シカゴを舞う京の鳳凰~あなたの財布で眠っている130年の誇り ―

◇2-1【祇園の夜に宿る決意】

数日前の京都実業協会の会議で、シカゴ万国博覧会への出展内容が紛糾し、
結論が出ぬまま持ち越しとなってから、中村栄助の眉間には、指で押しても戻らぬほど深い縦皺が刻まれていた。
平安遷都千百年紀念祭という国内の一大事業と並行して進めねばならぬ、この海の向こうへの挑戦。
失敗すれば末代までの恥という鉛のような重りが、彼の太い肩に食い込んでいるようだった。

その夜、中村は祇園に近い、なじみの料亭の奥まった一室に、桐島と、そして自身の右腕とも頼む秘書の大野健吾を招いていた。
表向きは先の会議の労いと、今後の進め方についてざっくばらんに意見交換を、という趣旨であったが、
中村の真の狙いは、あの日、会議の最後に何かを掴みかけたように見えた桐島の胸の内を、もう少し探ることにあった。

大野健吾は、西陣の織元の次男であったが、家業の浮き沈みを間近で見て育ち、
新しい時代の商業を学ぶべく、早くから中村の下で実務に携わってきた。
今年で桐島文子と同じ25歳になる彼は、冷静沈着な判断力と、複雑な案件も的確に処理する高い実務能力で、中村からの信頼も厚い。 表立って感情を見せることは少ないが、その実直な瞳の奥には、京都の未来を憂い、
中村や、異色の才媛である桐島文子の挑戦を支えたいという青い炎のような静かな熱が燃えていた。
今日のこの会食も、中村の意を汲み、細やかに手配を整えたのは彼であった。

杯が2、3度重ねられ、部屋の空気が少し和らいだ頃合いを見計らい、中村が切り出した。
「桐島君、先日の会議では、皆、京都を思うあまり、やや視野が狭くなっていたやもしれんな。
君は、あの紛糾した議論を、どう見ていたかな? 率直な意見を聞かせてほしい」

桐島は、手にしていた小さな盃を静かに置くと、まっすぐに中村の目を見据えた。
隣に座す大野も、そのやり取りに背筋を伸ばし、耳を澄ませている。
「中村会長。皆様の京都を思うお気持ち、そしてこの街の素晴らしい文化を世界に示したいという熱意は、
痛いほど伝わってまいりました。しかし…」
彼女は、言葉を選びながらも、その声には確かな芯があった。

「率直に申し上げます。今のままでは、シカゴで京都の、いえ、日本の真の価値を世界に示すことは難しいかと存じます。」

「わたくしたちが必要としているのは、単に美しい『モノ』や、珍しい『技』を並べることではございません。
それは商人(あきんど)の仕事です。 今、求められているのは
――それらが内包する日本の『精神性』を、異文化の人々にも直感的に伝わる言葉と形に『翻訳』すること。
そして彼らの心を揺さぶり、記憶に焼き付けるような、普遍的な『物語』として届けることです。

そのためには、これまでの展示の常識を覆す『見せ方』……見る者の度肝を抜き、
一瞬で日本というブランドを植え付けるような、大胆な『仕掛け』が不可欠だと、そう確信しております」

中村は、腕を組み、桐島の言葉を黙って聞いていた。 彼女の瞳の奥に宿る強い光。
それは、単なる理想論や思いつきではない、何か具体的な形を見据えている者の光だと、彼は改めて感じ取っていた。

「物語…仕掛け、とな。桐島君、君の言う『大胆な仕掛け』とは、一体どのようなものなのだね?
何か、具体的な考えがあるというのか?」
中村の声が、わずかに上ずった。隣の大野も、瞬きさえ忘れて桐島の次の言葉を待っている。
桐島は、そこでふっと表情を和らげ、しかしその瞳の輝きは少しも失うことなく言った。

「会長、お恥ずかしながら、まだ漠然とした構想の段階でございます。
しかし… もし、会長が、わたくしのような若輩の、そして少々型破りな考えにもう少しお時間をくださるのであれば、
数日のうちに、必ずや具体的なご提案としてまとめさせていただきます。
その際は、改めて協会の皆様の前でお話しする機会を頂戴できればと」
その言葉には、確かな自信と、それを裏付けるであろう深い洞察が秘められていた。
具体的な内容はこの場では明かさぬという、彼女なりの矜持と戦略も感じられた。

中村は、じっと桐島の目を見つめた。この女性は、京都の古いしきたりや常識には疎いかもしれん。
しかし、彼女が持つ国際感覚と、物事の本質を見抜く力、
そして何よりもその揺るぎない信念は、今の閉塞した京都が、
そして自らが掲げる「京都文化首都構想」が最も必要としているものかもしれなかった。

「…分かった」
中村は、力強く頷いた。
「桐島君、君のその『型破りな考え』とやらに、この京都の未来を賭けてみよう。
次回の会議、君の提案を、協会の皆と共に心して待っておるぞ」
「ありがとうございます、中村会長。必ずや、ご期待以上のものを…」
桐島は、深く、一礼した。
彼女の胸中には、まだ輪郭も定からぬ、しかし途方もなく壮大で美しい何かのイメージが、
確かな熱を持って、まさに形を成そうとしていた。
隣に座す大野は、彼女のわずかに紅潮した頬と、行灯の光を映してひときわ強く輝く瞳の奥に、言葉にならぬ確信を感じ取っていた。

◇2-2【京都の灯を何に託すか】

数日後、再び京都商法会議所の大広間には、京都実業協会の面々が顔を揃えていた。
前回の会議で中村栄助から発せられた「世界を驚かせる京都の宝を見つけ出せ」という宿題は、彼らの頭を悩ませ続けていた。
部屋には、前回にも増して澱(よど)んだ空気と、わずかな期待が入り混じっている。
桐島文子は、前回と同じように末席近くに静かに座し、手元の帳面に時折何かを書き留めながら、会議の始まりを待っていた。
彼女の表情は落ち着いているが、その大きな瞳の奥には、鋭い光が宿っているのを、中村だけが気づいていた。

「さて、皆、知恵を絞ってきてくれたかな」
中村の言葉で、二回目のシカゴ万博出展内容検討会議が始まった。
しかし、口火を切った古参の西陣織問屋、松枝仁左衛門の提案は、前回の焼き直しとも言えるものだった。

「やはり、西陣の粋を凝らした織物や、清水・京焼の逸品を、大々的に展示するのが本筋ではないでしょうか。
これぞ日本の美の神髄、必ずや異国の方々を唸らせてみせましょうぞ」
その職人の誇りを込めた言葉に、しかし、今回は以前のような力強い賛同の声は上がらなかった。

「松枝殿のおっしゃることはもっともだ。だが、碓井の旦那が前回指摘された通り、物産だけでは弱い。
他の国の華やかな展示に埋もれてしまうのではないか…」 と、別の商人が首をひねる。

その碓井小三郎が、腕を組みながら鋭い声で言った。
「左様。もっと強烈な印象を残す、まさに『京都の顔』となるような、シンボリックなものが必要だ!小手先の品物では、あのシカゴの喧騒の中では一瞬で忘れ去られてしまうぞ!」

その言葉に、今度は京都経済界の重鎮である浜岡光哲が、熟考の末といった面持ちで口を開いた。
「では、いっそ、二条城の二の丸御殿などはどうでしょう?あの金碧(きんぺき)輝く桃山文化の粋を集めた武家の建築も、
日本の力を示すものとして、外国人の肝を潰すのではありませぬか? 模型ではなく、可能な限り忠実に再現するのです」
その壮大な提案に、一瞬、会場はどよめいた。確かに、それならばインパクトはあるだろう。しかし、すぐに別の意見が出た。
「浜岡様、武威を示すのも一手ではございますが、今の日本が、そして我々が再生させようとしている京都が、世界に伝えたいのは、それだけでしょうか…?もっと、平和で、文化的なメッセージを発するべきではないのか、と考えますが…」
それは、比較的若い、進取の気性に富む商人の声だった。

結局、この日も議論は堂々巡りを繰り返した。
京都の料理人を連れていき、その技を披露してはどうか、いやそれではあまりに一過性だ。
日本の庭園を再現してはどうか、いやそれこそ輸送と維持管理が至難の業だ。

どの案も、京都の文化への愛情と誇りに満ちてはいるものの、
シカゴ万博という国際舞台で「世界を驚かせる」という一点において、そして現実的な制約を考えると、決定打とはなり得なかった。 中村栄助は、扇子で何度も手元を叩き、貧乏揺すりを堪えるように足を組み替えた。
時間だけが過ぎ、部屋には再び重苦しい沈黙が垂れ込めた。
誰もが、このままではいけないと分かっていながら、その突破口を見出せずにいた。

◇2-3【静寂を裂く卓見】

息詰まるような沈黙が、京都商法会議所の大広間を支配していた。
誰かが茶をすする音さえ、不謹慎に響く。
中村栄助の眉間の皺は深く、集まった実業協会の面々も、打つ手なしといった表情で床板の木目を見つめている。
その、誰もが諦めかけ、吐息をもらそうとした時だった。

「皆様、一つ、提案がございます」 凛とした、しかしどこか熱を帯びた桐島の声が、重く沈んだ空気を切り裂いた。
全ての視線が、手にした数枚の資料を胸に抱いた彼女に、一斉に注がれる。
「宇治にございます、平等院の鳳凰堂は、いかがでしょうか?」

一瞬、会場の衣擦れの音がやんだ。 そして、すぐに「宇治の? 鳳凰堂……でございますか、桐島さん?」
「なぜ、鳳凰堂なのですかな? あれは確かに国宝級の寺院建築ではございますが、それをシカゴへとは、またあまりにも壮大すぎる…」と、驚きと戸惑いの声が低いさざ波となって広がった。

桐島は、周囲の動揺にも臆することなく、その大きな瞳に確かな自信を宿して言葉を続けた。
「理由はいくつかございます。まず、あれこそ、平安貴族文化が最も華やかに花開いた、我が国固有の美意識の頂点を、世界に示すのに最もふさわしい建築だからです。 西洋の壮大な石造建築とは全く異なる、木造建築の持つ軽やかさ、優美さ、そして周囲の自然との見事な調和。これらは、多くの外国人にとって、未知の、そして強烈な魅力となるはずです」
彼女の声は、不思議な浸透力を持って、重苦しかった人々の心に染み込んでいく。
その言葉には、揺るぎない確信が込められていた。

「そして、御所や城郭が持つ、ある種の政治性や武威とは明確に一線を画し、鳳凰堂の、あの水面に映る左右対称の均整の取れた美しい姿は、言葉や文化、理屈を超えて、見る者の心に直接訴えかける普遍的な力があるでしょう」
全員が前のめりになり、桐島の言葉に耳を傾ける。

「何よりも、その名に冠された『鳳凰』東洋では吉兆をもたらす伝説の鳥であり、西洋の不死鳥(フェニックス)にも通じるこの名は、再生と永遠の象徴として国境を超えて理解されやすく、縁起も良い。シカゴ万国博覧会のシンボルの一つとしても、人々の記憶に強く、そして美しく残るはずです。日本の他のどの歴史的建造物よりも、国際的な舞台で、日本文化のメッセージと共に、ひときわ大きな輝きを放つ可能性を秘めていると、私は確信いたします!」

桐島の理路整然と、しかし内なる熱情をほとばしらせた言葉に、会場は再び静まり返った。
だがそれは、先ほどまでの閉塞感とは明らかに異なる、夜明け前のような、期待に満ちた静けさだった。  
次の瞬間、堰(せき)を切ったように、大きな賛同の声が、あちこちから湧き上がった。
「桐島さんの言う通りだ! あれほど美しいものは、日本のどこを探しても他にない!」
「確かに、鳳凰堂なら、世界を驚かせられるかもしれん!日本の美の神髄、ここにあり、と示せるぞ!」
「『京都の文化』を、そして日本の心を象徴するには、これ以上のものはない!」
それまで重く垂れ込めていた暗雲が、まるで一陣の神風によって一気に吹き払われたかのようだった。
異論は、もはや誰からも出なかった。
中村栄助は、目頭を押さえ、何度も大きく頷くと、ついに力強く立ち上がり、その太い腕を天に突き上げた。

「…皆、異存はないな!よし!我々、京都実業協会は総意として、この『平等院鳳凰堂』の精巧なる複製を建設し、シカゴ万博に京都の、いや日本の至宝として出展することをここに決定する! 私は来月、この案を国へ上げ、必ずや実現させるぞ!」

「おおーっ!!」
一瞬の空白の後、空気が破裂したかのような音が会場を叩いた。拍手だ。
隣にいる男が何かを叫んでいるが、その声さえも波のような轟音にかき消されて聞こえない。
床板を通して、百人近くの掌が打ち鳴らされる振動が、びりびりと足裏に伝わってくる。
古都の未来を賭けた彼らの決意は、今、桐島文子という一人の女性の卓見によって、
明確な形を得て、力強く世界へと向けられようとしていた。

◇2-4【千年の都、汽車に乗る】

「平等院鳳凰堂」という方針を固めてから数日後の早朝。 東京へと続く東海道本線、その京都駅のプラットホームには、特別な旅立ちを見送る人々で、朝の冷気にもかかわらず、湯気が立つほどの熱気が満ちていた。
浜岡、松枝をはじめとする京都実業協会の面々が、固い表情でホームに並んでいる。
彼らの視線の先には、これから東京へと向かう、中村栄助、桐島文子、そして補佐役として同行する大野健吾の三人の姿があった。

「会長、桐島さん、京都の魂、お頼み申しますぞ」
一人が代表するようにそう声をかけると、皆が深く頷いた。
中村は、その想いを一身に受け止め、力強く応える。
「うむ。必ずや、我々の鳳凰を大空に羽ばたかせるための勅許(ちょっきょ)を得て参る」

その傍らで、桐島文子は、これから始まるであろう激しい論戦を頭の中で組み立てるかのように、静かに前を見据えていた。
その手には、東京の政府要人たちを、そして宿敵である大蔵省の少輔、古賀宗助を打ち負かすための、膨大な資料と戦略が記された書類鞄が、指の関節が白くなるほど固く握られている。

やがて、けたたましい汽笛が鳴り響き、蒸気機関車が白い煙を大きく吐き出した。
三人は深く一礼し、列車へと乗り込む。

車窓から見える仲間たちの顔が、ゆっくりと遠ざかっていく。
「行くぞ、桐島君。決戦の地、東京へ」
中村の言葉に、桐島は静かに、しかし力強く頷いた。
千年の都の願いを乗せた汽車は、近代日本の心臓部、そして鉄の論理が支配する戦いの舞台へと、
その車輪を軋ませながら、東へと向かった。

◇2-5【中央の万国博覧会担当委員会 なぜ鳳凰なのか?】

数日後、東京・永田町。帝国議会開設に伴い、新築されたばかりの内閣議事堂。
その一室には、日本の未来を左右する男たちが顔を揃えていた。 万国博覧会担当委員会と、主要閣僚との合同会議である。
磨き上げられた長テーブルが鈍い光を放ち、部屋には墨と紙、そして男たちの威圧感が入り混じった重厚な空気が、
まるで澱(よど)みのように溜まっていた。

議長席には内閣総理大臣・伊藤博文。その左右には、外務大臣・陸奥宗光、
そして大蔵省を代表して古賀宗助が氷のような無表情で座している。
他にも、薩長の藩閥を率いる重鎮たちの顔が見える。
(これが…日本を動かす者たち…) 末席に座る中村栄助は、喉が干からびるのを感じた。
京都では誰もが頭を下げる彼も、ここでは、数多いる地方実業家の一人に過ぎない。
その隣で、桐島文子は固く目を閉じていた。 心臓が、まるで警鐘のように肋骨を叩いている。
しかし、彼女はその鼓動を意識の底に沈め、これから始まる戦いに向けて、精神を研ぎ澄ませていた。

「では、議題であるシカゴ万博日本館について、まずは陸軍省よりご意見を伺いたい」
伊藤総理の言葉で、会議は始まった。
陸軍省系の川路委員が、日本の「力」を示す「江戸城天守閣」案を机を叩かんばかりに主張する。
委員の数名が、その威勢に押されたように深く頷いた。

その流れを、中村栄助が必死に押しとどめる。
「お待ちいただきたい! 武威を示すだけが、日本の道ではありますまい! 我々が伝えるべきは、千年の都が育んだ、平和を愛する文化の心…」

「中村会長」
古賀が、中村の言葉を遮った。その声は、研ぎ澄まされた刃物のように冷たい。
「あなたの郷土愛は聞き飽きた。川路委員の案には、少なくとも国家の威信という明確な目的がある。あなたの案には、感傷しかない」
古賀は、中村を、そして京都そのものを見下すかのように続けた。
「幕府がなぜ滅んだか、お忘れか。財政の破綻だ。私は二度と、この国に同じ過ちを繰り返させるつもりはない。この議題は、これにて終いだ」

最終宣告だった。中村は唇を噛み締め、悔しさに拳を握りしめる。
爪が皮膚に食い込む痛みだけが、かろうじて彼を正気に保っていた。
京の町でいかに熱弁をふるおうと、この国の中枢では、ただの「地方の感傷」として一蹴される。
これが現実か…。 会議室から、一切の音が消えた。誰かのペンが紙を走る音さえ、耳障りなほど響く。
氷のように張り詰めた、呼吸すら憚られる静寂だった。その静寂を、凛とした声が破った。

「恐れながら、申し上げます」
全員の視線が、声の主――桐島文子に注がれた。
ある大臣が侮蔑の色を隠さずに眉をひそめ、隣席の者に「誰だ、あの女は」と囁くのが聞こえる。
付き添いにしか過ぎないはずの女が、この場で発言すること自体が、異例中の異例だった。
桐島は、その無数の刺すような視線を一身に受けながらも、静かに立ち上がり、深く一礼した。
背筋を伸ばしたその姿には、嵐の前の海のような静けさがあった。

「川路委員の、我が国の威信を世界に示さんとするお心、誠に感服いたしました。 ですが、その『力』の示し方について、別の視点からのご提案を、ここにいる皆様に問わせていただきたく存じます」

彼女はそこで一度言葉を切り、今度は会議室の全員を、その大きな瞳でゆっくりと見渡した。
(見ているがいい…あなたたちが切り捨てようとしている文化の、本当の力を)
中村は、祈るような思いで彼女を見守っていた。

「江戸城が『過去の日本の力』を象徴するものであるならば、私どもが提案いたします鳳凰堂は『未来の日本の価値』を示す、唯一無二の建築でございます」 「未来の価値、だと?」 川路が、訝しげに呟く。それまで彼女を無視していた他の委員たちも、その意外な言葉に、身を乗り出した。

「はい。城とは『戦の砦』にございます。それを今、世界に示すことは、『日本は戦の記憶に囚われた国だ』という、後ろ向きのメッセージを送りかねません。 しかし鳳凰堂は、戦乱が終わり、平和な世で花開いた文化の結晶。それは『日本は戦を乗り越え、美を愛する平和な国である』という、力強い未来志向のメッセージとなります」

「そして何より、我々は彼らの土俵で戦う愚を避けるべきです。城郭建築の壮大さで、ヨーロッパの石の城に果たして勝てるでしょうか? しかし、鳳凰堂が持つ、あの水面に浮かぶような軽やかさ、自然と調和した繊細な美意識は、彼らが持ち得ない、我々だけが千年をかけて築き上げた、無二の価値。我々は、我々が最も輝ける土俵でこそ、勝負すべきではないでしょうか」

桐島の声には、不思議な磁力があった。
侮蔑の表情を浮かべていた数名の重鎮の顔から、険がわずかに和らぎ、代わりに知的な好奇の色が浮かび始める。
場の空気が少しずつ、しかし確実に変わりつつあった。

だが、その空気を冷や水を浴びせるように、古賀宗助の冷徹な声が響いた。
「……詭弁だ」
古賀は、不快そうに目を細め、初めてまともに文子の方を向いた。
「だいたい、お前のその役目は何だ。通訳と聞いたが、女だてらに国政の場に口を挟むとは。通訳なら通訳らしく、ただ言葉を訳して男の後ろで控えておればいいのだ」

「私は、通訳としてこの場にいるのではありません」
桐島は、その侮蔑の視線を真っ向から受け止めた。
「私の職務は『広報官』。パブリック・リレーションズ……世間と対話をし、関係を築き、多くの人達に京都や日本を正しく知ってもらう仕事です」
「広報?はん、聞いたこともない。浮ついた横文字か。そんな虚業に使う金などない!」
古賀は吐き捨てるように言った。

しかし、桐島は怯まなかった。むしろ、その言葉を待っていたかのように、最後の一手を打った。
その視線は、氷の男、古賀宗助を真っ直ぐに射抜いていた。
「いいえ、虚業ではありません。……なぜ鳳凰堂なのか。古賀閣下、お聞きください」
「それは、その名に冠された『鳳凰』――この伝説の鳥は、西洋世界では『フェニックス』として知られております。 すなわち、『灰の中から蘇る、再生の象徴』として。幕末の動乱という灰の中から、近代国家として蘇った日本。その再生の物語を、この『鳳凰』という名は、人種や文化を超え、世界中の人々の心に、一瞬で、そして鮮烈に届けてくれるのです。古賀閣下、これは感傷などではございません。日本の再生の物語を世界に伝え、そのブランド価値を高め、ひいては外交を有利にし、貿易を促進する。 これは、文化の衣をまとった、最も効果的な国家戦略であると、私は確信いたします」

会議室は、誰もが息をするのも忘れたかのように静まり返っていた。
「江戸城」案が語っていたのは、過去の力。
しかし、桐島文子が見せたのは、過去を礎に、世界と共に歩む、日本の未来そのものだった。
全てを語り終えた桐島は、自身の膝がわずかに震えているのを感じていた。
全身全霊を込めた言葉だった。もう、後悔はない。

その重い沈黙を破ったのは、外務大臣、陸奥宗光だった。
「…古賀君」

陸奥は、まず宿敵ともいえる大蔵省の重鎮に、静かに声をかけた。
「君の財政規律を重んじる姿勢は、国を預かる者として当然だ。私も、無益な事業に国費を投じることには反対の立場だ。
だが、外交というものは、数字だけでは動かん。国力とは、軍艦や大砲の数だけで測られるものではないのだよ」

陸奥は、そのカミソリのように鋭い視線を、桐島へと向けた。
その視線には、もはや侮蔑はなく、一人の論客に対する純粋な敬意と評価の色が浮かんでいた。
「先ほど、桐島さんが言われた『文化的な品格』、そして『尊敬』 これこそが、今の日本が欧米列強と対等に渡り合うために、喉から手が出るほど欲しいものなのだ」

そして彼は、再び古賀と、会議室の全員に向き直り、最終宣告のように言い放った。
「この鳳凰堂は、単なる建物ではない。現在、私が命を賭して臨んでいる不平等条約改正、その交渉の席で、日本の文明度を世界に示す、何よりの証となる。これは文化事業であると同時に、極めて重要な外交政策そのものだ。外務省としてこの案を全面的に支持する!」

その言葉の重みは、絶大だった。
「財政」の論理で全てを支配しようとした古賀に対し、「外交」というもう一つの、そして同等以上に重要な国家の論理が、真正面から叩きつけられたのだ。

外務大臣、陸奥宗光その人が「外交政策だ」と断言した以上、もはや「文化は贅沢だ」という古賀の主張は、その拠り所を失う。
やがて、議長席の伊藤博文が、面白そうに口の端を上げ、ポンと膝を打った。
「決まりだな。面白いではないか、京都の鳳凰。 シカゴの空で、どれほど見事に舞うか、見てみようじゃないか」
鶴の一声だった。

古賀は、鋭い視線で桐島と中村を射抜いた。
「この計画の予算は、承認した額から一円たりとも超過することは許さん。 大蔵省は、諸君らが使う国費の一切を、厳しく監視し続ける。 それを肝に銘じておくがいい」

それは、彼の敗北宣言であり、同時に、これから始まる新たな戦いの始まりを告げる、ゴングの音でもあった。
その言葉を聞き届けた瞬間、桐島文子の肩から力が抜けた。
安堵で膝が折れそうになるのをこらえ、隣に座る中村に気づかれぬよう、彼女はそっと深く息を吐いた。

会議室からの帰り道、中村栄助は、まだ興奮冷めやらぬ様子で桐島の肩を叩いた。
「桐島君…いや、桐島先生!見事だった!日本の、いや、世界の度肝を抜くのは、鳳凰殿ではなく、君の方かもしれんな!」
一介の地方実業家と、その通訳に過ぎない女性。 しかし彼らは確かに、日本の中枢を動かしたのである。