シカゴを舞う京の鳳凰~あなたの財布で眠っている130年の誇り ―

◇14-1【白亜の都、閉幕の秋】

万博閉幕の秋風がジャクソン公園を吹き抜け始めた頃、桐島文子は、万国博覧会総監督ダニエル・バーナムを、ある特別な夜の「鳳凰殿懇話会」へ個人的に招待した。

それは、これまでの感謝と、そして日本文化の真髄を彼自身にもう一度静かに味わってほしいという、彼女の心からの願いであった。多忙を極めるバーナムが応じるかは未知数だったが、彼は数日後「喜んで」という短い返事を寄越したのだ。

明治26年10月30日。シカゴ万国博覧会の最終日
夏の熱狂が過ぎ去り、ミシガン湖から吹く風が、日増しにその冷たさを増していく。
あれほど永遠に続くかと思われた、半年間にわたる光と夢の祭典、シカゴ万国博覧会も、ついにその終わりを迎えた。

連日、会場は、この儚い夢の都の最後の姿を目に焼き付けようとする、名残を惜しむ人々で溢れかえっていた。

毎夜のように打ち上げられる、閉幕を告げる壮大な花火。 高らかに演奏される別れのファンファーレ。
人々の胸には、この偉大な祭典を成功させたという達成感と、一抹の寂しさが同居していた。

桐島文子たちが創り上げた鳳凰殿もまた、この忘れがたい秋の光の中で、最も円熟した、静かな輝きを放ちながらも、万博の閉幕を迎えた。

◇14-2【鉄の男の微笑み、心通う最後の夜】

明治26年10月30日、シカゴ万国博覧会の閉幕日の夜。
昼間の喧騒が嘘のように、ジャクソン公園は静寂に包まれていた。
ミシガン湖から吹く秋風が、ウデッド・アイランドの木々を揺らし、水面を渡っていく。

その暗がりに沈む島の中心に、鳳凰殿だけが、ぼんやりと光の島のように浮かび上がっていた。
池の周囲に配された数多の日本の灯籠(とうろう)が、温かく、そして幻想的な光を放っている。

桐島文子、大野健吾、市駒、そして市乃。 四人は、縁側から続く特設席で静かに、その時を待っていた。
やがて、暗闇の向こうから、一つの人影が、ゆっくりとこちらへ近づいてくるのが見えた。
この夜の懇話会、たった一人の招待客、ダニエル・ハドソン・バーナム、その人だった。
彼は、一人だった。供も連れず、まるで夜の散歩を楽しむかのように、ゆっくりとした足取りで、灯籠の光が作る小道を進んでくる。 光の中に入り、影に入り、そしてまた光の中に、その威厳に満ちた姿を現す。

鳳凰殿の前に立った彼は、まず月明かりに照らし出されたその優美な建物を、しばらく無言で見上げていた。
そして出迎えた桐島たちに、静かに頷きかけた。 「…招きに感謝する、ミズ・キリシマ」

その夜の懇話会は、彼一人のための特別なものであった。
今宵、ここには拍手も、感嘆のどよめきもない。
あるのはミシガン湖から渡る風の音と、二つの文化が対峙する、濃密な静寂だけだった。

特別席にバーナムが腰を下ろす。 桐島は、その隣に座し、目の前に座す男の横顔を、そっと見つめた。
(ダニエル・ハドソン・バーナム…この壮麗な万博を創り上げた、絶対的な権力者)
彼女は、この日のために、彼の全てを研究した。
(そして…このシカゴの街を、かつて全てを焼き尽くした、あの大火の灰の中から、これほどの白亜の摩天楼が輝く大都市へと、不死鳥の如く蘇らせた男…)
桐島は、ゴクリと喉を鳴らした。
(彼に、私たちの『再生』の物語は、果たして、本当に通じるのだろうか…)

それは彼女の最後のそして最大の賭けだった。
桐島は、静かに市駒へと目配せをした。
それを受け、市駒が、ゆっくりと三味線の撥(ばち)を握る。

闇の中、凛とした三味線の音が、一つ響き渡った。
そして、語りかけるような、張りのある、しかしどこか切ない市駒の唄声。
その音色に誘われるように、純白の衣装に身を包んだ市乃が、すっと月光の下に進み出た。
演目はこの夜のためだけの特別演目「鳳凰、再生の舞」

舞は、地面に打ちひしがれるような、苦悩の所作で始まった。
バーナムは、腕を組み、厳しい表情でその動きを見つめていた。
だが彼の目に映っていたのは、もはや遠い異国の舞姫の姿ではなかった。
彼の脳裏に焼き付いて離れない、あの日のシカゴ。
炎に崩れ落ちる街、 灰の中で泣き叫ぶ人々。 舞姫の苦悶の表情が、あの日の記憶と不思議なほどに重なって見えた。

だが唄声が次第に力を帯びるにつれ、 市乃の動きも、天を仰ぎ、何かを掴もうとするような、力強いものへと変わっていく。
バーナムは、息をのんだ。それは、瓦礫の中から、最初の鉄骨が空へと伸びていく、
あの光景に似ていた。
灰の中から、それでも立ち上がろうとする、人間の意志そのものだった。

そして、クライマックス。 全ての想いを解き放つかのように、彼女の袖が、大きく、そして華麗に宙を舞った。
それは、まさしく伝説の鳥が、長い苦しみの末に、炎の中から蘇り、シカゴの夜空へと、高らかに羽ばたいていく姿そのものだった。彼は、舞を見ていたのではない。彼は自らの人生を見ていた。

舞が終わり、拍手よりも重い、深い静寂が、バーナム、桐島、大野を包んだ。
虫の音と、風の音だけが聞こえる。

バーナムは長い間、身じろぎ一つしなかった。
厳格な横顔は、彫像のように動かない。 やがて、彼は内ポケットへゆっくりと手を伸ばした。
だがその指先がわずかに震え、愛用の葉巻を取り出そうとする手が、ふいに止まった。

静寂を破ったのは、桐島のささやくような声だった。
「今宵の舞は『再生』。灰の中から蘇り、天へ還る姿でございます」

そこで、彼女は言葉を切った。 バーナムが、はっと顔を上げた。
彼の視線が鳳凰殿を越え、その背後に広がる夜のシカゴの摩天楼
――彼が心血を注いだ「ホワイトシティ」の輝きへと吸い込まれていく。
「……再生か」
彼は、独白のように低く呟いた。
「そうか、この街と同じだな」

バーナムは、再びゆっくりと視線を戻し、夜空に佇む鳳凰殿を見つめた。
その瞳には、もはや万博総監督としての冷徹な光はなく、ただ純粋な美に打たれた一人の男の静かな畏怖が宿っていた。
「……美しいな。我々の街も、君たちの鳳凰も」
ぽつりと漏れたその一言は、どんな賛辞よりも重く、桐島の胸に響いた。

彼は静かに立ち上がると、桐島に向き直った。
「君の方法は、当初、私の理念にはそぐわなかった。だが、君はただ文化を伝えただけではない。この私に、私がこの街と共に歩んできた人生そのものを、思い出させてくれた」
彼は、わずかに口元を緩めた。
「感謝する、ミズ・キリシマ」

それは、あの「鉄の男」からの、最大限の称賛と、そして魂のレベルでの、深い理解の言葉であった。
桐島文子の目からも、また一筋、熱いものが頬を伝った。 長かったシカゴでの戦いが、今、確かに報われた瞬間だった。

バーナムは、深く頷くと、そっと桐島の肩に手を置いた。
「…君の仲間たちにも、礼を言わせてほしい」

彼の視線は桐島の背後、少し離れた鳳凰殿の縁側の下で、この歴史的な瞬息を、息を詰めて見守っていた男たちへと向けられていた。 建築家・久留正道と、その弟子である日本の職人たちだ。
彼らは、主君の勝利を見届けた、寡黙な家臣のように、ただ静かにそこに佇んでいた。

桐島は、バーナムの意図を察し、彼を伴って、ゆっくりと職人たちの元へと歩み寄った。
月明かりが、日焼けし、深い皺の刻まれた彼らの顔を、ぼんやりと照らし出す。
久留の前に立った桐島は、まず自らの言葉で、先ほどのバーナムとのやり取りを、 簡潔に、しかし心を込めて訳した。

「――以上です。久留先生、皆様。私たちの鳳凰は…ついに、このシカゴの空で、 最も高く美しく舞うことができました」

その言葉に、職人たちの中から、喉を鳴らすような低い声が漏れた。
ある者は、ごしごしと乱暴に目元を拭い、ある者は、ただ天を仰いで、何度も頷いている。
久留は、何も言わなかった。
ただ、その頑固な顔に浮かんだ険しい皺の奥で、 彼の瞳が、これまでにないほど優しく、そして潤んでいるのを桐島は見た。

そして、バーナムが、静かに一歩、前に進み出た。
桐島は通訳をしようと、すっと息を吸い込む。
だが、バーナムは、それを手で優しく制した。 彼は、言葉を発しない。
ただ、目の前に立つ、自分と同じように一つの建築物に人生の全てを捧げてきたであろう、東洋の「棟梁」の目を、じっと見つめた。 その視線には、もはや万博総監督としての威厳も、西洋人としての優越感もなかった。
あるのは、ただ、一人の創造主から、もう一人の偉大な創造主へ向けられた、 純粋で、そして何よりも深い、敬意の念だけだった。

やがて、バーナムは、ゆっくりと帽子を取り、胸に当てた。 そして、その大きな体を、深く折り曲げた。
それは、社交辞令の会釈ではない。西洋における最敬礼――脱帽による、心からの敬意の表明だった。
相手の魂そのものに語りかけるような、最も丁寧で、最も誠実な、一礼だった。

その、あまりにも雄弁な「言葉なき敬意」の表明に、久留は、驚きに目を見開いた。
だが、すぐに、その全てを理解した。自分たちが、この半年間、人生を賭けて刻み込んできた木の魂。
その声なき声が、今、確かに、この異国の、鉄の男の魂に届いたのだと。
久留もまた、その節くれだった両手を、すっと体の脇に揃えると、これまでで最も深く、そして美しい一礼を、静かに返した。

言葉を交わさずとも、二人の偉大な「職人」の魂が、シカゴの月明かりの下で、確かに通じ合った瞬間。
桐島は、その光景を、涙が滲むのも忘れ、ただじっと見つめていた。
(……ああ。私が、本当にしたかったことは、これだったのかもしれない)
言葉の架け橋となること。それ以上に、言葉さえも必要としない、 魂と魂が共鳴する、その奇跡の瞬間を、この世界に生み出すこと。 彼女のシカゴでの戦いは、今、本当の意味でその終わりを迎えた。

◇14-3【職人たちの心、木彫りの鳳凰】

大成功のうちに幕を閉じたシカゴ万国博覧会。
鳳凰殿の周囲では、日本の職人たちが、名残を惜しむように、しかし手際よく片付けを進めていた。
当初こそ桐島の型破りな手法に戸惑いを見せた彼らの顔には今、晴れやかな達成感が浮かんでいる。
作業の合間、職人頭である、年老いた宮大工が、仲間たちに促され、桐島の元へとやってきた。
彼は、無言で、手のひらに乗せた小さなものを差し出した。
それは鳳凰殿の建設で余った、最も美しい木目の檜の端材から、彼が手ずから彫り上げた、小さな、小さな木彫りの鳳凰だった。

「お嬢さん」 老職人は、訥々と語り始めた。
「あんたには『言葉』という、わしらにはない武器があった。わしらにゃ、この『木』を扱う腕しかねえ。だが、あんたのおかげで、この腕に込めた魂が、遠い異国の人たちにも届いた。…これは、わしら職人一同からの、心ばかりの礼だ。この鳳凰殿の、ひとかけらだと思って、受け取ってくだせえ」
桐島は、その小さな鳳凰を、震える手で受け取った。それは、どんな宝石よりも、温かく、そして重かった。

◇14-4 【黄昏の鳳凰殿、二人の軌跡】

帰国を翌日に控えた、ある晴れた午後。桐島は、大野健吾と共に、解体作業が始まる前の、静まり返った鳳凰殿を訪れた。
彼女は、夕陽に黄金色に染まるその優美な姿を、言葉もなくじっと見つめていた。

京都や東京での会議、シカゴでの数々の困難、バーナム氏との緊迫した交渉、 そして懇話会での奇跡的な瞬間。
自分が歩んできた一つ一つの道が、この鳳凰殿の輝きへと繋がっていた。
「…私一人では、何もできませんでした。大野さん、あなたがいなければ」
桐島が、ぽつりと言う。その言葉に、大野は、少しだけ照れたように、 しかし真っ直ぐに桐島を見つめ返した。
「滅相もございません。私は、あなたという気まぐれな鳳凰が、ほんの僅かな時間、 その翼を休めるための『止まり木』になれただけで、本望ですよ」

その朴訥だが、最大限の敬意と愛情が込められた言葉に、桐島は心からの感謝の笑みを浮かべた。
「この場所で、私たちは日本の文化と魂を、確かに世界に伝えることができましたね」
彼女の呟きには、深い安堵とそして確かな誇りが込められていた。

◇14-5【船上の誓い、雪解けの握手】

明治26年11月5日。 桐島文子、大野健吾、市駒、そして市乃らは、シカゴ港から日本へと向かう帰国の途についていた。
遠ざかっていくアメリカ大陸と、その上に広がるシカゴの街の光景を、桐島は甲板から静かに見つめていた。
半年以上に及んだ激闘の日々が、まるで夢のように思い出される。

その時、桐島は、ふと背後に人の気配を感じて振り返ると、そこには久留正道が立っていた。
彼は、無言で、そっと桐島に一つのものを差し出した。
それは一枚の、金箔で鳳凰が描かれた、あの栞だった。
懇話会で配られたものと同じだが、和紙の質も、金彩の輝きも、ひときわ見事に見えた。

「…これは?」
驚く桐島に、久留は、ぶっきらぼうに言った。
「余った材料で、職人たちが、あんたのために、礼代わりに作ったもんだ。 …わしが頼んだわけじゃない」
桐島は、その栞を、そっと受け取った。
かつて二人の価値観の対立の象徴だった、あの金箔。それが今、最高の贈り物となって、自分の手の中にある。

「桐島さん」
久留が、ぽつりと言った。
「あなたのやり方は、私は今でも全てを認めたわけではない。しかし、あれがなければ日本館は、そしてこの鳳凰殿は、ここまで世界に評価されていなかった。…世話になった」
それは彼なりの、最大限の称賛と感謝の言葉だった。桐島は胸に、温かいものが込み上げてくるのを感じた。

そして久留は、今度こそ改めて握手のために、その無骨な手を差し出した。
桐島もまた、その手を力強く握り返した。