったが、そこには失われた光景への、切ないほどの愛着が滲んでいた。

「しかし、帝が東京へお移りになり、新しい時代の波が押し寄せ…。手間暇のかかる我々の織物は、西洋から入ってくる安価で華やかな布地に、少しずつ、少しずつ追いやられていきました。私が家を出る頃には、あれほど賑やかだった機音も、あちこちで歯が抜けるように寂しくなり…。実家を継いだ兄も、今、随分と苦労しております」

それは、大野が初めて見せた、個人的な弱さであり、痛みだった。
桐島は、何も言わず、ただ静かに彼の言葉に耳を傾けていた。

「私は、家業を継ぐことから逃げた、次男坊です。 新しい時代の商業を学べば、何か違う道があるのではないかと、中村会長の元でお世話になることを選びました。しかし…」

彼はそこで一度言葉を切り、今度は桐島の目を真っ直ぐに見つめた。
その瞳の奥には、彼の全ての行動の源泉となる、消えることのない熾火(おきび)のような光が宿っていた。

「京都での会議で、あなたが『鳳凰殿』の構想を語られた時、そして東京で、あなたが日本の文化の価値を、あの政府の重鎮たちを相手に堂々と説かれた時、私は、暗闇の中に一条の光を見た気がしたのです」

「この鳳凰殿が、もし、世界の注目を集めることができたなら…。 人々が、日本の建築の、その細やかな美に目を向けてくれたなら…。 その時、その鳳凰殿を彩る、我々京都の職人たちの手仕事にも、もう一度、光が当たるかもしれん。 西陣の織物にも、清水の焼き物にも…」

彼の声が、かすかに震える。
「あの機音が、再び西陣の街に戻ってくるかもしれん… 鳳凰殿は、私にとって、そういう祈りそのものなのです。だから、私は、この事業に全てを賭けている。あなたを、そしてこの計画を、必ず成功させなければならないのです」

それは、有能な秘書としてではない、西陣に生きる一人の男としての、魂の告白だった。
桐島は、彼の冷静で献身的なサポートの裏にあった、熱く、そして切実な想いを初めて知り、深く頷いた。
「ええ、今日、本当の意味で分かりました。大野さん、あなたの祈り、確かに、私も一緒に背負わせていただきます」
いつの間にか隣に戻ってきていた市駒が、静かに口を添える。
「西陣の機音も、うちとこの三味線の音も、おんなじ京の都が奏でる、大切な音(ね)どすなあ…」

その言葉に、四人の心は、完全に一つになった。
桐島文子の、父から受け継いだ「世界への使命」。 大野健吾の、故郷の再生を願う「地域への祈り」。
市駒と市乃の、芸の誇りを守り抜く「文化への覚悟」。

それぞれが抱く、異なる、しかし根底で繋がった想い。 それはひとつだった。
「――日本文化を、世界に知ってもらうこと」
その想いを乗せて、彼らの船は、シカゴへと進んでいく。 もはや、彼らの間にいかなる揺らぎもなかった。