◇3-1【吉報来る、選ばれし翼】
中村と桐島が東京から戻り数週間が経過した。
京都商法会議所の副会頭室には、古時計の秒針の音だけが、やけに大きく響いていた。
平安遷都千百年紀念祭の準備を進めつつも、中村の視線は無意識のうちに、何度も入り口の扉へと向けられていた。
それは京都全体の未来を左右する一報が入るはずの場所だからだ。
その日、桐島文子は、別の渉外案件に関する報告と相談のため、京都商法会議所の副会頭室を訪れていた。
傍らには、いつものように中村の秘書である大野健吾が控え、桐島の報告に静かに耳を傾けている。
三人とも、シカゴ万博に関する政府の決定を待つあまり、どこか身体の芯が強張っていた。
桐島の報告が一段落したところで、中村が話題を変える。
「…まだ来んか、東京からの知らせは」
中村が、革靴の音を荒々しく響かせながら部屋を往復する。絨毯がそこだけ擦り切れるのではないかと思えるほどだ。
あの日、内閣議事堂で、あれだけの論戦を繰り広げ、外務大臣・陸奥宗光という強力な味方まで得た。
しかし、最終的な公式決定の報は、まだ届かない。
古賀宗助が、最後の最後で何か妨害をしてきているのではないかという、胃の腑(ふ)が焼けるような懸念が拭えなかった。
「中村会長、きっと吉報は届きます」 桐島文子が、自らと、そして中村を支えるように静かに言った。
「陸奥外務大臣までが、我々の案を『外交政策そのものだ』と支持してくださったのです。覆るはずがございません」
その言葉には力があったが、彼女自身の組んだ指先も、血の気が引いたように白くなっていた。
大野は、そんな二人の様子を静かに見守りながら、黙々と書類の整理を進めている。
彼もまた、あの東京での会議の目撃者として、この一報が京都全体の未来を左右することを、痛いほど理解していたのだ。
東京での勝利は、まだ幻かもしれない。正式な辞令が届いて初めて、彼らの鳳凰は、本当に翼を得ることができるのだから。
まさにその時だった。廊下を走る慌ただしい足音が近づき、書記が勢いよく扉を開け放った。
「会長!東京より、政府の万博担当委員会からです!」
部屋の空気が一変した。中村は、喉を上下させ、差し出された電報を受け取った。 指が震え、紙が微かに音を立てる。
桐島と大野も、呼吸をするのも忘れ、その指先を見つめた。
中村は、もどかしげに電報を開き、その短い文面に目を走らせた。
彼の普段は穏やかな、整った顔立ちが、みるみるうちに紅潮し、目が見開かれる。
そして次の瞬間、頬の筋肉が緩み、顔じゅうがクシャクシャになるほどの笑みが弾けた。
「……やったぞ!」
腹の底から絞り出したような、それでいて裏返りそうな声が、静かな副会頭室に響き渡った。
「やった! 桐島君、大野君、聞いてくれ! 中央政府が、我々の提案を受け入れ、シカゴ万博での鳳凰堂の複製建設を、正式に決定したそうだ!」
その言葉に、桐島は張り詰めていた肩の力を一気に抜き、大野もまた、天を仰いで深く息を吐き出した。
それは「日本の顔」として何を世界に示すべきかという政府内での根本的な議論、莫大な予算への懸念、
そしてその効果への強い懐疑を、中村たちが不屈の熱意と論理で覆して勝ち取った、大きな勝利だった。
◇3-2【鳳凰堂を背負う者たち】
中村は、目尻に浮かんだものを指先で拭うと、すぐに会長の顔に戻り、桐島と大野に向き直った。
その目には、獲物を前にした鷲のような鋭い光が宿る。
「桐島君」 その声は、先ほどの上ずった響きとは異なり、腹の据わった重みがあった。
「このシカゴ万博における鳳凰殿プロジェクトについて、京都実業協会を代表し、現地アメリカでの広報戦略の立案・実行、並びにそれに関連する一切の渉外業務の指揮を、君に一任したい。君の卓越した語学力、国際感覚、そして何よりも、あの鳳凰堂の美しさを的確に世界に伝えることのできるセンスと情熱。それら全てを、この一大事業に注ぎ込み、必ずや成功へと導いてほしい。これは、我々が目指す『京都文化首都構想』実現への、世界への、そして日本国内への極めて重要な布石となるのだ!」
それは、万国博覧会という国際舞台での成功の鍵を握り、その成果を京都の未来へと繋げる、まさに枢要(すうよう)な役割であった。桐島文子の背筋が、見えない糸で引かれたようにすっと伸びる。
大きな瞳が、一瞬の驚きの後、行灯の火を映して青白く燃え上がった。
「…承知いたしました、中村会長。その大役、この桐島文子、必ずやご期待に応え、プロジェクトを成功させ、その意義を、この京都へ、そして日本の未来へと持ち帰ってご覧に入れます!」 凛とした声が、迷いなく響き渡った。
中村は満足げに頷くと、次に大野に向き直った。
「そして大野君。君には私の代理として、また京都の博覧会成功のための情報収集および国際連携の責任者として、桐島君と共にアメリカ合衆国シカゴへ飛んでもらいたい。 現地では桐島君を実務面で全面的に補佐し、シカゴ万博の運営状況、各国の展示戦略、そして何よりも世界が何を求め、何に心が震えるのか、その全てをその目に焼き付け、京都へ持ち帰るのだ。これは、君の今後の働きにとっても、計り知れない財産となるはずだ」
大野は予期せぬ、しかし自身の能力を最大限に試されるであろう特命に、喉の奥で息をのんだが、すぐにその重要性を理解し、こめかみに青筋が浮かぶほど強く奥歯を噛み締めてから、深々と頭を下げた。
「…承知いたしました!会長のご期待、そして桐島様をお支えするという大任、この大野健吾、必ずや果たしてご覧に入れます!」
古都・京都の未来を賭けた挑戦の翼は、今、選ばれし二人の手に、確かに託された。
◇3-3【鳳凰の骨格、職人の魂】
明治25年(1892年)10月。
京都郊外に設けられた広大な作業場には、連日、木材を打つ小気味よい槌(つち)の音と、職人たちの威勢のいい声が響き渡っていた。
シカゴの地に建つ「鳳凰殿」の、仮組み作業が進められているのだ。
その中心には、常に建築家・久留正道の姿があった。 彼は、設計図と睨めっこしながら、自らも木屑と汗にまみれ、一本一本の木材の反りや木目まで厳しく検分し、宮大工たちに的確な指示を飛ばす。
その眼光は鋭く、一切の妥協を許さない。若い職人が少しでも気を抜こうものなら、
「魂を込めろ!その一寸の狂いが、百年先の歪みとなるぞ!」と、作業場の空気がびりびりと震えるほどの怒号が飛んだ。
彼の厳しさは、単なる気難しさから来るものではない。
この仕事が、ただの建築ではなく、日本の職人の誇りと、失われつつある伝統技術の存亡を賭けた「戦い」であることを、誰よりも理解しているからだった。
その日の作業が終わり、職人たちが三々五々引き上げていった後も、久留は一人、夕暮れの作業場に残っていた。
彼は、月明かりの下で組み上げられつつある鳳凰殿の巨大な骨格を、静かに見上げていた。
その手には、仕上げに使われる、滑らかに削り上げられた一本の檜(ひのき)の部材が握られている。
その人肌のように温かく、どこか神々しいまでの木の感触が、彼の脳裏に、遠い昔の、
しかし決して忘れることのできない光景を蘇らせた。
(……そうだ、あの時も、こんな月夜だった)
明治の初め、まだ彼が若き見習いだった頃。 日本中を「文明開化」という名の嵐が吹き荒れ、「廃仏毀釈」の愚行がまかり通っていた時代。彼が師と仰ぐ宮大工の棟梁と共に手掛けた、とある山寺の本堂が、ある夜、暴徒と化した村人たちによって打ち壊された。
「仏など、これからの世には不要じゃ!」
「こんな古臭いものを壊して、学校ば建てるんじゃ!」
そんな叫び声と共に、師が、そして自分が、魂を込めて組み上げた美しい柱や梁が、斧で無残に切り裂かれ、へし折られる乾いた音が夜の闇に響いた。貴重な仏像や経典が、燃え盛る炎の中に次々と投げ込まれていく。
焼け跡に立ち尽くす師の背中は小さく震え、煤(すす)に汚れた頬を涙が伝っていた。
そして西洋のものさしだけで全ての価値を決め、自らの国の宝を、いとも容易く破壊し、安値で海外に売り払う、新しい時代の軽薄さ。
あの夜の光景が、久留正道の心に、決して消えない火傷のような痕(あと)と、そして鉄のような信念を刻み込んだのだ。
(もう二度と、あんな思いはせん…)
彼は、手の中の檜を、指の関節が白くなるほど強く、しかし慈しむように握りしめた。
(俺たちが今、ここで作っているのは、単なる建物ではない。あの愚かな時代に打ち壊され、忘れ去られようとしている、この国の文化の「背骨」そのものなのだ。 千年の風雪に耐え、寸分の狂いもなく、ただ静かに、そして気高く佇む。 その「本物」の姿こそが、我々の答えだ…!)
ただ、夕闇に浮かび上がる鳳凰の骨格を見上げ、彼はこの仕事に己の全てを捧げることを、改めて心に誓っていた。
その彫像のように動かない横顔は、まさに「信念の人」そのものだった。
◇3-4【生きた京文化、異国の舞台へ】
明治25年(1892年)12月
シカゴ万国博覧会の開幕が目前に迫り、京都実業協会の会議室は、紫煙と男たちの脂汗の匂いが充満していた。
最終準備の確認に追われる者たちの熱気が、冬の寒さを忘れさせるほどだ。
プロジェクトの連絡調整役として奔走する桐島文子の胸には、まだ拭えぬ懸念が澱(おり)のように溜まっていた。
(建物だけでは足りない。魂が、生きた魂がなければ、本当の日本は伝わらない…)
全ての議題が終わりかけた、その時。彼女は、意を決して挙手し、発言を求めた。
「中村会長、皆様。今一度、お時間を頂戴できますでしょうか」
ざわついていた室内から、ふっと音が消えた。皆の視線が、その凛とした姿に注がれた。
桐島は深く一礼すると、静かに、しかし腹に力を込めて語り始めた。
「私たちがシカゴに送り出す鳳凰殿は、日本の美の結晶です。 ですが、それはまだ、魂の宿っていない、至上の器に過ぎません。 そこで、皆様にご提案がございます。あのシカゴの地で、『生きた京文化』そのものを披露し、その奥深い精神性までお見せするのはいかがでしょう?」
彼女は、一度言葉を切り、核心を告げた。
「この都が世界に誇るべき華、祇園の芸妓さん、舞妓さんを、文化の使節として、鳳凰殿へお連れするのです!」
その言葉は、爆弾のように会議室に投下された。
一瞬の空白の後、最初に声を上げたのは、居並ぶ重鎮の一人、浜岡光哲だった。
椅子を蹴るようにして立ち上がる。
「…桐島さん、君は何を言っているのかね」 その声は低く、あからさまな侮蔑の色が滲んでいた。
「花街の女を、日本の代表としてアメリカへ? 言語道断だ! それは日本の品位を貶め、我々の文化が、ただの遊興の道具であると、世界に誤解させるようなものではないか! 日本の恥を晒すおつもりか!」
「浜岡様の言う通りだ!」
別の商人からも野太い声が上がる。
「そもそも、ただでさえ予算はカツカツだというのに、さらに増員してアメリカまで連れて行くなど、一体どれほどの金がかかると思っているんだ!」
反対意見は、堰を切ったように噴き出した。
会議室は、桐島への厳しい視線と、怒号に近い非難の声で満たされる。
中村栄助は、その様子を険しい顔で腕を組み、黙って見ていた。 やがて彼は、その重い口を開いた。
「…桐島君。皆の懸念ももっともだ。君は、彼らの反対をどう説得するかね?」
中村の目は、彼女の覚悟を試していた。ここで視線を逸らすようなら、この話は終わりだと。
桐島は、その問いを、そして満座の非難を、瞬き一つせず一身に受け止めた。 その瞳の光は、少しも揺るがない。
「浜岡様。祇園の芸舞妓が磨き上げた舞や唄、三味線の音、そしておもてなしの心。 それは、数百年をかけて練り上げられた、日本の生活美の頂点です。それを『恥』と断じるのは、我々自身が、自らの文化の本質を見誤っている証拠ではございませんでしょうか」
彼女の声は、静かだが、よく研がれた刃のような強さがあった。
「そして、誤解を恐れて、我々の文化を隠すのですか? 違います。誤解される恐れがあるからこそ、私が行くのです。私の言葉で、彼女たちの芸がいかに崇高なものであるか、その精神性がいかに深いものであるかを、世界に伝えるための舞台を、私が責任をもって築きます」
そして彼女は、予算について言及した商人に向き直った。
「費用は、確かにかかります。しかし、これは浪費ではございません。未来への投資です。 言葉の通じぬ人々の心を、最も強く、そして直接的に揺さぶるのは、いつの時代も、人が織りなす『生きた体験』です。彼女たちの舞ひとつが、鳳凰殿への、ひいては日本への関心を、何万語を費やすよりも雄弁に掻き立ててくれると、私は確信しております!」
言い切った桐島文子の気迫に、あれほど騒がしかった会議室が、再び静寂を取り戻した。
反対の声を上げた者たちも、言葉を失い、ただ彼女の顔を見つめている。
中村栄助が、組んでいた腕を解き、ゆっくりと立ち上がった。 そして、満面に笑みを浮かべ、ポンと膝を打った。
「――見事だ、桐島君!」
その声は、部屋の空気をびりびりと震わせた。
「君の言う通りだ。恐れていては何も始まらん! 我々が信じる日本の美を、その魂ごと、堂々と世界に示そうではないか! よし!」
中村は、居並ぶ重鎮たちを見渡し、有無を言わせぬ声で宣言した。
「この件、桐島君に一任する! 異論は、許さん!建築だけでなく、人を通してこそ文化の息吹は伝わる。すぐに人選と手配を進めてくれたまえ!」
それは、京都の未来を担うリーダーの、絶対的な信頼と決断の言葉だった。
桐島文子は、深く一礼した。
その双肩に、また一つ、古都の大きな夢がずしりと乗せられた瞬間だった。
◇3-5【花街の覚悟、鳳凰の舞手】
その日の夕刻、桐島文子と大野健吾は、祇園の花街へと向かっていた。
訪ねた先は、中村栄助のひいきであり、今や二人にとっても馴染みの場所となりつつある、格式高い老舗のお茶屋『一力亭』の一室。
中村の手配で、特別な席が設けられていた。
ほどなくして、襖が静かに開く。
「まあ、文子様に、大野さんまで。お揃いで、どうしたんどす? 今夜は中村の旦那は、ご一緒やないのかしら」
華やかな笑顔と共に現れたのは、今、祇園でその名を知らぬ者はいないと言われる名妓、市駒(いちこま)だった。
彼女の後ろには、見習いである舞妓の市乃(いちの)が、強張った面持ちで控えている。
市駒は、この若い市乃のお姉さん(おねえさん)、すなわち指導役であり、芸事の全てを仕込む師匠でもあった。
「市駒さん、ご無沙汰しております。会長は、本日はいらっしゃいません。 …実は、今日は、いつものように遊びに来たのでは、ないのです」
桐島が、真剣な眼差しでそう切り出すと、市駒の表情から、すっと笑顔が消えた。
彼女は何かを察したように、静かに二人の正面に腰を下ろした。
「…折り入って、あなたにお願いがあり、参じました」
桐島は、単刀直入に、シカゴ万博の計画と、鳳凰殿の構想を語り始めた。 そして、言葉を続けた。
「その鳳凰殿の舞台で、京の文化の真髄を、生きた魂を、世界の人々に見せていただきたいのです。文化の使節として、あなたと…そして、市乃さんとをご一緒に、シカゴへお連れしたい」
一瞬、時が止まったかのようだった。 市乃の小さな喉が、ひくりと動く。市駒は目を見開き、口元を扇子で隠した。
すぐにその表情から華やかな笑みは消え、沈黙が落ちた。
「……アメリカへ? このうちと、まだ半人前のこの市乃を?」
その声は、微かに震えていた。事の重大さが、彼女の肩にのしかかる。
「文子様、お話は大変光栄なことどす。…せやけど、それはあまりにも大きな話。 うちかて、異国のことなぞ、何も知りしまへん。それに、この子たちの舞や芸事が、果たして海の向こうの方々に、ほんまに分かっていただけるもんどっしゃろか…」
市駒の懸念は、もっともだった。自分たちの芸が、ただの「物珍しい見世物」として消費され、その精神性が理解されないまま、好奇の目に晒されることへの恐れ。 そして、まだ若い市乃を、未知の世界へ連れて行くことへの師としての、そして親代わりのような責任。 それが彼女に即答をためらわせていた。
「もしうちたちの舞が京の名に泥を塗るようなことになったら…。そう思うと怖ろしおす」
市駒の不安を、桐島は静かに受け止めた。
「そのために、私がおります、市駒さん。あなたの、そして市乃さんの芸が持つ、本当の価値と精神性を、私の言葉で、責任をもって世界に伝えます。あなた方には、ただ信じて舞っていただきたいのです。あなた方が守り磨き上げてきたこの京の雅(みやび)を」
桐島の真摯な言葉に、市駒はしばらくの間、じっと畳の目を見つめていた。
大野は一言も口を挟まなかった。ただ、桐島文子という女性の交渉術と、市駒という女性が背負うものの重さに、息をするのも忘れ見入っていた。 これは、商いの駆け引きなどではない。 文化の未来を賭けた、魂のやり取りなのだと、彼は肌で感じていた。
やがて、市駒は隣に座る市乃へと、そっと視線を移した。 「市乃」 その声は、優しく、そして厳かだった。
「あんたは、どうしたい? これは、あんたの人生にも関わる、大きな話どす。怖いか?」
それまで黙って大人たちのやり取りを聞いていた市乃は、ビクリと肩を震わせた。
着物の膝の上で固く握りしめていた小さな拳が、白くなっている。 彼女は、一度だけ強く拳を握りしめると、顔を上げた。
その瞳は、小刻みに揺れながらも、一点の曇りもない、強い光を宿していた。
「…怖おす。けど…」
彼女は、桐島文子と、そして姉弟子である市駒を、まっすぐに見つめた。
「けど、うちは行きたいどす…! うちたちの舞が、お座敷の中だけでなく、世界中の人を喜ばせられるかもしれんのやったら…うちは、見てみたい。 この目で、確かめてみたいどす! それが、京の舞妓としての、うちの誇りどす!」
若い舞妓の、か細い、しかし芯の通った声。 その言葉が、市駒の最後の迷いを吹き払った。
彼女の目元に、ふっと柔らかな笑みが浮かぶ。 それは、弟子の成長を喜ぶ、美しい笑みだった。
「…よう言うた、市乃」
市駒は、再び桐島に向き直ると、深く、そして見事な所作で、頭を下げた。
「文子様、大野様。中村会長の、そしてお二人の、その大きな夢に、この市駒、乗らせていただきます。うちとしたことが、覚悟が足りまへんどした。どうか、この市駒と、未熟な舞妓の市乃に、京の都の魂を世界の空に羽ばたかせるという大役、お任せくださいまし。 この身、この芸、全てを懸けて、お務めさせていただきます」
それは、単なる快諾ではなかった。
祇園に生きる女たちの、誇りと未来を賭けた、静かで、しかし何よりも重い「覚悟」の言葉だった。
市駒の決意の言葉に、桐島は深く一礼した。
その隣で大野健吾もまた、まるで京の文化そのものに頭を下げるかのように、深くそして敬意を込めて畳に手をついた。
平等院鳳凰堂という「形」と共に、市駒と市乃という「生きた雅」もまた、シカゴの地で京の魅力を伝えることになる。
その準備が今まさに整ったのだった。
◇3-6【鳳凰、海を渡る】
明治25年(1892年)も暮れようとする頃、
桐島文子たちがシカゴへの渡航準備に奔走するのと時を同じくして、京都では世紀の一大事業が大きな節目を迎えていた。
建築家・久留正道の緻密な設計と、選び抜かれた日本の宮大工たちの卓越した技により、宇治の平等院鳳凰堂を精巧に再現するための主要な木造部材が、ついに国内で組み上げられたのだ。
その優美な姿は、岡倉天心の美術的指導のもと、細部の装飾に至るまで日本の美意識の粋を集めたものであった。
しかし、それは仮の姿。幾万にも及ぶ部材は再び慎重に解体され、一つ一つに丁寧な印が施され、厳重に梱包されていく。
年が明けた明治26年(1893年)正月、
それらの部材は、日本の職人たちの魂と京都の民の熱い願いを乗せ、物言わぬ文化使節として、シカゴへと向かう長い船路に就いた。 中村栄助をはじめとする京都実業協会の面々は、この「無言の使者」の無事の到着と、桐島たちの手による華々しい披露の日を、祈るような思いで待ち望んでいた。
中村と桐島が東京から戻り数週間が経過した。
京都商法会議所の副会頭室には、古時計の秒針の音だけが、やけに大きく響いていた。
平安遷都千百年紀念祭の準備を進めつつも、中村の視線は無意識のうちに、何度も入り口の扉へと向けられていた。
それは京都全体の未来を左右する一報が入るはずの場所だからだ。
その日、桐島文子は、別の渉外案件に関する報告と相談のため、京都商法会議所の副会頭室を訪れていた。
傍らには、いつものように中村の秘書である大野健吾が控え、桐島の報告に静かに耳を傾けている。
三人とも、シカゴ万博に関する政府の決定を待つあまり、どこか身体の芯が強張っていた。
桐島の報告が一段落したところで、中村が話題を変える。
「…まだ来んか、東京からの知らせは」
中村が、革靴の音を荒々しく響かせながら部屋を往復する。絨毯がそこだけ擦り切れるのではないかと思えるほどだ。
あの日、内閣議事堂で、あれだけの論戦を繰り広げ、外務大臣・陸奥宗光という強力な味方まで得た。
しかし、最終的な公式決定の報は、まだ届かない。
古賀宗助が、最後の最後で何か妨害をしてきているのではないかという、胃の腑(ふ)が焼けるような懸念が拭えなかった。
「中村会長、きっと吉報は届きます」 桐島文子が、自らと、そして中村を支えるように静かに言った。
「陸奥外務大臣までが、我々の案を『外交政策そのものだ』と支持してくださったのです。覆るはずがございません」
その言葉には力があったが、彼女自身の組んだ指先も、血の気が引いたように白くなっていた。
大野は、そんな二人の様子を静かに見守りながら、黙々と書類の整理を進めている。
彼もまた、あの東京での会議の目撃者として、この一報が京都全体の未来を左右することを、痛いほど理解していたのだ。
東京での勝利は、まだ幻かもしれない。正式な辞令が届いて初めて、彼らの鳳凰は、本当に翼を得ることができるのだから。
まさにその時だった。廊下を走る慌ただしい足音が近づき、書記が勢いよく扉を開け放った。
「会長!東京より、政府の万博担当委員会からです!」
部屋の空気が一変した。中村は、喉を上下させ、差し出された電報を受け取った。 指が震え、紙が微かに音を立てる。
桐島と大野も、呼吸をするのも忘れ、その指先を見つめた。
中村は、もどかしげに電報を開き、その短い文面に目を走らせた。
彼の普段は穏やかな、整った顔立ちが、みるみるうちに紅潮し、目が見開かれる。
そして次の瞬間、頬の筋肉が緩み、顔じゅうがクシャクシャになるほどの笑みが弾けた。
「……やったぞ!」
腹の底から絞り出したような、それでいて裏返りそうな声が、静かな副会頭室に響き渡った。
「やった! 桐島君、大野君、聞いてくれ! 中央政府が、我々の提案を受け入れ、シカゴ万博での鳳凰堂の複製建設を、正式に決定したそうだ!」
その言葉に、桐島は張り詰めていた肩の力を一気に抜き、大野もまた、天を仰いで深く息を吐き出した。
それは「日本の顔」として何を世界に示すべきかという政府内での根本的な議論、莫大な予算への懸念、
そしてその効果への強い懐疑を、中村たちが不屈の熱意と論理で覆して勝ち取った、大きな勝利だった。
◇3-2【鳳凰堂を背負う者たち】
中村は、目尻に浮かんだものを指先で拭うと、すぐに会長の顔に戻り、桐島と大野に向き直った。
その目には、獲物を前にした鷲のような鋭い光が宿る。
「桐島君」 その声は、先ほどの上ずった響きとは異なり、腹の据わった重みがあった。
「このシカゴ万博における鳳凰殿プロジェクトについて、京都実業協会を代表し、現地アメリカでの広報戦略の立案・実行、並びにそれに関連する一切の渉外業務の指揮を、君に一任したい。君の卓越した語学力、国際感覚、そして何よりも、あの鳳凰堂の美しさを的確に世界に伝えることのできるセンスと情熱。それら全てを、この一大事業に注ぎ込み、必ずや成功へと導いてほしい。これは、我々が目指す『京都文化首都構想』実現への、世界への、そして日本国内への極めて重要な布石となるのだ!」
それは、万国博覧会という国際舞台での成功の鍵を握り、その成果を京都の未来へと繋げる、まさに枢要(すうよう)な役割であった。桐島文子の背筋が、見えない糸で引かれたようにすっと伸びる。
大きな瞳が、一瞬の驚きの後、行灯の火を映して青白く燃え上がった。
「…承知いたしました、中村会長。その大役、この桐島文子、必ずやご期待に応え、プロジェクトを成功させ、その意義を、この京都へ、そして日本の未来へと持ち帰ってご覧に入れます!」 凛とした声が、迷いなく響き渡った。
中村は満足げに頷くと、次に大野に向き直った。
「そして大野君。君には私の代理として、また京都の博覧会成功のための情報収集および国際連携の責任者として、桐島君と共にアメリカ合衆国シカゴへ飛んでもらいたい。 現地では桐島君を実務面で全面的に補佐し、シカゴ万博の運営状況、各国の展示戦略、そして何よりも世界が何を求め、何に心が震えるのか、その全てをその目に焼き付け、京都へ持ち帰るのだ。これは、君の今後の働きにとっても、計り知れない財産となるはずだ」
大野は予期せぬ、しかし自身の能力を最大限に試されるであろう特命に、喉の奥で息をのんだが、すぐにその重要性を理解し、こめかみに青筋が浮かぶほど強く奥歯を噛み締めてから、深々と頭を下げた。
「…承知いたしました!会長のご期待、そして桐島様をお支えするという大任、この大野健吾、必ずや果たしてご覧に入れます!」
古都・京都の未来を賭けた挑戦の翼は、今、選ばれし二人の手に、確かに託された。
◇3-3【鳳凰の骨格、職人の魂】
明治25年(1892年)10月。
京都郊外に設けられた広大な作業場には、連日、木材を打つ小気味よい槌(つち)の音と、職人たちの威勢のいい声が響き渡っていた。
シカゴの地に建つ「鳳凰殿」の、仮組み作業が進められているのだ。
その中心には、常に建築家・久留正道の姿があった。 彼は、設計図と睨めっこしながら、自らも木屑と汗にまみれ、一本一本の木材の反りや木目まで厳しく検分し、宮大工たちに的確な指示を飛ばす。
その眼光は鋭く、一切の妥協を許さない。若い職人が少しでも気を抜こうものなら、
「魂を込めろ!その一寸の狂いが、百年先の歪みとなるぞ!」と、作業場の空気がびりびりと震えるほどの怒号が飛んだ。
彼の厳しさは、単なる気難しさから来るものではない。
この仕事が、ただの建築ではなく、日本の職人の誇りと、失われつつある伝統技術の存亡を賭けた「戦い」であることを、誰よりも理解しているからだった。
その日の作業が終わり、職人たちが三々五々引き上げていった後も、久留は一人、夕暮れの作業場に残っていた。
彼は、月明かりの下で組み上げられつつある鳳凰殿の巨大な骨格を、静かに見上げていた。
その手には、仕上げに使われる、滑らかに削り上げられた一本の檜(ひのき)の部材が握られている。
その人肌のように温かく、どこか神々しいまでの木の感触が、彼の脳裏に、遠い昔の、
しかし決して忘れることのできない光景を蘇らせた。
(……そうだ、あの時も、こんな月夜だった)
明治の初め、まだ彼が若き見習いだった頃。 日本中を「文明開化」という名の嵐が吹き荒れ、「廃仏毀釈」の愚行がまかり通っていた時代。彼が師と仰ぐ宮大工の棟梁と共に手掛けた、とある山寺の本堂が、ある夜、暴徒と化した村人たちによって打ち壊された。
「仏など、これからの世には不要じゃ!」
「こんな古臭いものを壊して、学校ば建てるんじゃ!」
そんな叫び声と共に、師が、そして自分が、魂を込めて組み上げた美しい柱や梁が、斧で無残に切り裂かれ、へし折られる乾いた音が夜の闇に響いた。貴重な仏像や経典が、燃え盛る炎の中に次々と投げ込まれていく。
焼け跡に立ち尽くす師の背中は小さく震え、煤(すす)に汚れた頬を涙が伝っていた。
そして西洋のものさしだけで全ての価値を決め、自らの国の宝を、いとも容易く破壊し、安値で海外に売り払う、新しい時代の軽薄さ。
あの夜の光景が、久留正道の心に、決して消えない火傷のような痕(あと)と、そして鉄のような信念を刻み込んだのだ。
(もう二度と、あんな思いはせん…)
彼は、手の中の檜を、指の関節が白くなるほど強く、しかし慈しむように握りしめた。
(俺たちが今、ここで作っているのは、単なる建物ではない。あの愚かな時代に打ち壊され、忘れ去られようとしている、この国の文化の「背骨」そのものなのだ。 千年の風雪に耐え、寸分の狂いもなく、ただ静かに、そして気高く佇む。 その「本物」の姿こそが、我々の答えだ…!)
ただ、夕闇に浮かび上がる鳳凰の骨格を見上げ、彼はこの仕事に己の全てを捧げることを、改めて心に誓っていた。
その彫像のように動かない横顔は、まさに「信念の人」そのものだった。
◇3-4【生きた京文化、異国の舞台へ】
明治25年(1892年)12月
シカゴ万国博覧会の開幕が目前に迫り、京都実業協会の会議室は、紫煙と男たちの脂汗の匂いが充満していた。
最終準備の確認に追われる者たちの熱気が、冬の寒さを忘れさせるほどだ。
プロジェクトの連絡調整役として奔走する桐島文子の胸には、まだ拭えぬ懸念が澱(おり)のように溜まっていた。
(建物だけでは足りない。魂が、生きた魂がなければ、本当の日本は伝わらない…)
全ての議題が終わりかけた、その時。彼女は、意を決して挙手し、発言を求めた。
「中村会長、皆様。今一度、お時間を頂戴できますでしょうか」
ざわついていた室内から、ふっと音が消えた。皆の視線が、その凛とした姿に注がれた。
桐島は深く一礼すると、静かに、しかし腹に力を込めて語り始めた。
「私たちがシカゴに送り出す鳳凰殿は、日本の美の結晶です。 ですが、それはまだ、魂の宿っていない、至上の器に過ぎません。 そこで、皆様にご提案がございます。あのシカゴの地で、『生きた京文化』そのものを披露し、その奥深い精神性までお見せするのはいかがでしょう?」
彼女は、一度言葉を切り、核心を告げた。
「この都が世界に誇るべき華、祇園の芸妓さん、舞妓さんを、文化の使節として、鳳凰殿へお連れするのです!」
その言葉は、爆弾のように会議室に投下された。
一瞬の空白の後、最初に声を上げたのは、居並ぶ重鎮の一人、浜岡光哲だった。
椅子を蹴るようにして立ち上がる。
「…桐島さん、君は何を言っているのかね」 その声は低く、あからさまな侮蔑の色が滲んでいた。
「花街の女を、日本の代表としてアメリカへ? 言語道断だ! それは日本の品位を貶め、我々の文化が、ただの遊興の道具であると、世界に誤解させるようなものではないか! 日本の恥を晒すおつもりか!」
「浜岡様の言う通りだ!」
別の商人からも野太い声が上がる。
「そもそも、ただでさえ予算はカツカツだというのに、さらに増員してアメリカまで連れて行くなど、一体どれほどの金がかかると思っているんだ!」
反対意見は、堰を切ったように噴き出した。
会議室は、桐島への厳しい視線と、怒号に近い非難の声で満たされる。
中村栄助は、その様子を険しい顔で腕を組み、黙って見ていた。 やがて彼は、その重い口を開いた。
「…桐島君。皆の懸念ももっともだ。君は、彼らの反対をどう説得するかね?」
中村の目は、彼女の覚悟を試していた。ここで視線を逸らすようなら、この話は終わりだと。
桐島は、その問いを、そして満座の非難を、瞬き一つせず一身に受け止めた。 その瞳の光は、少しも揺るがない。
「浜岡様。祇園の芸舞妓が磨き上げた舞や唄、三味線の音、そしておもてなしの心。 それは、数百年をかけて練り上げられた、日本の生活美の頂点です。それを『恥』と断じるのは、我々自身が、自らの文化の本質を見誤っている証拠ではございませんでしょうか」
彼女の声は、静かだが、よく研がれた刃のような強さがあった。
「そして、誤解を恐れて、我々の文化を隠すのですか? 違います。誤解される恐れがあるからこそ、私が行くのです。私の言葉で、彼女たちの芸がいかに崇高なものであるか、その精神性がいかに深いものであるかを、世界に伝えるための舞台を、私が責任をもって築きます」
そして彼女は、予算について言及した商人に向き直った。
「費用は、確かにかかります。しかし、これは浪費ではございません。未来への投資です。 言葉の通じぬ人々の心を、最も強く、そして直接的に揺さぶるのは、いつの時代も、人が織りなす『生きた体験』です。彼女たちの舞ひとつが、鳳凰殿への、ひいては日本への関心を、何万語を費やすよりも雄弁に掻き立ててくれると、私は確信しております!」
言い切った桐島文子の気迫に、あれほど騒がしかった会議室が、再び静寂を取り戻した。
反対の声を上げた者たちも、言葉を失い、ただ彼女の顔を見つめている。
中村栄助が、組んでいた腕を解き、ゆっくりと立ち上がった。 そして、満面に笑みを浮かべ、ポンと膝を打った。
「――見事だ、桐島君!」
その声は、部屋の空気をびりびりと震わせた。
「君の言う通りだ。恐れていては何も始まらん! 我々が信じる日本の美を、その魂ごと、堂々と世界に示そうではないか! よし!」
中村は、居並ぶ重鎮たちを見渡し、有無を言わせぬ声で宣言した。
「この件、桐島君に一任する! 異論は、許さん!建築だけでなく、人を通してこそ文化の息吹は伝わる。すぐに人選と手配を進めてくれたまえ!」
それは、京都の未来を担うリーダーの、絶対的な信頼と決断の言葉だった。
桐島文子は、深く一礼した。
その双肩に、また一つ、古都の大きな夢がずしりと乗せられた瞬間だった。
◇3-5【花街の覚悟、鳳凰の舞手】
その日の夕刻、桐島文子と大野健吾は、祇園の花街へと向かっていた。
訪ねた先は、中村栄助のひいきであり、今や二人にとっても馴染みの場所となりつつある、格式高い老舗のお茶屋『一力亭』の一室。
中村の手配で、特別な席が設けられていた。
ほどなくして、襖が静かに開く。
「まあ、文子様に、大野さんまで。お揃いで、どうしたんどす? 今夜は中村の旦那は、ご一緒やないのかしら」
華やかな笑顔と共に現れたのは、今、祇園でその名を知らぬ者はいないと言われる名妓、市駒(いちこま)だった。
彼女の後ろには、見習いである舞妓の市乃(いちの)が、強張った面持ちで控えている。
市駒は、この若い市乃のお姉さん(おねえさん)、すなわち指導役であり、芸事の全てを仕込む師匠でもあった。
「市駒さん、ご無沙汰しております。会長は、本日はいらっしゃいません。 …実は、今日は、いつものように遊びに来たのでは、ないのです」
桐島が、真剣な眼差しでそう切り出すと、市駒の表情から、すっと笑顔が消えた。
彼女は何かを察したように、静かに二人の正面に腰を下ろした。
「…折り入って、あなたにお願いがあり、参じました」
桐島は、単刀直入に、シカゴ万博の計画と、鳳凰殿の構想を語り始めた。 そして、言葉を続けた。
「その鳳凰殿の舞台で、京の文化の真髄を、生きた魂を、世界の人々に見せていただきたいのです。文化の使節として、あなたと…そして、市乃さんとをご一緒に、シカゴへお連れしたい」
一瞬、時が止まったかのようだった。 市乃の小さな喉が、ひくりと動く。市駒は目を見開き、口元を扇子で隠した。
すぐにその表情から華やかな笑みは消え、沈黙が落ちた。
「……アメリカへ? このうちと、まだ半人前のこの市乃を?」
その声は、微かに震えていた。事の重大さが、彼女の肩にのしかかる。
「文子様、お話は大変光栄なことどす。…せやけど、それはあまりにも大きな話。 うちかて、異国のことなぞ、何も知りしまへん。それに、この子たちの舞や芸事が、果たして海の向こうの方々に、ほんまに分かっていただけるもんどっしゃろか…」
市駒の懸念は、もっともだった。自分たちの芸が、ただの「物珍しい見世物」として消費され、その精神性が理解されないまま、好奇の目に晒されることへの恐れ。 そして、まだ若い市乃を、未知の世界へ連れて行くことへの師としての、そして親代わりのような責任。 それが彼女に即答をためらわせていた。
「もしうちたちの舞が京の名に泥を塗るようなことになったら…。そう思うと怖ろしおす」
市駒の不安を、桐島は静かに受け止めた。
「そのために、私がおります、市駒さん。あなたの、そして市乃さんの芸が持つ、本当の価値と精神性を、私の言葉で、責任をもって世界に伝えます。あなた方には、ただ信じて舞っていただきたいのです。あなた方が守り磨き上げてきたこの京の雅(みやび)を」
桐島の真摯な言葉に、市駒はしばらくの間、じっと畳の目を見つめていた。
大野は一言も口を挟まなかった。ただ、桐島文子という女性の交渉術と、市駒という女性が背負うものの重さに、息をするのも忘れ見入っていた。 これは、商いの駆け引きなどではない。 文化の未来を賭けた、魂のやり取りなのだと、彼は肌で感じていた。
やがて、市駒は隣に座る市乃へと、そっと視線を移した。 「市乃」 その声は、優しく、そして厳かだった。
「あんたは、どうしたい? これは、あんたの人生にも関わる、大きな話どす。怖いか?」
それまで黙って大人たちのやり取りを聞いていた市乃は、ビクリと肩を震わせた。
着物の膝の上で固く握りしめていた小さな拳が、白くなっている。 彼女は、一度だけ強く拳を握りしめると、顔を上げた。
その瞳は、小刻みに揺れながらも、一点の曇りもない、強い光を宿していた。
「…怖おす。けど…」
彼女は、桐島文子と、そして姉弟子である市駒を、まっすぐに見つめた。
「けど、うちは行きたいどす…! うちたちの舞が、お座敷の中だけでなく、世界中の人を喜ばせられるかもしれんのやったら…うちは、見てみたい。 この目で、確かめてみたいどす! それが、京の舞妓としての、うちの誇りどす!」
若い舞妓の、か細い、しかし芯の通った声。 その言葉が、市駒の最後の迷いを吹き払った。
彼女の目元に、ふっと柔らかな笑みが浮かぶ。 それは、弟子の成長を喜ぶ、美しい笑みだった。
「…よう言うた、市乃」
市駒は、再び桐島に向き直ると、深く、そして見事な所作で、頭を下げた。
「文子様、大野様。中村会長の、そしてお二人の、その大きな夢に、この市駒、乗らせていただきます。うちとしたことが、覚悟が足りまへんどした。どうか、この市駒と、未熟な舞妓の市乃に、京の都の魂を世界の空に羽ばたかせるという大役、お任せくださいまし。 この身、この芸、全てを懸けて、お務めさせていただきます」
それは、単なる快諾ではなかった。
祇園に生きる女たちの、誇りと未来を賭けた、静かで、しかし何よりも重い「覚悟」の言葉だった。
市駒の決意の言葉に、桐島は深く一礼した。
その隣で大野健吾もまた、まるで京の文化そのものに頭を下げるかのように、深くそして敬意を込めて畳に手をついた。
平等院鳳凰堂という「形」と共に、市駒と市乃という「生きた雅」もまた、シカゴの地で京の魅力を伝えることになる。
その準備が今まさに整ったのだった。
◇3-6【鳳凰、海を渡る】
明治25年(1892年)も暮れようとする頃、
桐島文子たちがシカゴへの渡航準備に奔走するのと時を同じくして、京都では世紀の一大事業が大きな節目を迎えていた。
建築家・久留正道の緻密な設計と、選び抜かれた日本の宮大工たちの卓越した技により、宇治の平等院鳳凰堂を精巧に再現するための主要な木造部材が、ついに国内で組み上げられたのだ。
その優美な姿は、岡倉天心の美術的指導のもと、細部の装飾に至るまで日本の美意識の粋を集めたものであった。
しかし、それは仮の姿。幾万にも及ぶ部材は再び慎重に解体され、一つ一つに丁寧な印が施され、厳重に梱包されていく。
年が明けた明治26年(1893年)正月、
それらの部材は、日本の職人たちの魂と京都の民の熱い願いを乗せ、物言わぬ文化使節として、シカゴへと向かう長い船路に就いた。 中村栄助をはじめとする京都実業協会の面々は、この「無言の使者」の無事の到着と、桐島たちの手による華々しい披露の日を、祈るような思いで待ち望んでいた。


