シカゴを舞う京の鳳凰~あなたの財布で眠っている130年の誇り ―

◇11-1【新聞記事掲載、シカゴに走る衝撃】

あの夜、桐島文子と一杯の静寂を分かち合った後、ジュリエット・ロシュフォールは、独り、宿の自室に戻っていた。
窓の外では、万博会場のイルミネーションが、まるで宝石を撒き散らしたかのように輝いている。だが、その輝きは、今の彼女の心には届かなかった。

机の上には、編集長に突き返された、赤インクで汚された原稿が、無惨な姿で横たわっている。
その隣には、彼が要求する、扇情的なゴシップ記事のための白紙の原稿用紙。
キャリアを守るためには、魂を売り、この白紙を偽りの言葉で埋めなければならない。だが、果たしてそれでいいのか。

(……あなたのペンは、まだ死んではいないはずです)

桐島の、あの静かな声が耳の奥で蘇る。 ジュリエットは、目を閉じ、今日の出来事を反芻した。権力に屈した自分。
そして、同じように打ちのめされながらも、敵である自分にさえ、一杯のもてなしを示した、あの日本人女性の姿。 彼女の手のひらに、まだ抹茶の湯呑の、あの温もりが残っている気がした。

ふと、彼女は机の引き出しから、これまで日本館を取材してきた分厚い手帳を取り出した。 そこに書き殴られているのは、彼女自身の言葉。

『久留という職人の常軌を逸したまでの完璧主義。あれは狂気か、あるいは信仰か』
『市駒という芸妓の一分の隙もない所作。自分を消すことでより大きな美を宿すという、矛盾した哲学』
そして、何よりも多くのページを占めているのは、桐島文子という女性の言葉だった。
『死せる石に人間の力を示す文化と、生ける木に自然の魂を聞く文化』
『私たちの時間は、あなたの懐中時計のようには進まない』

それらは、彼女が論破するために書き留めた、敵の言葉のはずだった。
だが、今改めて読み返すと、そこには、自分がこれまで信じてきた美学とは全く違う、 しかし無視することのできない、もう一つの宇宙が広がっていた。
(……ジャーナリストが書くべき真実から目を背けて、どうするというの)

ジュリエットは顔を上げた。その瞳にはもはや迷いの色はなかった。 彼女は、編集長に汚された原稿を、破り捨てた。
そして、ゴシップ記事のための白紙の原稿も、くしゃくしゃに丸めて屑籠へと投げ捨てる。
代わりに、一枚の、新しい原稿用紙を机の上に置いた。 彼女はペンを握る。それは、もはや給料のための道具ではない。
彼女自身の魂の、唯一の武器だった。

カリカリ、とペンが走る音だけが、静かな部屋に響く。
彼女は、書き出しからして、これまでの自分のスタイルを全て捨て去った。
客観的な報道ではない。これはジュリエット・ロシュフォールという一人の人間が、 このシカゴの地で出会ってしまった、驚くべき魂の物語なのだ、と。

彼女は書いた。西洋の壮麗な石の建築を、神々の物語を刻みつけた「足し算の美学」の頂点として、最大級の賛辞と共に。
そして、それに続く形で、日本の鳳凰殿を全く異なる次元に存在する「引き算の美学」の結晶として、読者の前に提示した。
無駄なものを極限まで削ぎ落とし、一本の柱、一枚の壁の内に、宇宙を宿そうとする 静かな、しかしあまりにも豊かな精神世界を。

彼女は書いた。職人たちの沈黙の仕事ぶりを、単なる労働ではなく「木との対話」と。 芸妓たちの抑制された舞を、個性の放棄ではなく「自然との一体化」と。
そして、桐島文子という女性の戦いを、二つの文化の狭間で引き裂かれながらも、 その両方を深く理解し、世界を結びつけようとする、新しい時代の巫女の姿として。

全てを書き終えた時、窓の外は、白み始めていた。
ジュリエットは、この記事をシカゴ支局の編集長には送らなかった。
彼女は、電信を使い、この記事をパリの『フィガロ』本社と、そして、以前から彼女の才能を高く評価していた、シカゴで最も権威ある新聞『シカゴ・トリビューン』紙の編集主幹に、直接送りつけた。
これが、最後の手紙になるかもしれない、という覚悟と共に。

そして、翌日の夕刊。 日本館の事務所に、一本の電話が鳴り響いた。 懇意にしているアメリカ人スタッフからの、興奮した声だった。 「ミス・キリシマ!大変だ!トリビューン紙を、今すぐ見てくれ!」

大野が、慌てて街へ走り、数十分後、息を切らしながら事務所へと駆け込んできた。
その手には、まだインクの匂いも新しい、シカゴ・トリビューン紙が握られている。
彼は、震える指で、その一面をテーブルの上に広げた。 そこに印刷されていたのは、写真家アリス・ハミルトンが撮影した、朝靄の中に浮かび上がる、幻想的な鳳凰殿の巨大な写真。 そして、その横に、息をのむような見出しが、躍っていた。

『美の聖域は、一つではなかった。―シカゴの森に、もう一つの魂が息づいている』

桐島は、その記事に、吸い寄せられるように目を走らせた。
その格調高い、しかし情熱的な文章。
そこには、自分とジュリエットが、これまで交わしてきた言葉の全てが、より深く、より美しい形で綴られていた。
そして記事の最後は、こう結ばれていた。

「……我々西洋人が神々の物語を石に刻み付けたのだとすれば、彼ら日本人は、自然と人間の魂の物語を、一本の木、一輪の花、そして一人の舞姫の内に見出す。シカゴの森に迷い込んだのは、小さな木箱ではなかった。我々の知らない、もう一つの偉大な美の聖域そのものであった」

署名欄には、一人の女性ジャーナリストの名前。
『ジュリエット・ロシュフォール』

「……ジュリエットさん……」
桐島の瞳から、こらえていたものが、静かに一筋、流れ落ちた。
それは、自分のプロジェクトが救われたことへの安堵の涙だけではなかった。
自分の信じるものが、最も手ごわい論敵に認められた喜び。
そして一人のジャーナリストが、キャリアを賭してまで、自らの魂に忠実であろうとした、その気高い姿への、深い敬意の涙だった。

その日の夕暮れ、桐島は、ジュリエットを探した。
彼女は、鳳凰殿が最も美しく見える、池のほとりに、一人、静かに立っていた。
鳳凰殿には、記事を読んだ人々が、昼間から長蛇の列を作っていた。 その喧騒を、ジュリエットはどこか満足げに、しかし少しだけ寂しそうに眺めている。

「……素晴らしい、詩を読ませていただきましたわ」
桐島が声をかけると、ジュリエットはゆっくりと振り返った。
「詩、ですって?光栄ね。ただ、私が見たものを、ありのままに書いただけよ」
その表情には、いつものような棘はなかった。
「それに、どうやら私は、フィガロ紙をクビになったみたい。編集長、カンカンだったそうよ」
ジュリエットは、自嘲するように笑う。だが、その顔は、不思議なほど晴れやかだった。
「でも、後悔はしていないわ。真実を書けない記者など、死んでいるのと同じ。 そのことを、思い出させてくれたのは、あなたよ、フミコ」

初めて、彼女は桐島を、ファーストネームで呼んだ。
「これから、どうなさるの?」
「さあね。フリーのジャーナリストとして、もう一度、一からやり直すつもりよ。 あなたのその鳳凰のようにね。灰の中から、何度でも」

二人の間に、心地よい沈黙が流れる。 やがて、桐島が、そっと右手を差し出した。
「ありがとう、ジュリエット。私の、一番の、好敵手(とも)よ」
ジュリエットは、一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに、これまでで最も美しい笑みを浮かべると、その手を、力強く握り返した。
「こちらこそ。ありがとう、フミコ」

それは、国も、文化も、信じる美学も超えて、ペンで戦う二人の女性の間に生まれた、固い、固い友情の証だった。

◇11-2【鉄の心が動く時 ~再考の余地~】

シカゴ万国博覧会総監督、ダニエル・ハドソン・バーナムの執務室は、静寂と秩序の支配する城だった。
磨き上げられたマホガニーの机には、この白亜の都「ホワイトシティ」を運営するための書類が、まるで建築物のように整然と積み上げられている。 彼にとって、この博覧会は単なる祭典ではない。
混沌とした沼地の上に、人間の理性と意志によって築き上げた、完璧な調和の世界。 その秩序を乱すものは、一片たりとも許容できない。

その日の午後、淹れたてのコーヒーの香りが室内に満ちる中、彼は日課である主要各紙のチェックに目を通していた。 そのほとんどは、彼が意図した通り、万博の壮麗さやアメリカの技術力の高さを称賛する記事で埋め尽くされている。
すべては計算通り。そのはずだった。
だが、シカゴ・トリビューン紙の第一面に躍る、巨大な写真と見出しに、バーナムの眉が、ぴくりと動いた。
『美の聖域は、一つではなかった。―シカゴの森にもう一つの魂が息づいている』

写真に写っているのは、あの建設が遅れている日本のパビリオン。
しかも、まだ足場も残る、未完成の姿。本来であれば、準備不足の失態として片付けられるはずのその光景が、写真家アリス・ハミルトンの手にかかると、朝靄の中で神々しいまでのオーラを放つ、神秘的な聖域のように見えた。

「……くだらん感傷記事を」
バーナムは、最初はそう吐き捨てようとした。 だが、続く本文に目を通すうちに、その表情は次第に険しいものから、深い思索の色へと変わっていった。 署名は、ジュリエット・ロシュフォール。
あのフランスの、常に批判的で怜悧な記事を書く記者だ。
彼女が、これほどまでに情熱的な、ほとんど詩のような文章を書くとは。

記事は単なる称賛ではなかった。
「完成」を至上とする西洋に対し、「過程」に魂を見出す日本の精神性を、驚きと敬意をもって鮮やかに対比させている。
建築家として、そしてこの白亜の都の主として、その論理の凄まじさに、彼は思わず唸った。

(……やられたな)

脳裏に、あの日本人女性の言葉が蘇る。――「物語」と「仕掛け」。
彼女は「遅延」という致命的な弱点を、この上なく知的なブランド価値へと塗り替えてみせたのだ。
バーナムは、感傷では動かない。だが、彼は合理的な計算と、それがもたらす「結果」には敏感だ。
この記事が生み出すであろう、世論の巨大なうねりを、彼は瞬時に計算していた。
これは、もはや一国のパビリオンの評判には留まらない。
万博そのものに、「ただの産業見本市ではない、真の文化交流が生まれる場所だ」という、金では買えない付加価値を与える最高の宣伝になる。

「……日本館の影響力、もはや無視することはできんな」
彼の呟きは、誰に聞かせるともなく、しかし確かな変化の兆しを孕んでいた。

時を同じくして、その日の午後に開かれた万国博覧会の緊急運営会議でも、 日本館に関する意見は、すでに出始めていた。
「総監督、トリビューン紙の記事、ご覧になりましたか。現在、この記事はシカゴ中の知識人や外交官たちの間で、大きな話題となっています」
バーナムの側近の一人が、彼の顔色を窺うように進言した。
「当初は、建設の遅れを懸念する声もありましたが、この記事によって、日本館は今や『最も知的で、最も独創的な試みを行っているパビリオン』として、注目を集め始めています。これは万博全体の文化的価値を、我々の予想以上に高める、またとない好機かもしれません。むしろ、我々から積極的にこの動きを推すべきでは?」

別の委員からも声が上がる。
「この記事を読んだ各国のVIPから、『あの日本館を、もっと深く知る機会はないのか』という問い合わせが、すでにいくつか事務局に寄せられております。このままでは、 我々がその貴重な機会を潰している、と批判されかねません」

バーナムは、その報告を腕を組み、黙って聞いていた。
彼の脳裏には、数日前に執務室で見た、あの桐島文子の、決して諦めない強い瞳の光が、蘇っていた。 彼女は、ただ理想を語っていたのではなかった。
その理想を、現実の力へと変えるための、周到な戦略と、そしてそれを実現させるだけの、恐るべき実行力を持っていたのだ。
やがて、バーナムは、深く考え込むように窓の外に視線を移すと、静かに、しかし有無を言わせぬ響きで、こう言った。

「……諸君の意見は分かった。確かに、日本館が予想外の形で、万博全体の利益に貢献し始めているのは、事実のようだ」
彼は、一度言葉を切ると、まるで初めてその存在に気づいたかのように、側近に問いかけた。

「ところで、先日、あのミス・キリシマが提案してきた『鳳凰殿特別懇話会』とかいう企画書は、まだ残っていたかね?」
その言葉は、他的鉄の心が、確かに動き始めたことを示す、 最初のそして決定的な一言であった。

◇11-3【再起の祝杯、決戦への鬨(とき)の声】

その日の夕刻、日本館の仮設事務所は、これまでの重苦しい沈黙が嘘のような、明るい熱気に満ち溢れていた。
テーブルの上には、普段は見ることのない安物のウイスキーの瓶や、 アメリカ人スタッフが差し入れてくれた祝杯用のビールが並び、部屋の隅では、職人たちが誇らしげに、そして何度も、あのジュリエット・ロシュフォールが書いた記事を回し読みしている。

「…『我々の知らない、もう一つの偉大な美の聖域』か。へへっ、あのフランスのお嬢ちゃんも、分かってきたじゃねえか」
「違えねえ。この記事を書かせたのは、桐島のお嬢さんの力だ。俺たちの仕事の魂を、ちゃんと言葉にしてくれた」
彼らの顔には、もはや先の見えない不安はない。 自分たちの仕事が、世界に正しく評価され始めたという、静かだが、何物にも代えがたい誇りが輝いていた。

その輪の中心で、市駒と市乃もまた、興奮した面持ちでグラスを傾けていた。
「姉さん、すごいどすなあ!この記事のおかげで、鳳凰殿を見に来はるお客さんが、昼間からずうっと、途切れしまへん!」
市乃が、頬を紅潮させながら言う。 市駒は、そんな妹弟子の姿に満足げに頷くと、輪の少し外れで、その光景を微笑みながら眺めている桐島の元へと、そっと歩み寄った。

「文子様」
市駒は、桐島のグラスにウイスキーを注ぎながら、ぽつりと言った。
「うちかて、お座敷で何度お客さんの前で恥かいて、もう舞うのなんか嫌や、二度と人前に出たない思うたか知れまへん。せやけどな、文子様。本物の一流ちゅうのは、転んだ場所で、何か一つでも掴んで立ち上がるもんや。…あんた様は、最高の舞を舞わはりましたえ」
それは、以前、桐島が暗い底にいた時に、市駒が心の中で思った言葉だった。
だが今、その言葉は、深い尊敬と、揺るぎない信頼を込めた、祝辞として贈られた。

桐島は、その言葉に、胸が熱くなるのを感じた。
ジュリエットとの友情、そしてこの記事の成功。 だが、何よりも嬉しいのは、こうして仲間たちが、心からの笑顔を取り戻してくれたことだった。

その和やかな祝勝会の空気を、静かに、しかし確かな意志を持って引き締めたのは、 大野健吾だった。
彼は、全員のグラスが満たされているのを確認すると、おもむろに立ち上がり、 部屋の中央に進み出た。

「皆さん、今宵はまことにおめでとうございます。この一杯は、我々の小さな、 しかし偉大な勝利を祝して。そして、この勝利を我々にもたらしてくれた、桐島さんと…そして、好敵手(とも)となってくれたジュリエット記者に」
大野がそう言ってグラスを掲げると、全員が「乾杯!」と力強く唱和した。

祝賀の熱気が最高潮に達したその時、大野は、真っ直ぐに桐島を見据えた。
その瞳には、もはや心配の色はない。副官が、自らの信じる総大将の覚悟を問うような、理知的で、そして熱い光が宿っていた。

「桐島さん」
彼の声は、いつものように静かだったが、その場の全員の注目を集める力があった。
「先日の、バーナム総監督との交渉。…あれは、決して無駄ではなかった。 今なら、それがはっきりと分かります」
桐島が、訝しげに彼を見る。大野は続けた。
「あなたのあの交渉は、敗北ではありません。むしろ、我々が最後に勝つための、 見事な『布石』でした。私たちは、敵の城の最も奥深くに入り込み、その守りがどこにあり、そして城主が何を最も大切にしているのか…その『設計図』を、手に入れたではありませんか!」

その言葉は、もはや慰めではなかった。手に入れた情報を元に、次なる一手を考える軍師の力強い進言だった。
大野の言葉に、事務所にいた全員が、はっとしたように息をのむ。そうだ、まだ戦いは終わっていない。
最大の壁、ダニエル・バーナムが残っている。

大野は、皆の顔を見渡し、そして再び桐島に向き直った。
「桐島さん、ジュリエット記者の記事によって、我々には世論という、何物にも代えがたい追い風が吹いています。そして、あなたの手には、バーナム氏の『城の設計図』がある。今こそ、あの鉄の城を、我々が落とす時ではありませんか?」
「さあ、桐島さん。手に入れた『設計図』を使って、今度こそ、あの城を落としましょう!」

その言葉は、事務所にいる全員の心を、一つにした。そうだ、このままでは終われない。
この追い風を、最大の力に変えて、最後の扉をこじ開けるのだ。 市乃も、力強く頷き、桐島の袖を引いた。
「文子様…もう一度、『こんわかい』に挑戦しましょ…!市乃は、普段以上に、もっともっと上手に舞いますさかい!」

ジュリエットというライバルに認められた、自分たちのやり方。
シカゴ中を巻き込んだ記事の大反響という、これ以上ない追い風。
そして自らの戦いを、その本質を誰よりも深く理解し、信じ、最後の勝利を共に掴もうとしてくれる、かけがえのない仲間たち。

彼らの言葉と眼差しが、桐島の心に残っていた、バーナムへの敗北の記憶を、完全に未来への希望で塗り替えていく。
そうだ、諦めるのはまだ早い。この好機を、絶対に逃してはならない。

「……ありがとう、皆さん」
桐島は、ゆっくりと顔を上げた。 その瞳には、もはや迷いの色は微塵もなかった。
あるのは、仲間たちへの深い感謝と、最後の強敵を前にした、総大将としての、静かで、しかし燃えるような闘志だった。

「もう一度だけ…もう一度だけ、バーナム氏に直談判してみます」
彼女の声は、静かだったが、事務所の隅々にまで響き渡った。
「今度こそ、彼の『城』の設計図を元に、必ずや、彼を説得してみせるわ」
それは、悲壮な決意ではない。 確かな勝機と、仲間との絆に裏打ちされた、勝利宣言にも似た、力強い鬨(とき)の声であった。

◇11-4【最後の賭け、そして開かれる門】

数日後、桐島文子は、大野を伴い、再びバーナムの執務室のドアを叩いた。
彼女の胸には、新聞記事の反響という新たな武器と、仲間たちの励ましという温かい盾があった。

「ミズ・キリシマ」
バーナムは、以前の冷淡さとは異なる、どこか探るような、それでいてわずかに興味を隠せない目で彼女を見据えた。
「新聞は読んだ。なかなか面白いことをしてくれたようだね。それで、何の用かね? また『懇話会』の話かね?」

その先手を打たれながらも、試すような言葉。
桐島は、ここで怯むわけにはいかなかった。

「はい。その件で、改めてご提案に参りました、ミスター・バーナム」
桐島は、深く息を吸い込み、その大きな瞳で真っ直ぐに彼を見据えて言った。

「シカゴ・トリビューン紙の記事以来、幸いにも私どもの鳳凰殿は、これまでにないほどの注目を集め始めております。ですが、これはまだ小さなさざ波に過ぎません。この機を逃すべきではございません。この高まりつつある関心をさらに大きなうねりへと変えるため、影響力のある方々、各国のジャーナリスト、文化学者、そして外交官の方々を『鳳凰殿特別懇話会』にお招きし、彼らに日本の文化の真髄を深く、そして直接体験していただくのです。彼らがその深い感動を、それぞれの立場から、それぞれの言葉で世界へ発信してくだされば、日本館への関心は爆発的に高まりましょう」

桐島は、そこで一度、言葉を切った。
彼女はまず、この計画が「日本館にとって」いかに有益であるかを、自信をもって提示してみせたのだ。
しかし、バーナムは、表情を変えずに、静かに、そして鋭く切り返した。

「…なるほど。ミス・キリシマ、君の言うことは分かった。君が、自分のパビリオンを成功させたいという熱意は、よく伝わったよ」 彼の声は、穏やかだが、核心を突いていた。
「だが、なぜ、私が君の国の成功だけを、特別に手助けせねばならんのだ?」

会議室の空気が、再びぴんと張り詰める。大野が息を詰めて桐島を見守った。
バーナムの鉄壁の論理。しかし、桐島の瞳には、もはや揺らぎはなかった。

「おっしゃる通りです、ミスター・バーナム」
彼女は、一度、深く頷いた。
「もし、この試みが、単に日本館だけのためのものであれば、あなた様が『公平性』を 重んじるお心から、首を縦に振るはずがないことは、承知しております」
そして、彼女は、一歩前に進み出た。

その声には、先ほど以上の、揺るぎない確信が込められていた。

「だからこそ、これは日本館のためだけの提案ではございません。特別懇話会は必ずや、このシカゴ万国博覧会全体のさらなる盛況と、その文化的な評価を未曾有の高さへと押し上げることに、大きく貢献すると私は確信しております。各国の有力者たちが、この万博で『言葉に尽くせぬほどの、深く知的な文化体験をした』と世界に発信した時、それはもはや一国のパビリオンの評判には留まりません。『シカゴ万博は、ただの産業の見本市ではない。真の文化交流が生まれる場所だ』という、最高の栄誉を、この万博そのものにもたらすのです。これは、単に一国の展示を盛り上げるという話ではございません。万博そのものに、新たな価値と、そして忘れがたい美しい記憶を刻む試みなのです。どうか、もう一度だけ、ご検討いただけないでしょうか」

彼女の言葉には、もはや懇願の色はなかった。
それは、バーナムの掲げる「万博全体のさらなる成功」という大義に、正面から貢献してみせるという、堂々たる提案であった。

バーナムは、しばらくの間、無言で桐島を見つめていた。
その鋭い目が、彼女の言葉の裏にある価値と、 そしてリスクを、同時に測っているかのようだった。
執務室には時計の秒針の音だけが、やけに大きく響く。 大野は生きた心地がしなかった。

やがてバーナムは、組んでいた腕を解くと、ゆっくりと席を立ち、 執務室の大きな窓辺へと歩いていった。
彼の背中越しに、建設中の壮麗な「ホワイトシティ」が見える。

「…ミス・キリシマ」
バーナムは、窓の外を見つめたまま、静かに語り始めた。
その声は、どこか自分自身に言い聞かせているようでもあった。
「私の使命は、このジャクソン公園の混沌とした沼地の上に、寸分の狂いもない、完璧な秩序と調和の街を創り上げることだ。
全ての参加国は、私の定めたその『秩序』の上で、公平に、その価値を競う。それが、この万博の理念であり、私の哲学だ」

彼は、ゆっくりと振り返った。その瞳は、やはり鋼のように冷たい。
「君の提案は、その秩序に『例外』を設けろという要求だ。『不公平』を生めという挑戦だ。本来であれば、何度来ようと、決して認めるわけにはいかない」

桐島の胸が、ずきりと痛む。だが、バーナムの言葉は、そこで終わらなかった。
彼は、机の上に置かれていた、あのシカゴ・トリビューン紙を、指先でとん、と叩いた。

「…だが、君は、ルールそのものを変えようとしている。 君たちの『遅延』という失態を、見事な『物語』へと転換させ、世論を味方につけた。 これは、私の計算にはなかった要素だ。無秩序に見えるその手法で、結果的に、万博への新たな関心という『利益』を生み出しつつある」

バーナムは、桐島の席へと歩み寄り、初めて、彼女と視線の高さを合わせた。
「私は、感傷や情熱では動かん。だが、万博全体の利益に繋がる、合理的な提案ならば、話は別だ」
彼は、まるでチェスの名人が、次の一手を宣言するように言った。

「君の言う『特別懇話会』が、君の言う通り、万博全体の文化的評価を押し上げるというのなら…。その影響力を、私は試してみる価値があると判断した」

そして、彼は元の席へと戻ると、重々しく口を開いた。
「…よかろう。その『鳳凰殿特別懇話会』、条件付きで許可する」

桐島は、息をのんだ。信じられないという表情の彼女に、バーナムは、まるで契約書を読み上げるかのように、淡々と続けた。
「ただし、万博全体の運営に支障をきたさぬよう、開催は一般公開終了後の夜間に限定する。そして、招待客は真に影響力のある人物に絞り、そのリストは事前に私の承認を得ること。警備と運営の責任は、全面的に日本館が負う。…これで合意できるかね?」

それは依然として厳しい条件ではあったが、紛れもなく「許可」であった。
「…はい!ミスター・バーナム!その条件、謹んでお受けいたします!必ずや、あなたの期待以上の成果をお見せいたします…」
桐島は、込み上げるものを抑え、力強く応えた。

鉄の男の、鉄の論理。それを打ち破ったのは、情熱だけではない。
彼の論理すらも利用し、より大きな利益を提示してみせた、彼女自身の、知恵と戦略だったのだ。
ついに、彼女の理想を実現する道が、細くとも確かに開かれた瞬間だった。