シカゴを舞う京の鳳凰~あなたの財布で眠っている130年の誇り ―

◇12-1【許諾の光、そして新たな戦い】

バーナム総監督から「鳳凰殿特別懇話会」の開催許可を得たという報せが届いた瞬間、日本館の事務所の空気が一変した。
それまで鉛のように重く沈んでいた職人やスタッフたちの顔に、さっと血の気が戻り、瞳に生気が宿る。
「やるぞ!皆、中村会長の、そして京都の期待に応える時が来たんや!」
大野健吾が叫んだ。その声は微かに裏返り、握りしめた拳が小刻みに震えていた。

しかし、許諾の余韻に浸る間もなく、彼らの前には、開催日までの砂時計の残りの少なさと、山積みの課題が立ちはだかっていた。
特に、懇話会で提供する「日本のもてなし」の準備は困難を極めた。

「…あかん。これでは、お出しできしまへん」
ある日の午後、試作した京菓子を口にした市駒が、顔をしかめて皿を置いた。
シカゴの乾燥した気候と、硬質の水、そして手に入らない材料。それらが、繊細な京菓子の風味を奪い、舌触りをざらついたものに変えてしまっていたのだ。
「これでは、京の本当の味を伝えたことにはならへん…」
市駒は、自らの仕事に一切の妥協を許さない。
それはこの小さな菓子一つにも、京都の看板を背負っているという、職人としての骨太な矜持(きょうじ)だった。
一行は、夜遅くまでランプの油が枯れるのも忘れて知恵を絞り合った。
現地の食材で代用できるものはないか、調理法を工夫できないか…。
この小さな失敗と、それを乗り越えようとするひたむきな熱が、彼らの結束を鋼のように強くしていった。

◇12-2【鳳凰、飛翔の準備】

そこからの準備は、まさに秒針との戦いだった。許諾を得たとはいえ、開催までは、もう一週間もない。
日本館チームは、寝る間も惜しんで、それぞれの持ち場で、運命の夜へと突き進んでいった。

夜、宿の談話室は、三人の女性たちの静かな、しかし張り詰めた稽古場となった。

「文子様、この舞の、この部分どす。鳳凰が、一度、深く地に伏し、そして再び天に舞い上がる。ここの心を、どう言葉にしたら、異国の方にも伝わりますやろか?」

市乃が、濡れた瞳で問いかける。桐島文子は、ただの翻訳ではない、その動きが持つ「物語」を、最も心に響く英語へと昇華させるべく、辞書をめくる指を走らせる。
その横で、姉弟子の市駒が、切っ先鋭い刃物のような目で二人のやり取りを見つめていた。
「あかん、市乃。形だけ追うても、心は伝わらへん。あんた自身の心の中から、鳳凰を生み出すんや。シカゴのこの地で、蘇らせるんや!」
三人の女性たちは舞という「形」と言葉という「魂」を、完璧に一つにするため、東の空が白むまで演目を練り直していった。

一方、昼間の鳳凰殿の建設現場では、職人たちが棟梁である久留正道の指導のもと、最後の美装と懇話会で披露する「技」の準備に取り掛かっていた。

「いいか、お前たち。我々が見せるのは、ただの木工細工ではない。釘一本使わずとも、千年先まで狂わぬと信じて木と向き合う、日本の職人の『心意気』そのものだ」
久留は、実演で使う檜の部材を、まるで我が子の頬を撫でるように、丁寧に、何度も、その手で磨き上げていく。

他の職人たちもまた、床を掃き清め、柱を磨き上げ、鳳凰殿全体を最高の舞台として整えていく。
その背中には、もはや当初の重苦しさはなく、自分たちの仕事が世界に晒されるのだという、武者震いにも似た気が満ちていた。

その間、桐島と大野は、招待客の選定と、招待状の準備に奔走していた。
「桐島さん、この大学教授は、以前、東洋美術に対してかなり批判的な論文を書いています。彼を招くのは、危険では?」

大野の現実的な懸念に、桐島は、首を横に振った。その表情は硬い。
「いいえ、大野さん。そういう方にこそ、来ていただかなければ。私たちのやり方を理解してくださる方だけを招くのは、ただの自己満足です。最も懐疑的な方にこそ、本物の衝撃を届けられてこそ、私たちの真の勝利ですわ」
二人は、シカゴの新聞社、大学、各国領事館のリストを前に、誰に、どのような言葉で招待状を送るべきか、議論を重ねた。

その夜、一人になった桐島は、発送を待つ招待状の束を最後に見直していた。
その中の一通に彼女の指が止まる。
『シカゴ・イブニング・ポスト』のコラムニスト。日本館に対し、常に「猿真似」「文明の模倣」と、理屈の通じない侮蔑的な記事を書き続けてきた男だ。

昼間、大野に語った「懐疑的な方にこそ」という高潔な言葉が脳裏をよぎる。
しかし、彼女の瞳から、ふっと温度が消えた。
「…とはいえ、毒にしかならない猛毒を、わざわざ飲み込む必要はありませんわね」

彼女は無表情のままその一通を抜き取ると、くしゃりと無造作に丸め、ゴミ箱の奥底へと押し込んだ。
綺麗な理想論は、表向きの顔。勝つためには、排除すべきリスクは徹底的に排除する。
「これも、勝利のために…」 彼女は低く呟くと、残りの招待状を丁寧に鞄にしまった。

そして、全ての準備が大詰めを迎えた夜。桐島文子は、一人、自室の机に向かっていた。
目の前には、白紙の原稿用紙が何枚も、無惨に丸められて転がっている。
彼女に残された、最後の、そして最大の仕事。懇話会で、彼女自身の口から語られるべき、解説とスピーチの原稿だった。

(『美は、不完全なものを完全に見ようとする心にある』……。美術的指導を仰いだ岡倉天心氏が遺したあの言葉を、どう英語で紡げばよいのか。いや、久留先生の、あの頑ななまでの矜持も、伝えなくては……)

「言葉で日本文化の魂を伝えるとは、一体どういうことなのか?」
その、果てしない問い。答えは、まだ見つからない。
それでも彼女は、この特別懇話会という千載一遇の機会に、その答えを見つけ出し、そして世界に示してみせると固く誓っていた。 彼女のペンは、また一枚、新しい原稿用紙の上を、迷いながらも、紙を削るほどの強さで走り始めた。

◇12-3【一枚の栞(しおり)に込める魂】

懇話会の準備が進む中、桐島文子は、最後の仕上げとなる「記念品」の製作に取り掛かっていた。
彼女が考案したのは、手漉きの和紙に、鳳凰殿の姿を金彩で描き出した美しい栞(しおり)だった。
あの夜、市乃が記念コインを喜んだ姿が、彼女にこのアイデアを与えてくれた。
(言葉や記憶だけでなく、手の中に残る、確かな『証』を…)
しかし、その金彩に使うための、日本の質の高い金箔が手元にない。
桐島は、意を決して、建築現場で指揮を執る久留正道の元を訪ねた。

「久留先生、ご相談が…」
以前の対立が嘘のように、久留の態度は和らいでいた。
彼は、桐島の話に黙って耳を傾ける。
「…懇話会に来てくださった方々への記念品として栞を作っております。つきましては、その装飾のためにほんの少しだけ、あの金箔を分けていただくことはできませんでしょうか?」

彼女が指したのは、以前、久留が「内装用だから」と使用を拒んだ、あの予備の金箔だった。
久留は、一瞬、眉間に深い皺を刻んだが、すぐに、ふっと息を吐くと、ぶっきらぼうに、しかし口元をわずかに緩めてこう言った。

「…ふん。幸い、予備の分は手付かずで残っておる。…好きに使うがいい。 どうせ、このまま日本に持ち帰っても、中途半端な量では使い道もないからの」

その言葉で、二人の間にあった見えない壁が、音もなく崩れ去った。
その夜から、宿の談話室では、新たな作業が始まった。 桐島、大野、市駒、市乃の四人が、一枚一枚、和紙に金箔を施していく。
指先を金色に染めながら進められるその作業は、互いの呼吸を合わせなければ成し得ない、まさに日本チームの「魂」が込められた、特別な栞の誕生だった。

◇12-4【シカゴ万博開幕】

明治26年(1893年)5月1日、ついにシカゴ万博が開幕した。
シカゴの空はこの日を待ちわびた数十万人の熱気で、陽炎が立つようだった。
万国の旗が風に千切れんばかりにはためき、ミシガン湖の陽光を浴びて、壮麗な白亜のパビリオン群「ホワイトシティ」が、地上に現出した神々の都のように目を焼くほどの輝きを放っている。

軍楽隊の奏でるファンファーレが鼓膜を震わせる中、ついにその時が来た。
大統領が黄金のスイッチを押した瞬間、巨大なマクモニーズの噴水が天高く水を噴き上げ、万博会場の全ての機械が一斉に地響きのような唸りを上げて動き出す。
それは、蒸気と電気という、新しい時代の力が、全世界に向けてその誕生を告げた、歴史的な産声だった。

◇12-5【鳳凰殿特別懇話会、運命の夜】

シカゴ万国博覧会、開幕日の夜。 昼間の喧騒と、万人が祝う熱狂的な祝祭が、閉園の合図と共に、潮が引くように静寂へと道を譲っていく。
それこそが日本館にとっての、もう一つの、そして真の「初日」が始まる合図だった。
日本の運命を賭けた、選ばれし者だけが招かれる、特別な宴が始まろうとしていた。

ミシガン湖からの夜風が、心地よくウデッド・アイランドの木々を揺らす。
昼間の喧騒が嘘のように、あたりから音が消えた。 月明かりと、池の周囲に配された数多の日本の灯籠(とうろう)。
その柔らかな光に照らし出された鳳凰殿は、白木の肌をほのかに黄金色に染め上げ、闇の中に浮かび上がっている。
その姿は、鏡のような水面(みなも)に映り込み、まるで天上の楼閣が、この地上に束の間、姿を現したかのようだった。

しかしよく見れば、それはまだ完璧な姿ではなかった。
屋根瓦はまだ一部しか葺かれず、その隙間から、まるで天からの光の筋のように、月光が堂内へと差し込んでいるのが見える。
壁もまだ完全ではなく、真新しい檜の香りが、あたりに濃厚に漂っていた。
闇に目を凝らせば、建物の側面には、まだ足場の一部が、巨大な鳥の巣のように残されている。

だがその未完成の状態こそが、この夜の鳳凰殿に二度とはない特別な生命感を与えていた。
それは、完成という静止の瞬間に向かう、まさに「創造の過程」そのものが放つ、血管が脈打つような、生々しい輝きだった。

続々と集まってくるのは、バーナム総監督がそのリストを自ら吟味した、選りすぐりの招待客たちだ。
シカゴの政財界の重鎮、各国の外交官、著名な文化学者や大学教授、そして、あのシカゴ・トリビューン紙のベテラン記者、ジョン・マクレガーの姿もあった。
彼らは皆、昼間の喧騒から隔絶されたこの静謐な空間に足を踏み入れた瞬間、お喋りを止め、ただ建物を仰ぎ見た。
会場には、誰かが咳払い一つできないような、張り詰めた期待が満ちていた。

やがて、桐島文子が、ろうそくの灯りを手に、静かに姿を現した。

「皆様、今宵は、私たちの鳳凰殿へようこそお越しくださいました」
流暢で、知的な、そしてどこか鈴の音を思わせるような彼女の英語が、夜の空気に染み渡る。
そこから鳳凰殿の内部を巡る、特別なガイドが始まった。

それは単なる建築様式の解説ではない。
「この柱と梁が、一本の釘も使わずに組み合わさっているのは、木そのものが持つ命の力を信じているからです。木と木が、互いに呼吸し、支え合う。そこには、自然と共に生きる、私たちの精神が宿っております」
「この、あえて左右非対称に作られた空間の配置。それは、完璧ではないものの中にこそ、真の美しさを見出そうとする、私たちの美意識の表れなのです…」
柱の一本一本に込められた思想、欄間の彫刻に託された物語。
そして日本の空間美が生み出す静寂と調和。彼女の言葉は、西洋の合理主義とは全く異なる、深く、そして豊かな精神世界への扉を開いていく。
招待客たちの間から、ほう、という低い吐息が何度も漏れた。

やがて一行は、鳳凰殿が最も美しく水面にその姿を映す、池のほとりの特別席へと導かれる。
そこで、今度は市駒が、艶やかな撥(ばち)さばきで三味線を構えた。
彼女の張りのある、しかしどこか切ない唄声が、夜の闇を切り裂く。
その音色に誘われるように、市乃が、まるで淡い光の中から生まれ出たかのように、すっと舞台の中央に進み出た。

一瞬の空白。そして舞が始まる。 それは、蝶のように軽やかで、柳のようにしなやかだった。
翻る袖は、まるで鳳凰の翼そのもの。伏せられた目元には千年の物語が宿り、そっと差し出された指先からは、京の都の香りが立ち上るかのようだった。 西洋のバレエのような、天を目指す跳躍はない。
しかし重心を低く、すり足で大地を踏みしめるその動きの一つ一つが、かえって観る者の視線を釘付けにし、瞬きさえ忘れさせた。

舞が終わっても、誰も動かなかった。夜風の音だけが聞こえる。
次の瞬間、空気が破裂したかのような音が会場を叩いた。
拍手だ。 隣に座るマクレガー記者が何かを叫んでいるが、その声さえも波のような轟音にかき消されて聞こえない。
床板を通して、百人の掌が打ち鳴らされる振動が、びりびりと足裏に伝わってきた。

興奮冷めやらぬ中、今度は、あの寡黙な建築家、久留正道が、数人の弟子と共に、静かに前に進み出た。
彼の前には、複雑な形に切り出された木材が置かれている。彼は言葉を発しない。
ただ、手にした木槌と鑿(のみ)を使い、寸分の狂いもなく、それらの木材を組み上げていく。
釘も接着剤も何もない。
ただ木と木が、互いの形を求め合い、カコン、と乾いた、しかし心地よい音を立てて完璧に一つになる。
その神業のような木組みの技の実演に、客席にいた建築家の一人が、信じられないといった様子で身を乗り出し、眼鏡を直した。

そして、宴の締めくくりは、市駒が自ら点(た)てる一服の茶と
気候の違いを乗り越え、見事に再現された繊細な京菓子による、もてなしだった。

客たちは、茶碗の温かさを両手で包み込み、その液体を喉に通した瞬間、ふっと肩の力を抜いた。
張り詰めていた空気が緩み、会場全体が柔らかな安らぎに包まれていく。

「これが…日本の精神(スピリット)なのか…」
「なんと奥深く、そして…美しい…」

そんな囁きが、さざ波のように広がる。
マクレガー記者は、興奮で赤らんだ顔で、ペンの先が潰れそうな勢いで手帳に書きなぐっている。
彼はもはや、ただ記事を書いているのではなかった。
伝説が生まれる瞬間を、歴史に刻みつけていたのだ。
「日本の魂は、今夜、間違いなく、世界の心を掴んだ」

「これで何とか日本や京都の想いを、世界に伝えていく、その第一歩を、踏み出せたわ…」
桐島は、震える手で胸元を押さえ、その光景を見守っていた。
彼女の、そしてチーム全員の戦いが、今、確かに報われようとしていた。

◇12-6【和解の金箔、同志の証】

宴の余韻がまだ会場を温かく満たす中、桐島文子は、名残を惜しむように言葉を交わす招待客一人ひとりに、丁寧に感謝の言葉を述べながら、「特製和紙金箔入りの鳳凰殿柄の栞」を記念品として、そっと手渡していった。
ある者はそれを大切そうに胸のポケットにしまい、ある者は月にかざしてその金彩の輝きに見入っていた。

全ての客が帰り、静寂が戻ったその時。
それまで腕を組み、懐疑的な表情を崩さなかった久留正道が、桐島の傍らに歩み寄り、低い声で、しかしはっきりと言った。

「…桐島君、見事だった。やり遂げたな…」

その短く太い言葉。桐島の視界が、一瞬にして滲んだ。
鳳凰殿懇話会は、成功した。
それはシカゴ万博の数ある催しの中でも、ひときわ異彩を放ち、最も知的で、最も心震える文化体験として、参加した全ての人々の記憶に焼き付いたのである。

◇12-7【シカゴの日常、ささやかな成功】

懇話会の成功は一夜にして日本館の評価を劇的に高めた。
一般公開が始まった鳳凰殿には、連日、建物の周りをぐるりと取り囲むほどの長蛇の列ができた。

数日後の昼下がり、桐島と大野が、その様子を感慨深げに眺めていると、一組のアメリカ人家族が、興奮した様子で鳳凰殿から出てきた。小さな男の子が、桐島に気づくと、駆け寄ってくる。
「ミス! どうして、あのお家には、お庭の中に、お水があるの?」
それは鳳凰殿が池に映る様を、子供らしい素直な言葉で表現した質問だった。
桐島は屈み込むと、子供の目を見て、優しく答えた。
「それはね、このお家が、いつでも自分自身の美しい姿を眺めていられるように、大きな鏡を置いてあげたのよ」
男の子は、目を輝かせ「わあ!」と声を上げた。その子の父親が、帽子を取り、桐島に深々と頭を下げた。
「素晴らしい解説を、ありがとう。新聞で読みましたが、本当に魂のこもった美しいパビリオンだ。シカゴに来てくれて、ありがとう」

人々はもはや単に物珍しい建物を眺めるだけでなく、その背景にある日本の精神性や物語にまで、深く関心を寄せ始めていた。
桐島文子の、そして日本チームの長い戦いが、今、輝かしい成果となって、確かに結実し始めていた。