シカゴを舞う京の鳳凰~あなたの財布で眠っている130年の誇り ―

◇15-1【船上の誓い、魂の在り処】

久留正道との、静かで、しかし確かな雪解けの握手を交わした後、桐島文子は一人、 再び甲板の縁に立ち、遠ざかるアメリカ大陸と、その上に広がるシカゴの街の光景を、 静かに見つめていた。
半年以上に及んだ激闘の日々が、まるで夢のように思い出される。
彼女は、冷たい海風に髪をなびかせながら、深く息を吸い込んだ。

「ここでの戦いは、終わったのね。でも、この物語はまだ決して終わってはいない。 むしろ、ここからが始まりなのかもしれないわ」
その言葉は、シカゴでの成功を糧に、京都文化首都構想という大きな使命に、これからも生涯をかけて取り組んでいくという、 彼女の新たな、そしてより強固な決意が込められていた。
しかしその決意の内実は、シカゴへ来る前のものとは、明らかに異なっていた。

(私が最初にやろうとしていたことは、何だったのだろう…)
桐島は、自問する。

(そう、私は日本の文化の真価を、私の言葉で私の知識で西洋の人々に『教え』『説得』しようとしていた。それはどこか傲慢な考えだったのかもしれない)

彼女の脳裏に、久留のあの頑ななまでの職人魂が蘇る。 彼の怒りは、単なる伝統への固執ではなかった。
それは合理性や言葉だけでは決して説明しきれない、千年の時をかけて受け継がれてきた日本の「魂」そのものを守ろうとする、悲痛なまでの叫びだったのだ。

そして、あの鉄の男、ダニエル・バーナム。彼の心を最終的に動かしたのは、彼女の理路整然としたプレゼンテーションではなかった。 最終日の夜、市乃の舞が、彼の心の奥底に眠っていた、 おそらくは彼自身も忘れていたであろう、 幼い日の「個人的な記憶」を呼び覚ました、あの瞬間。

(そうか…文化を伝えるということは、一方的に『教える』ことではないのね)
桐島の心に、まるで夜明けの光が差し込むように、一つの確かな真理が訪れた。

(それは、相手の内なる物語と、私たちの物語を、静かに『共鳴』させること。 わかりあうこと。その共鳴が生まれた時、初めて言葉や文化の壁を超えた、真の理解が生まれるのだわ)

アメリカからの帰国時、 私はアメリカと日本の二つの文化の狭間に立つ、孤独な「異邦人」だった。 しかし今は違う。

(私は、もはやどちらにも属さない異邦人ではない。西洋の合理性と、日本の精神性、その両方を深く理解し、それらを繋ぐことができる。世界でただ一人、私だからこそ繋げる『架け橋』がある)
彼女の武器は、もはや単なる「英語」や「ジャーナリズム・広報の知識」ではなかった。
それは異なる文化への深い敬意と、人々の魂を共鳴させる「物語」を、その本質を、 見出し、そして紡ぎ出す力だ。

遠ざかるシカゴの光が、水平線の彼方へと消えていく。 しかし桐島の瞳には、もはや感傷の色はなかった。
その視線は、これから向かうべき日本の、そして京都の未来を見据えている。
(中村会長が掲げる『京都文化首都構想』。あれは単なる京都だけの産業振興策ではない。 日本の魂を世界とそして未来と『共鳴』させていくための、 壮大な文化戦略の第一歩なのだ)
その実現のために、この先の人生の全てを捧げよう――。
その揺るぎない覚悟が、遠ざかるアメリカ大陸の最後の光を見つめる彼女の瞳に、 静かに、しかし何よりも力強く、宿っていた。

◇15-2【古都への帰還、新たなる黎明】

約一か月の長い船旅を終え、一行が再び京都の土を踏んだのは、年の瀬も押し迫り、 東山から吹きおろす風が肌を刺すような、底冷えのする冬の日だった。 けたたましい汽笛と共に、汽車がゆっくりと京都駅のプラットホームに滑り込む。
扉が開き、故郷の冷たく、しかし懐かしい空気を吸い込んだ瞬間、彼らの目に、信じられない光景が飛び込んできた。

ホームは、黒山の人だかりで埋め尽くされていたのだ。
中村栄助会長をはじめとする京都実業協会の面々の、誇らしげな顔、顔、顔。
そして、その周りには、新聞で彼らの帰国を知り、一目その姿を見ようと集まった、 数えきれないほどの京都市民たちの姿があった。

「おかえりなさい!」
「ようやった!」
誰からともなく上がった声が、やがて空気を震わすほどの拍手と、割れんばかりの歓声へと変わる。

その熱狂の中、市駒と市乃の周りには、置屋の女将や、姉妹芸妓たちが駆け寄り、 涙ながらにその肩を叩き、固く抱きしめていた。 「よう帰ってきた、市駒!」
「市乃ちゃん、あんたは京の誇りや!」
泣き笑いの顔で、彼女たちは、ただ何度も頷くばかりだった。

人垣の少し後ろの方に、大野健吾は、見慣れた、しかし少しだけやつれたように見える背中を見つけた。
兄だ。西陣で、苦しい家業を守り続ける、織元の当主。 兄は、世界的な大成功を収めて帰ってきた弟に、何も言わない。
ただ人々の喧騒の中で、深く、深く、その頭を下げた。
その無言の一礼に、家業の、そして西陣の未来への、一筋の希望を見出した弟への、最大限の感謝と尊敬が込められていた。

大野もまた兄に向かい、誰にも見えぬように、そっと深く頭を返した。

中村栄助に先導され、桐島が人波をかき分けて歩いていると、 すれ違った名も知らぬ一人の年配の女性が一行に気づき足を止めた。
そして桐島に向かって、そっと手を合わせるように、深くお辞儀をした。
「…お帰りなさいまし。ほんまに、よう、やってくださいました」
その小さな、しかし心のこもった声。 新聞で彼らの活躍を知った、一市民からの感謝だった。
桐島は、その声にこれまでのどんな賛辞よりも、胸を熱くした。

やがて、駅舎の出口で、中村栄助が、桐島の前に改めて向き直った。
彼は、感極まったように、一度、天を仰ぎ、こみ上げるものを抑えるように息を吐く。
そして、彼女の肩をがっしりと掴むと、絞り出すような声で言った。

「…おかえり、桐島君。よう、帰ってきた」
「会長…」
「わしは、京の宝をシカゴに送ったつもりだったが…とんでもない。日本の宝を、シカゴに送ってたんやな」

その言葉は彼女の成し遂げたことへの最大級の、そして最も心のこもった賛辞だった。
桐島の瞳から、こらえていたものが静かに一筋、流れ落ちた。

日本へ戻った桐島文子は、休む間もなく、万博で得た貴重な経験と知見を、一年半後に控えた平安遷都千百年紀念祭、そして何よりも「京都文化首都構想」の具体的な推進へと活かそうと、新たな情熱を燃やし始めていた。

シカゴでの成功は、彼女にとってゴールではなく、京都と日本の文化を世界へ、 そして未来へと繋いでいくための、新たなスタートラインに立ったことを意味していたのだ。
彼女の瞳は、かつてシカゴの空を見上げた時と同じように、今度は冬空の向こうにある京都の未来を、そしてその先に広がるであろう日本の文化の新たな可能性を、力強く見据えていた。  


◇15-3【鳳凰の機音(はたおと)、夜明けの西陣】

京都駅での熱狂的な歓迎から一夜が明けた、冬の朝。
まだ街が静けさに包まれている中、大野健吾は、桐島文子を伴い、西陣の通りを歩いていた。
凍てつくような空気が肌を刺すが、彼の足取りには、昨日までの喧騒とは違う、静かな決意のようなものが感じられた。

「…お恥ずかしいところを、お見せするやもしれませぬ」
ぽつりと、大野が呟く。桐島は、何も言わずに、ただ静かに隣を歩いた。 船上で聞いた、彼の故郷への祈り。
その祈りが、今、どのような形で彼自身の目に映るのか。 それを見届けるのが、自分にできる唯一のことだと感じていたからだ。

やがて、二人は一軒の、古いが、手入れの行き届いた機屋(はたや)の前で足を止めた。
大野の実家だ。 彼が家を出る前には、どこか寂しげで、固く閉ざされていたはずの格子戸。
その隙間から、今は、温かい光が漏れている。
そして、何よりも。 ――カッタン、カッタン、…カッタン、カッタン…

その音に、大野は、はっと息をのんだ。
規則正しく、力強く、そしてどこか誇らしげに響いてくる、 機(はた)の音。
彼が子供の頃、この街の呼吸そのものだった、 あの懐かしい機音(はたおと)
もう二度と、この家から聞こえることはないのかもしれないと、 心のどこかで諦めていた、あの音が。

大野が、吸い寄せられるように工房へと足を踏み入れると、 そこには、黙々と機に向かう、兄の姿があった。
昨日、駅で無言の礼を交わしただけの、頑固で実直な西陣の職人。
兄は二人の姿に気づくと、一度だけ手を止め、無言で織りかけの帯を指差した。

その紋様に、桐島は息をのんだ。
黒地の絹の上に、金糸と、燃えるような赤色の糸で織り出されているのは、 今まさに、天へと力強く羽ばたこうとする、一羽の、荘厳な鳳凰の姿だった。

「……兄さん、これは…」
大野の声が、震える。

兄は、弟の顔を見ようともせず、再び機に向き直ると、 作業を続けながらぶっきらぼうに、しかしその声には隠しきれない喜びを滲ませて言った。
「……シカゴの話が、伝わってきてな」
カッタン、と機が、心地よい音を立てる。
「懇話会に来ていた、アメリカの大店の奥方が、お前たちが記念品として売っていた、西陣織の小さなパーティーバッグを、えらく気に入って買っていかれたそうだ。 その手仕事の細やかさと、市駒さんたちの着ていた着物の美しさに、えらく感動されたらしい」

兄はそこで一度、手を止めた。
「その奥方が、後日、改めて鳳凰殿を訪ねて、文子さんに直接、西陣織について尋ねたそうじゃないか。 あんたはその場で、通訳をしながら、この西陣の歴史と、職人の誇りを、丁寧に、熱心に、説明してくれたそうだな」

その言葉に大野は、はっと顔を上げた。
そんなことがあったなど、彼は知らなかった。

「あとな……手紙が来たんや。フランスの女性記者から……ジュリエットとかいう方から、わしのところに、直接な」
兄は工房の壁にかかっていた一枚のデザイン画を、震える指で指し示した。
そこに描かれていたのは、鳳凰の柄をあしらった、 様々な形の優美なパーティーバッグのスケッチだった。

「…『この不死鳥(フェニックス)のバッグを、パリの高級カバン店で独占的に扱わせてほしい』…とな。数年ぶりや。これほど大きな話は」

兄は、ついに弟の方へと向き直った。その目には、涙が浮かんでいた。
「…お前は、家を捨てたんとちゃうかったんやな」
その声は、弟への、初めての、そして最大限の賛辞だった。
「わしらは、この西陣の隅で、一本の帯を織ることしかでけへん。せやけど、 お前は、わしらとは違うやり方で……お前たちがシカゴで蒔いた小さな種が、 こうして芽を出して、この西陣に、もう一度、機音を呼び戻してくれた。…よう、やった」

桐島は、その光景を、工房の入り口で静かに見守っていた。
シカゴでの成功は、単なる国際的な名誉ではなかった。
それは、こうして遠い故郷で、一つの文化を守ろうと必死に戦う人々の、ささやかだが、かけがえのない希望の灯火(ともしび)となったのだ。
その確かな手応えと、身体の奥から湧き上がる温かさを胸に、彼女は工房から見える、冬の澄み切った京都の空を、晴れやかな気持ちで、じっと見上げていた。